複雑・ファジー小説
- Re: ハートのJは挫けない ( No.61 )
- 日時: 2018/07/08 11:07
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
瞬間、彼女の澄んだ目が、一瞬にしてその透明感を失った。
「……嫌、違う、違う」
彼女は頭を抱え、誰へ向けてでもなく、下へ拒絶の言葉を吐き続ける。
「違う、違う、違う! 違う違う違う違う違う! 私は、私はムカワなんかじゃない! 違う! 違うの!」
動揺しているのかと思ったが、どうやら少し違うらしい。この狂い方は、どこか浮辺君を思い出させる。
まさかと思って、彼女の瞳を見ていると、僕の予想が的中し、その色が徐々に赤く染まっていく。
「嫌、嫌、止めて、来ないで。違うの。私は、私は人殺しなんかじゃない! 止めて、止めてよ! 嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ぁッ! 私は、私は──」
カクン、と呆気なく彼女の首が俯いた。
「まさか……」
脳内で、予想が組み上がっていく。
そしてそれは、僕の期待を裏切り、予想は裏切らなかった。
そして次の瞬間、彼女から独特の粘着質のある威圧感が放たれた。嫌な汗が、全身から吹き出るのを感じた。
異様に身体中が蒸し暑い。なんだこれ。どうしてこんなに汗をかいているんだ。落ち着け僕。
「…………ふふ」
「……ッ!」
声は乾梨さんのそれと全く同一だ。だが、確かに分かる。声音が、耳にへばりついた奴の声が、その微かな音と共鳴したのだ。
「……ふふふ、はははははは!」
おかしくておかしくて堪らない。そう言わんばかりに、笑い飛ばし、頭に付けていたカチューシャを無理矢理毟りとった。これまで揃えられていた髪たちが、バラバラと宙で何回か旋回する。
「……さっきの貴方の回答……」
急に変わったテンション。そして聞き覚えのあるアクセント。
間違いない。
「80点、と言ったところですわぁ」
彼女はそのまま、狂気を内包したにこやかな笑みのまま、こう続けた。
「ネズミさん?」
やはり、間違いない。
彼女は、乾梨透子は、ハート持ちだったのだ。しかも、ムカワという最悪のハート持ち。
「……80点、ってどういう事かな」
少しでも長く生きるため、雑談で意識を逸らす。彼女もこちらの意図が分かっていて、敢えて便乗するかのように返答する。まるでそれすらも楽しんでいるかのように。
「ふふ、折角だから教えて差し上げますわ。満点は付けてあげられないとはいえ、貴方は初めて私の正体を暴いたんですもの」
彼女は脚を組みながらそう言う。その動作一つ一つは艶やかさと色気のようなものがあり、先程までの乾梨さんの様子とは全く毛色の違うものだ。
「私の名前は、乾梨透子ではありませんの。それは私の名前であって、私の名前ではありませんの」
「……何が言いたい」
「乾梨透子という人格と、私は別人格、という事ですわ」
つまり、二重人格という事か。なるほど、それなら普段の日常生活でボロが出ない訳だ。普段は弱気な乾梨透子という皮を被り、ここぞという時だけ人格を切り替えムカワになる。これが彼女の見つからない原因の一つでもあるのだろう。
「じゃあ、君は一体誰なの?」
「私は私の心から生まれた別人格」
彼女はメガネを外して、その赤い裸眼を妖しく赤く光らせる。
「無川刀子(むかわ/とうこ)と申しますわ。虚無に川に刀に子供。ふふ、これで私の名前を知る人は貴方と私、そして一人のネズミだけですわ」
どこか芝居がかった動作でスカートの端をちょこんと持ち上げて挨拶をする彼女。
その可愛らしさの裏側には、隠しきれないほど鋭い刀が見え隠れしていた。
「……ネズミって、八取さんの事か」
「分かりませんわぁ。だって、人の違いなんて声と背丈と性別だけですもの」
そう言えば、乾梨さんは目が悪くてメガネが無ければ人の顔の判別すらつかないと言っていた。ムカワ──無川は、乾梨さんと同じ体だ。同じように、彼女も裸眼では視界が不安定なのだろう。
彼女は、本来であれば見せることも無いであろう、煌めくような笑顔でこう言った。
「そして、私の名前を教えたからには、貴方は生かして帰しませんわぁ」
彼女が虚空で手を握るような動作をする。すると、その場に刀が現れた。
「う、動くなッ!」
「遅いですわよ」
僕がナイフを飛ばすが、それは無川の刀によってバラバラに消された。そうこうしていると、首に手が伸ばされた。
「ッ!」
「ふふ、このままじっくり、ゆっくり絞め落として差し上げますわ」
「な、……なんだっ、て」
そんなことされてたまるか。僕は右手にハートの力でナイフを生成。『放せ』と刻まれたナイフを突き立てようと、その手を振るった。
「大人しく、していて下さいねぇ?」
直後、鳩尾に膝がめり込むのを感じた。口から変な声が漏れると共に、ナイフが手から溢れ落ちた。
「がはッ!」
「ネズミさんは、しっかりと殺して差し上げますわぁ。ふふ、ふふふ、ははは! 愉快ですわ! ああ、なんて素敵なんでしょう!」
「い、息がッ……!」
ダメだ。ハートの力が使えるほど、意識がハッキリとしていない。手先の感覚が、無くなってきた。彼女の首の絞め方が上手いのか、意識が消えるか消えないかのスレスレをさ迷っている。ただただ苦しく、無念だ。
「ふふ、貴方の行動は無駄だった。だって心理に辿り着いた貴方は殺されてしまうんですもの。そして残るハート持ちはあの高身長のメスネズミと気に入らない大ネズミだけですわ」
「…………ッ!」
「おおっと、それどころではありませんのね。では少しだけ息を吸わせてあげますわ」
瞬間、刀の柄で頬が殴られた。そのまま音楽教室の机が集まっている部分に放りだされ、それらに激突しつつも床に這いつくばる。
足りなくなっていた酸素を肺の中に詰め込む。今はそれで必死だった。
まさか、彼女が後ろから攻撃してきているなんて知らずに。
「ほら! 抵抗して下さいな! ネズミさん!」
彼女の足裏が、僕の鳩尾に叩き付けるように下ろされた。直後、凄まじい激痛が脳内を駆け巡った。
「っがはぁッ!」
「どんな気分ですか! 何も出来ず! 床を這って! 無様に! 虫けらのように! 踏み付けられる! 気分は!」
言葉を区切る度に、彼女が足を持ち上げ、僕の鳩尾を踏み付ける。それが何回も何回も続き、呼吸すら出来ない。僕が絶叫を上げると、彼女はその足を止めた。
「簡単には殺しませんわよ。存分に、痛ぶって差し上げますわ!」
ああ、なんて嬉しそうな表情なんだろうか。
でも、ちょっとだけ、何か違和感があった。
彼女の笑顔の裏に、殺意の裏に。
何か、何が覗いた気がした。
「ほら! 立ち上がって下さいまし!」
胸倉を掴まれ、無理やり持ち上げられる。そして、再び体が投げられた。今度は硬く大きなものに体を打ち付けた。多分、ピアノだろう。再び、体が悲鳴を上げた。
「……ぐっ……はぁ、はぁ……」
だが何とか立ち上がり、無川に相対する。彼女は再び手に刀を握り、愉悦に満ちた表情を浮かべている。
「ふふ、思えば本当に貴方は役立たずですわ。周囲から最も情報を与えられているにも関わらず、今の今まで気が付かなかった無能さ。誰よりも臆病な癖に、誰よりも偽善を行うその態度」
彼女が言葉のナイフで、僕の心を切り刻んでくる。何も反論できない。僕は無能で、臆病で、偽善者だ。それはどうしようもない事実だからだ。
「心底、吐き気がしますわ」
気が付けば、彼女が僕に刀を振るおうとしていた。多分、数秒後には僕の体は斬られているだろう。
「─────ごめん」
最後に漏れた言葉は、謝罪だった。
どこまでも負け犬な僕には、相応しい最後の言葉だった。
「ごめんな、観幸」
そして、その刀が、一閃。
直後、彼女の刀が空振った。
そう、体を捉えずに、ギリギリで当たらなかったのだ。彼女がズラしたのではない。誰かが、僕の体を後ろに引っ張ったのだ。
体に、何が巻きついているような感覚を覚えた。それを、視界をずらして確認する。
「……これは、どういう事だ? ネズミ」
「これは……鎖……?」
鎖だった。僕の命を救った鋼鉄の命綱の出元を、目線で追う。
すると、その先には彼女が居た。
「一つ、良い事を教えてあげましょう」
ジャラジャラと背中から生えた鎖達が音を鳴らす。それらは一斉に飛び出し、無川の手足にグルグルと巻き付いていく。
鎖の持ち主の彼女は、僕を鎖で引き寄せて、僕の首に腕を巻き付けてこう言った。
心底愛おしそうな声で。
「私は今、貴女にとても怒っています」
心底、憤ろしい声で。
「貫太君の事を、理不尽にバカにして、傷付けるなんて」
彼女は、言う。
「私に殺されたいって、言ってるんですよね?」
《心を縛る力》を持つハート持ちの彼女こと、愛泥隣さんは、異様な程に鋭い言葉を吐き出した。
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