複雑・ファジー小説

Re: ハートのJは挫けない ( No.55 )
日時: 2018/07/01 13:32
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: O/vit.nk)

 目の前にいるそれ。どうしてここに居るのかは知らない。何故ここに居るのかも知らない。
 ただ、今彼女がここに居て、僕を狙っている。それだけが確かな事実だった。

「ふふふ……」

 左手で刀をぶら下げている彼女。フードに包まれた頭からは、口角が釣り上げられた口元が覗く。

「随分と……コソコソコソコソ……ネズミのように、嗅ぎ回ってくれましたわねぇ?」
「……」
「あら? あらあら? あらあらあらあらあら?」

 彼女が顔を90度傾ける。途中で嫌な感じの音がしたのも、きっと彼女の首からの音だろう。倒れた首のまま、言葉を続ける。

「何も、言わないのですねぇ?」

 彼女の煽るかのような口調。普段なら、怒ったり、叫んだり、嘆いたりしたんだろう。

「……さっさと殺せよ」

 だが、今の僕では彼女の言葉にリアクションすることが出来なかった。

「……あら?」
「もう、殺せよ」
「へぇー……ふむふむ……そうですかぁ」

 彼女はそのまま数十秒間停止していた。直後、顔を元の角度に戻しつつもこう言った。

「つまんねぇ奴だな」

 どうして、お前がそう言うんだ。
 僕は内心期待していたのかもしれない。喜々として僕を殺しにかかってくるであろうムカワに、期待していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。僕は誰かに必要とされたくて、ムカワにすら求められたかったのかもしれない。
 だがどうだ。目の前の殺人鬼は、僕をつまらないと評した。フードの下の口元は、打って変わって口角が下がっていた。

「……」
「こちとら木偶の坊斬る趣味はねぇんだよ。さっさと抵抗しな」

 ムカワが左手に持った刀の先端をこちらに真っ直ぐと伸ばしてくる。が、僕は何もしない。今回は何もしないわけでも、出来ないわけでもない。
 しようとすら、思わなかった。

「どうせ僕なんか、誰も必要としちゃいないんだ」

 ああそうだ。なら一層の事、ここで殺されてしまった方が、皆の助けになるに違いない。

「……イライラさせんじゃねぇよ」

 ムカワの怒りの声と共に、僕に刀が振り下ろされた。僕はそれを見つめるだけで、避けようとも、防ごうともしなかった。ただこれで楽になれるのかと、少しだけ気持ちが軽くなった。

「ネズミ未満だな、テメー」

 その言葉と共に、僕の意識は黒の底に沈んだ。


 筈だった。

「止まりなさい」

 声が響いたと思えば、突然ムカワの刀が停止した。それどころか、僕もロクに身動きすることが出来ない。息などは出来るが、体そのものがその場に固定されているような感覚を覚えた。

「クソチビ、私の嫌いな3つ言葉を教えてあげる」

 その声の持ち主は、小さなシルエットと共に、この場に姿を表した。電灯の光で、その姿がはっきりと映し出される。

「どうせ、無理だ、不可能だ。この3つは人間を縛る言葉。自らの心を縛る言葉よ」

 2つに結われた黒い髪が、風でふわりと揺れる。そのキツイ目つきの彼女は、心底呆れたような表情でこう言った。そこには、以前であった時のキンキン騒ぐ女の子といった印象はどこにも無い。むしろ、冷たく尖った雰囲気を纏う女性といった感じだ。

「アンタ、ホントにチビね」
「な……なんだよ。急に。君の方がチビじゃないか」
「敬語に関してはとやかく言わないわ。そっちの方が気楽だしね。それと、私が言ったのは外面的な意味では無いわ」

 漸く体の痺れのようなものが取れたので、ムカワからゆっくりと距離を取った。向こうはこちらを見ているだけ。僕達の話に、少し興味があるのか。それとも僕が抵抗の意志を示すまで、まち続けるつもりか。

「外面的じゃない……?」
「そう。私が言ったのは、アンタの中身の事を言ってんのよ」

 彼女は僕の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そして睨み付けられた時、容姿と威圧感のギャップもあって、怯んでしまう。その瞳の中に、一瞬だけ見也さんを思い出す。やはり、彼女は友松家の人間なんだと改めて実感する。

「私はアンタのことなんて全く知らない。ええ知らないわ。だけどね」

 彼女の手の平が、僕の頬をひっぱたいた。
 それは対して痛いものではなかった。物理的には、何回もそれ以上の痛みを受けたはずだった。
 だが、その手は他の誰よりも痛かった。僕の心に直接響く痛みだった。

「悩みの一つや二つでクヨクヨしてんじゃないわよ。壁の一つや二つくらい、ぶち壊してみなさいよ。だからアンタはチビなのよ」

 彼女の言葉は、僕の心によく響く。何故かは分からないが、彼女の言葉には感情そのものが詰まっているような気がした。だから分かる。突き放すような言葉であろうと、それは僕を傷付けるためのものでは無いのだと。

「心音さん」
「何よ」

 無意識の内に、僕はこう言っていた。

「ありがとう」
「……フン」

 彼女は僕の胸ぐらを乱暴に突き飛ばすかのように離した。そしてムカワに向き直り、こう言った。

「少しは、マシな面構えになったじゃない」

 彼女の言葉に、思わず頬が緩むのを感じた。

 確かに僕には理由が無い。意志が無い。強さが無い。ハート持ちとしても弱い。これらは否定のしようがない事実だ。
 でも、だからと言って、何も出来ない訳じゃない。例えちっぽけな小さな負け犬でも、噛み付くくらいは出来るはずだ。

「……ムカワ」

 僕の声音の変化に気が付いたのか、彼女は再び口元を吊り上げた。

「皆を返してもらうぞ」

 僕の言葉の後に静寂が訪れる。ムカワは自分の体を抱きしめるように、腕を交差させて右手で左肩を、左手で右肩を掴んで体をわなわなと震わせている。多分、これは怒りとか恐怖とかそういう類ではなく。

「ふふふ…………感謝しますわぁ。メスネズミさん。これで心置き無く……ネズミ駆除が出来ますわぁ!」

 抑えきれない、興奮から来るものだろう。

「あら、人がネズミにしか見えないなんて、大層目が悪いのね。良い眼科を紹介するわ。もっとも、貴女の目はそこでも治せないと思うけどね」
「ふふ、口がお達者な事。でも私はぁ」

 ムカワが左手を掲げると、そこに刀が出現した。やはりハートの力で作られたものだったのだ。

「こちらの方が得意ですわぁ!」

 そして刀で切りかからんと踏み込み、猛スピードで突進してきた。狙いは僕ではない。心音さんだ。

「くッ! 止まれ!」

 ハートの力でナイフを射出。文字は僕の言葉通りだ。間違いなくムカワに当たるコース。これで防げるかは相手に僕のハートが通じるかどうかにかかっている。

「邪魔ァ!」

 ムカワの刀が、僕のナイフを軽く切り捨てる。いや、切り捨てるというよりは、刃と刃が衝突した瞬間、バラバラの粒子となって僕のナイフが消え失せた。やはり、彼女の刀はハートすら殺してしまうようだ。

「止まりなさい」

 心音さんの声が、不思議とその場によく響く。先程と同じようにムカワが停止するのと同時に、僕も停止してしまう。
 が、今度の停止時間は短かった。ムカワから心音さんが距離を取った所で、停止が解ける。ムカワの突撃は失敗に終わった。

「貴女のハート、声で命令する力ですわね?」
「さぁ?」

 ムカワの発言に興味なさげに返す心音さん。確かに、それなら先ほどの不可解な停止にも納得が行く。

「チビ、耳を塞ぎなさい」

 僕にしか聞こえないくらいに、小さな声で彼女はそう言った。それに逆らう事も出来ず、耳を塞いだ僕。
 何が起こるんだと彼女を見ていると、深呼吸するかのように、肺の中に気体を詰め込んでいく。そして耳を塞いで、彼女が顔を勢い良く地面に向けて、何かを叫んだ。

 瞬間、音が消えた。
 いや違う。限りなく高い音が聞こえる。
 普段の高いなんてものじゃない。人間の聞き取れる限界の高い音。それも大音量で。思わず手を離しそうになるが、ここで離したら一巻の終わりだと歯を食いしばって音に耐え、手を頑なに耳に押し当て続ける。
 それから数十秒が経過し、漸く音が鳴り止んだ。耳を塞いでいても死にそうな程に辛かった。まだ余韻のように、耳の奥であの音が響いているような錯覚に陥っている。

「……うっ……」

 地面に顔を向けたままの心音さんが、そのまま頭を押さえて膝を付いた。慌てて駆け寄る。

「だ、大丈夫ですか」
「平気よ。少し頭が痛いだけ」

 ハートを使い過ぎたわ、と何気なく呟き、再び瞳に強い色を灯して立ち上がる彼女。見据える先には、ムカワがいる。地面に大の字で倒れ付したムカワが。あの大音量を聞いたのだ。気絶どころか死んでしまっていても不思議ではないと思えた。

「……終わったのかな……?」
「──チビ! しゃがみなさい!」

 僕が呆然と突っ立っていると、彼女の声が再び響いた。強制的にしゃがまされる僕。なんだと思っていると、丁度僕の首があった高さを、刀が超高速で通り過ぎていった。

「ひっ……!」
「……ふふ……危なかったですわぁ……」

 ユラリとローブ姿の殺人鬼が立ち上がる。

「そんな……!」

 彼女は耳を塞いでいなかった筈だ。間違いなく、心音さんのハートによって、間違いなくあの大音量の超音波を食らったはずだ。

「私のハートの具現化が……通じていない……」

 驚いたような表情を初めて見せた心音さん。それを見て満足げな表情を浮かべるムカワ。手元には先程投げた筈の刀が再び出現している。
 刀を見て、まさかと思った。

「あと一瞬だけ遅れていたら」

 あの刀の性質は、確か。
 刃に触れたものを、無差別に殺す。

「『音』を殺すのが、あと一瞬だけ遅れていたら、私はどうなっていたんでしょうかねぇ! フフフ、ハハハハハ!」

 心底愉快そうな笑い声を垂れ流す彼女。音を殺すなんて、そんな馬鹿けたことが出来るのか。彼女のハートは。
 ハートの力は意志の力だ。つまり、彼女の意志はそれだけ強いということ。音なんていう非生物すら殺してしまうなんて、余程意志が強くなければ、不可能なんじゃないか。

「なんで」

 僕には分からなかった。

「なんで、貴女の意志はそんなに強いのに、殺人鬼になんてなったんだ」

 こんなに強い意志を持つ人が人を殺めるのか。

「それは単純な理由ですわぁ。だってぇ」

 彼女はゆっくりとこちらに歩み寄る。

「いたぶるのか、最高に昂るからですわぁ!」

 そして、こちらを切るぞと宣言するかのように、刀を左手で構えた。

「さ、させるか!」

 『止まれ』と刻まれたナイフを放つ。だがそれでは、すぐにムカワの手によって弾き返されてバラバラに玉砕される。

「あたりませんわぁ」

 そう言っている間にも、彼女はどんどん近付いてくる。やばい。背中に冷や汗が噴き出すのを感じた。

「チビ、30秒だけ、持ちこたえられるかしら」
「な、なんで!?」
「頼むわよ」

 心音さんが、僕の数歩後ろに下がった。そして、地面に手を当てて何かをしている。ちょっと待ってくれ。僕のハートでは、ムカワを止めることが出来ないんだぞ。

「う、うわぁぁぁぁ!」

 ヤケクソになってもう1度ナイフを放つが、やはり簡単に弾かれる。これじゃあダメだ。こうしている間にも、僕とムカワの距離は着々と狭まっていく。

「ネズミ未満の貴方はぁ、アリンコのように踏み潰されるのですねぇ! アハッ!」

 僕がアリだと宣う彼女に、僕は何も出来ない。何か、何かしなくてはと考える度に、どんどん思考が回らなくなるのを感じる。

「あと20秒!」
「そんなぁ!」

 既に距離は近い。20秒なんて時間では、幾らムカワがゆっくり歩いているとは言えど、簡単に入られてしまうだろう。ここは何とか、僕が持ちこたえるしかない。

「チビ! アンタにはアンタなりの、アリにはアリの戦い方があるわ!」

 アドバイスか何かは知らないが、心音さんの声が後ろから飛んでくる。そんな事言われても、分からない。大体アリの戦い方ってなんだ。アリ1匹じゃ、どうしようもないだろう。

「……待てよ。1匹じゃどうしようもない……」

 待て。そもそもアリは1匹で戦う生き物か?
 いや違う。彼らは軍団で戦う生き物だ。軍団として初めて脅威となる生物だ。彼らの戦い方は、数で押す事だ。

「……これなら!」

 僕はハートの力でナイフを作り出す。刃に刻まれているのは『止まれ』。またかとムカワが刀を構える。
 アリは1匹で戦えない。ナイフは1本では通じない。

「まだだ! もっとだ!」

 ならば、アリは数で押すべきだ。
 ナイフの数も、増やすべきだ。
 僕の周囲に次々とナイフが現れる。

「もっとだ! もっともっと!」

 頭の中が焼き切れそうな感覚がする。だがまだ増やせる。少しずつだが、ナイフを増やす。そうして限界と感じたところで、僕は改めて周囲を確認した。

「なっ──」

 ムカワが驚いたような声を上げた。無理もない。僕の周囲には、20本程のナイフが浮かんでいるのだから。

「これが──」

 そのうちの1本を掴み、丁度目の前にいるムカワに投げ付ける。

「アリの戦い方だぁぁぁぁッ!」

 それに釣られるようにして、全てのナイフが、ムカワに発射された。


次話>>56   前話>>54