複雑・ファジー小説
- Re: ハートのJは挫けない ( No.48 )
- 日時: 2018/07/07 20:10
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
浮辺は、そう言ってその瞼をゆっくりと下ろした。
「……」
彼はもう、起きることは無いだろう。目の前の女が、打ち倒されない限り。それは彼だけの話ではない。八取兄妹もだ。そして、他の俺達の知らない被害者達もだ。
全ての原因は今、俺の視界の中にいる。
「……ムカワ……!」
少し離れた場所に居るレインコートを、俺はそう呼んだ。顔が分からなくても、そのハートは一度見たら忘れるものではない。刀で切り裂いたものの命を仮死させる恐ろしいハートの《心を殺す力》。
「御機嫌よう」
帰ってきたのは、雰囲気に相反する様な柔らかい口調。先程の会話は、ほんの少し耳に挟んだ程度だが、それでも相手の様子が変会している事は分かる。
「ネズミさん?」
「……ハッ、人違いじゃあねぇ見てぇだな」
相変わらずのネズミ呼び。コイツは他人の事を、人間とすら認めていないのかもしれない。
俺は視線を逸らさないように、後ろ向きに数歩歩く。そして、その場で浮辺を、呆然とした様子で座り込んでいる雪原優希乃の前に横たわらせた。
「浮辺を頼む」
瞳を閉じた浮辺を見て、彼女がどのようにどの程度の感情を抱いたのかは分からない。俺に分かるのは、彼女が涙を流して浮辺の胸に顔を押し当てていることだけだ。
浮辺縁。変幻自在の演者であり、嘘吐き、偽り、偽物、そして凡人。何も無いというコンプレックスと、大きな承認欲求を持った人間。
彼は確かに嘘吐きで、偽りで、偽物で、凡人だ。それは十二分に俺だって知っている。彼の心を覗いた俺は良く知っている。
だが、それは前までの話だ。
「……テメェの心はよ、決して偽りなんかじゃあねぇ」
彼は、自分の心だけは偽ろうとしなかった。最後まで全力で、自分の体さえも犠牲に払い、自分の心に従おうとした。歯を食いしばって立ち上がり、守りたい人を守ろうとした。彼が最後に偽ったのは、自分の限界だったのかもしれない。彼のボロボロの体が、それを物語っている。
「浮辺。お前はもう、立派な本物だ」
この言葉が彼に聞こえているなら、どれだけ良かった事だろうか。
もう一度、レインコートの女に向き直る。雨はまだ、止む気配は無い。
「……俺は許さねぇよ」
「ふふ、怖い怖い、ですわぁ」
「俺はよ、多くの人間を見てきた。色んな人間性を見てきた。沢山の心を見てきた」
俺の言葉程度で、こいつが意識を改めるとは思わない。ただ、俺は目の前のソレに、言ってやらねば気が済まなかった。
「人間の善悪なんざ定義するだけ馬鹿らしいなんてこたぁ、もうとっくに知ってんだ」
気が付けば、自分の拳を強く握っていたことに気が付く。
そして、自分の中で静かに、しかし激しく燃え盛る感情にも気が付いた。
「だが、吐き気がするほどのド腐れ野郎は分かる!」
俺はソレに向かって拳を突き出し、人差し指をそれに向けて反り返るほど力強く立てた。指さしたまま、行ってやる。
「それは! テメェのような他人を苦しめる事でしか幸せになれねぇ人間の事だ!」
「……ふふ」
ソイツは、俺の言葉に、一言しか返さなかった。
「こんなこと、腐らずにやってられっかよ」
次の瞬間、それは予想外の行動に出る。
それはこちらに向かって、右腕をしならせ刀を投擲してきた。一瞬驚いて反応が遅れたが、落ち着いて適当な場所に移動させようと、空間をハートで繋げて移動させようとする。
しかし、刀が繋げた場所に触れた瞬間、空間の接続が切れた。俺のハートが、無効化されたのだ。
「っぶねぇ!」
咄嗟に仰向けに倒れ込んだお陰か、なんとかそれを回避する事に成功した。
今、俺のハートが打ち消されたのか。そんな疑問を抱いて少しだけぼーっとしてしまう。数秒後、はっとして起き上がると、遠くの方にレインコートの女の後ろ姿が見えた。
「待ちやがれ!」
咄嗟にハートの力で、空間を繋げて彼女の後ろに移動しようとした。が、彼女が新しく刀を取り出し、俺が繋げようとした場所を切りつける。
またしても、接続が切れた。結局ハートの力が不発し、俺は一歩しか移動する事が出来ていない。
そうこうしている内に、彼女の姿は、雨の中に消えていった。
「……畜生が!」
大声でそう叫ぶが、何も起こらない。ただただ雨の音が、その後に虚しく響くだけ。
「……クソ……」
俺は結局、何もすることが出来なかった。助けを求められたにも関わらず、アイツを倒して浮辺や他の皆を取り戻すことが、出来なかった。
いけないと頭を振る。これからのことを考えろ。振り返るのは後だ。そう自分に言い聞かせて、俺は携帯電話を取り出す。電話帳からその名前を選び出し、コールする。
救急車では無い。俺が最も連絡すべき人物は。
「兄さん、不味い事になった」
○
有り体に言ってしまえば、殺せた。
あのネズミのハートは知らないが、あちらは私のハートの全てを知り尽くしていない。こちらのハートには、人を殺す以外にも性質があるのだから。
殺さなかった理由と言えば、率直に言えば、つまらなかったからだ。
殺しは娯楽であるべきだ。快楽を得るための手段であるべきだ。だから私はつまらない殺しはしないし、殺す気が失せた相手は殺さない。
私が相手に求めているものは、反応だ。
それが、嘆きであろうが叫びであろうが喚きであろうが関係無い。特に何も出来ずに地を這い蹲るネズミを虐げるのは最高だ。立ち上がって吠えてくるなら、それはそれで面白い。その希望を粉々に粉砕してからじっくりと殺すのは、興が乗る。
だが、どうにも、あの野郎だけは気に食わない。何が気に食わないのかは分からないが、とにかく奴を殺す気は起きないのだ。
舌打ちしつつも、足元の小石を蹴っ飛ばす。壁に激突したそれが、跳ね返って水たまりに突っ込む。
「……ああ、もうそんな時間かよ」
それを見た時、水面に映る自分の目の赤い光が、少し弱っている事に気が付く。やれやれ。こんな消化不良では、また近日中に呼び出される羽目になりそうだ。
「……じゃ、また来るぜ」
ハートの力で、刀を取り出す。少しだけ赤みを帯びて輝くそれは、人の魂を切る度に、日に日に輝きを増していく。まるで、成長しているかのように。
「私」
私はその凶器を、自分の胸に突き立てた。
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