複雑・ファジー小説
- Re: ハートのJは挫けない ( No.69 )
- 日時: 2018/07/21 08:29
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: NtGSvE4l)
無川は、その場で刀を落とした。それを握っていた手は、ガタガタと目視できるほど震えている。
「なんでだよ……」
呟くように、嘆くように、彼女は言う。目から溢れ出るのは、大粒の涙。悔しそうに歯を食いしばって、彼女は言った。
「なんでだ! なんでオレはテメェが殺せねぇ! 刀を握る事ができねぇ! オレは、オレは無川刀子なんだ! 人を殺さないオレに意味はねぇんだ! なのに、なのになんでなんだよ! ふざけるんじゃねぇ!」
嗚咽の混じったその声が、酷く脆く聞こえた。まさかあの無川が、こんな声を出すなんて思ってもみなかった。
「……無川。お前」
「うるせぇ! オレに、オレにそんな目を向けるな、そんな目で見るな! テメェのような奴には分からねぇんだよ! 下手な同情や憐れみを浴びせる側の人間には、浴びせられる側の思いなんて分かりやしねぇ。こっちの泣きたくなっちまうような、情けなさだって知りやしねぇ!」
彼女は勢いのまま、こう言う。
「お前らなんかに! お前みたいな奴に!
捨てられた側の気持ちが分かってたまるかよ!」
その言葉が、俺の心に響く。
そして、今の今まで遠かった無川の存在が、すぐそこまで近付いて来るような、そんな錯覚をした。
だから、彼女にはこう言う。
仕方ないのだ。これは、言わなければ分からないこと。彼女には、この事実を認識してもらう必要があった。
声を張り上げて、無川に言葉を叩き付けた。
「分かんねぇに決まってんだろ! だって、テメェ自身が言葉にしてねぇんだからな!」
きっと、予想すらしていなかった言葉に。
「……な……に……?」
表情が一瞬で、訳が分からないと言いたげな顔に転換した。
「テメェがどんな気持ちか俺には分からねぇ。……だけどなぁ、テメェは分かって貰おうともしねぇんだ! 言葉にすらしない癖に分かってもらおうなんざ、都合が良すぎるんだよこのバカが! 思ってるだけじゃ伝わらねぇんだよ!」
だが無川も声を張り上げる。こちらの声を押し返す勢いで。
「誰が……! 誰がオレの話を聞くってんだよ! 血にまみれたこのオレの、誰だって殺しちまうこのオレの話を! オレの周りに誰が居るってんだよ!」
だが負けない。意地でも食い下がらない。更に、声を押し返す。こうなればもう、武器もハートも要らない。
ただの意志と意志のぶつけ合いでしかない。だが、そうしなければ分かり合えない。理解など、出来るはずもない。
「俺が居る! 今ここに、確かに、目の前に俺が居るじゃあねぇか! それがテメェにはわっかんねぇのかよ! テメェの言葉を聞かせてみろ! 分かる分からねぇの話はそれからだ!」
俺の言葉に、無川はこちらを、いっそう怪訝に、不可解なものを見つめるように言う。お前は異常だという彼女の思考が、目線でハッキリと伝わってくる。
「だったら聞かせてやるよクソネズミ」
疲れたような笑いを浮かべて、彼女は言う。
「オレはな、正真正銘の人殺しだ。ハート持ちになる前に、人を一人斬り殺したんだ」
「ハート持ちになる前から?」
「ああ。オレはハートを持つ前。『オレ』とオレが別れてなかった頃、乾梨透子なんて名前じゃあ無かった。『オレ』には無川透子って名前が付いていた。ただしトウコのトウの字は刀じゃねぇ。透き通るの方だ」
無川というのは乾梨の旧姓だったらしい。
そして無川は語り出す。自嘲するかのように、自らの過去を。
「『オレ』はクズとその愛人の間に生まれた子供だ。父親はとても表で言えるような職じゃねぇ。母親はいつもオレより男に構っていた。当たり前だ。『オレ』は予想外の子供。生活を圧迫させる以外の役割を何も果たしちゃいなかったからな」
彼女が語り始めると、頭の中にノイズ混じりの映像のようなものが流れてくる。
今、俺は乾梨と心を繋げている。同じく心の繋がっている無川の脳内の映像が、こちらに流れ込んできているのだ。つまり、無川にもこちらとコミュニケーションを取ろうとする感情が芽生えたと言うことだ。
情景は、狭いマンションの一室のような場所。辺りには空き缶や吸い殻が転がっており、今の幼い容姿となった無川とちょうど同じ位の少女が膝を抱えている。あの少女は、乾梨、いや無川だろうか。
他の誰かも眠っている。机のすぐ側で。机の上にはやはり空き缶などが陳列していた。長い髪や体型から察するに、女性だろう。
「だが、『オレ』はその状況になんにも感じちゃいなかった。ただ自分が生きてりゃそれでいい。そう思っていた」
すると、脳内映像に変化が起こる。誰かが部屋の中に入ってきて、その女性の近くまで行き、その髪を引っ張って頭を持ち上げた。それは、小太りの男性だった。
「そしたら突然ある日、父親が何かの理由で暴行を始めた。酒に酔ってたのもあってか、母親が動かなくなった。標的にされた『オレ』は抗おうと必死になった」
何回も何回も、女性が殴られる。次第に女性は動かなくなり、やがて男性の攻撃は無川へと向かう。彼女は必死に逃げ回るが、部屋は狭い。空き缶を踏んずけて、彼女は転んでしまう。
「そして、オレは親を殺した」
彼女が転んだところに、丁度何か細い板のようなものがあった。彼女がそれを手に取って、鞘らしきものを外すと、煌めく刃が姿を現す。
その刀は、無川のハートによって作り出されるものと酷似していた。
そして映像の中で、無川がそれを目を瞑ってめちゃくちゃに振るう。それは幸か不幸か男性の腹を切り裂き、それはそのまま音を立てて倒れた。血の海の中で、無川だけがガタガタと刀を見つめ、肩を上下させて震えている。
「斬り殺したんだよ。『オレ』は自分の父親を。アイツが持っていた刀でな」
すると、今度は場面が入れ替わる。場所は幼稚園のような雰囲気に似ている。そしてその中に、無表情で佇んでいる無川が見えた。
「『オレ』はその後施設に入った。だが、殺人鬼だ、人殺しだと受け入れられなかった」
小さな男の子達が、無川に暴言を浴びせる。小さな女の子達が、無川を遠巻きから見てコソコソ話をしている。どれも、友好的とは思えなかった。
無川は無表情でそこにいるだけ。でも彼女が一度トイレのような閉鎖空間に入ると、その顔が一気に悲しみに歪んで、涙がこぼれ落ちる。
「そして、『オレ』はその現実と過去に耐え切れなくなって、遂に自分の記憶を切り離した。そして記憶を封印したんだよ。逃げるためにな」
なるほど。それで無川刀子と乾梨透子という二つの人格があるのか。俺はやっと納得することが出来た。しかし、幾つか引っかかる事がある。
それは、封印したはずの無川が、何故こうして表に出てきているのか、ということだ。
「そしてある家庭に引き取られたオレは、姓を変えた。乾梨ってのは義理の親の苗字だ。だが、『オレ』はそれから無意識のうちに目を逸らしていた。だからオレの事を認識すらしちゃいねぇ」
新しい家庭で、乾梨が平穏に暮らしている。まるで、昔のことなど無かったように。いや実際そうなのだろう。彼女の中で、アレは無かったことになっているのだろう。
「だが、あのクソ女のせいで、どういう訳かオレという人格が、ハートの力を持って、切り捨てた記憶と共に目覚めた」
再び場面が移る。乾梨は既に高校生となっていた。その制服は俺達の学校のものである。
そしてそんな彼女の胸に腕を、文字通り差し込んでいる女性がいる。血は出ていない。後ろ姿のため、顔は見えない。ただ、その銀色の髪がやけに印象的だった。
「そしてある日から、一定周期でオレという人格が、乾梨透子の体の表面に出るようになった」
夜、乾梨が歩いていると、突然立ち止まり、メガネとカチューシャを外した。その目は緋色に染まっており、目付きは異様なほど鋭くなっている。これが無川が表面化した時の様子だろう。
「オレは毎回、胸の奥底で燃える怒りのような、そんな覚えの無い感情に突き動かされた。それは殺意に変換され、オレは人を切って、切って、切って」
無川が人を切り付けているシーンが映し出される。そこには、楽しんでなどいない。業務的に、作業的に人を殺している無川の姿が映っていた。
「テメェに分かるか? 目が覚めたら突然殺人衝動に駆られて、訳もわからず人を殺して、それに苛まれるだけの毎日がよ」
そして、彼女は映像の中で、人を殺す度に頭を抱えて悩み、苦しんでいた。
彼女なりの、様々な葛藤があったのだろう。
「だからオレは、それを楽しむ事にした。オレが楽しめば楽しむほど、オレが現れる頻度も減った。つまり、オレは『オレ』のストレス発散の代役でしかねぇ。その為だけの存在なんだよ」
だがある日を境に、無川は殺しを楽しむようになった。これが、今の殺人鬼としての無川の根幹にあるものなのだろう。
「笑えよ」
彼女がガクンと膝を付いた。立っていることも、辛いような過去だったのかもしれない。いやそうだろう。そんな記憶、苦しみ無しでは引っ張り出せない。
皮肉めいた笑みを浮かべて、彼女は言う。枯れきった表情は、彼女の自己嫌悪を表していた。
「オレは自分の行為に目を背けて、自分のやったことを悔いて、それに耐え切れなくなって、殺しを娯楽にした。自分を誤魔化した。そして、それがそのうち自分になった。最初は貼り付けただけの嘘だったのに、それがだんだん染み込んで、何が嘘で何が本当すら、分からなくなっちまった」
そういう間も、ずっと、頭の中では映像が流れる。人を殺し、それを笑い、楽しみ、最後にはやるせない表情を浮かべる彼女が。何度も何度も、繰り返される。
「こんなオレ、笑っちまうだろ。反吐が出る程のクズだろ? 笑えよ。思う存分嘲ろよ! オレは、その程度のクズなんだからなぁ!」
その大声は、俺への怒りとは思えない。むしろ、自分に対しての苛立ちを放っているようにも見えた。
俺には、分からない。彼女自身が味わった苦しみとか、体験とか、困難とか。そんなものを簡単に他人が『分かる』なんて言うのは、彼女への冒涜以外の何でもない。
だが俺は向き合うと決めた。この殺人鬼も、根からのクズではない。どうしようもないくらい、環境が悪かっただけなのだ。
「俺はお前を笑わない。嘲ったりなんか、しない」
返ってくるのは、鋭い眼差しと、激しい感情。
「下手な同意なんざ求めてねぇ! テメェには分からねぇんだよ! どれだけ弁解しようが、例えオレの言うことが真実だろうが! 一言だって信じてもらえやしねぇ辛さが! 他人から認識すらされずに、人の眼中の外で暮らす痛みが! 訳もわからず人を殺したくなって、気が付いたらこんなになっちまったオレの苦しみが! テメェに分かんのかよ!」
ああその通りだ無川。俺にお前の苦しみは分からない。
だが、俺にも同意できる事はある。同じような体験はある。分かってやることはできないが、似たような感覚なら、俺は知っている。
「施設にさえ受け入れられなかった時、希望から絶望に突き落とされた感覚になる」
俺が呟くように言うと、無川の顔が固まった。
「似た境遇の仲間がいると考えて入った環境で、噂話だけで決め付けられて、大人達は話を聞こうとすらしない。来る日も来る日も存在すら無いように扱われ、気が付けば話す友人どころか目を合わせる人さえいなくなる」
段々と、無川の顔が驚きに変わっていく。
「一番辛いのは、話してくれていた優しい子まで離れていく事だ。信じてと言っても、向こうはどんどん離れていく。そして、最後に一人ぼっち。誰も正面から向き合ってくれない。言い尽くせない孤独を感じる」
胸が苦しくてたまらない。自分の思い出さないようにしている暗い過去を引きずり出すのは、内蔵が焼かれるように苦しい。
だけど、これなしでは無川とは分かり合えない。お互いに自分というものを示さなければ、俺と無川は絶対に理解などできない。
「……ネズミ……テメェ……」
「引き取られた時、天国に行けると期待して、結局は周囲に馴染めずに同じような閉塞感。段々と周囲が自分を必要としていないことが露呈してくる。自分と真正面に向き合ってくれるのは、鏡だけ」
思い出しただけでも、心臓がバクバクするのが分かった。胃の中がせり上がってきそうになる。精神体のくせに、全身から汗が吹き出てくる。
「俺にはお前の苦しみは分からない。わかってやれない。だけど、俺達は立ち上がらなきゃいけねぇ。俺の苦しみにもし、お前の苦しみと共通する部分があるなら」
無川にそっと、手を伸ばす。
「この手を、取ってくれないか。俺に、お前を救わせてくれ。お前はまだ、やり直せるんだ」
「…………オレが……?」
「ああ。そうだ」
無川は目を見開いて、俺の手の平をじっと見つめる。
彼女の手が、その場でこちらに、そっと伸ばされた。
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