複雑・ファジー小説

Re: ハートのJは挫けない ( No.70 )
日時: 2018/07/21 18:31
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: nWfEVdwx)

 その虚空をさ迷う、地獄から伸ばされたその手に、一歩踏みよる。するとその手も、こちらに更に伸ばされる。
 また一歩、踏み込む。その手もまた、少しだけ、こちらに向かう。
 そして、二人の手の距離が、一メートル未満になる。俺はまた、一歩、歩み寄った。
 そして、その手が、俺の手に、届く。後少しで、その二つは結ばれる。


 そして、その手は空振った。結ぶこと無く、空を切った。



「すまねぇ」


 その手は、俺を拒絶するように、引き戻された。

「すまねぇ。本当にすまねぇ。こんなに心が痛てぇのは初めてだ」
「な、何言ってやがるんだ。無川」

 彼女があまりに、あまりに申し訳なさそうな声を出すものだから、思わず狼狽してしまう。

「オレは、オレなんかが、簡単に救われちゃいけねぇんだよ」
「待てよ! テメェは変われる! テメェは救われる! なのにどうしてそこから一歩踏み出せない! どうしてテメェが信じられない!  この手を取れ! お前は絶対に変われる! だから、無川!」

 だが、無川は動かない。その手は、彼女の顔を覆うために使われる。彼女の涙を、受け止めるために使われる。
 両手の内側から聞こえる、無川の声。その声は、震えていた。何かを恐れているように。

「オレは、オレは無川刀子なんだ。テメェが心の底から信じられねぇんだ。九割はテメェを信用しても、残りのオレの一割が、テメェは裏切るって叫ぶんだ」
「俺はお前を裏切らない! たった一度、今の一瞬だけでいい! 俺を信じてくれ! 無川!」
「ああ、テメェは裏切らねぇだろうさ。お前は約束を守るだろうさ。……でも、でもオレは、オレは怖いんだ。そんなテメェからも裏切られるのが、ただただ怖くて、腕が震えちまうんだ」

 これは彼女に打ち込まれた心の楔のようなものだ。彼女の深層心理に刻まれた根深い他人への不信感。それが、彼女を最後の最後でつなぎ止めている。

「笑ってくれ。笑ってくれよ。オレはもう、ここから動けない。オレはもう、他人を信じる事なんてできない。だから、どれだけテメェがオレを分かろうと、オレがどれだけテメェを分かろうと、この一線を、オレは超えられねぇんだ」
「お前なら超えられる! ちょっとでもいい! その一線に手を突っ込むだけでも構わない! 俺がその一線ごとぶち壊して、テメェを引きずり出してやる! だから手を握れ! 無川ぁ!」

 俺の必死の言葉も虚しく、無川はその手を付いて、立ち上がり、その手に刀を作り出す。
 そして、俺の方を向いて、笑った。
 彼女が作ったとは思えないほど、清々しい笑い方で。

「ありがとよ。オレを信じてくれたのは、テメェが初めてだ」

 そして、彼女はその刀の先を、俺──ではなく、自分に向ける。
 思わず目を見開いて、叫んでしまった。

「お、おい待て! 何しようとしてやがる!」
「もうオレは、疲れたんだ。きっと、殺人衝動が戻れば、テメェを殺したくなる。だから、そうなる前に」
「だからってお前が死ななくてもいい! お前はまだ生きたいんじゃないのか! 俺はお前と普通の人間同士の関係になりたいんだよ! 友達から始めたいんだよ! こんな腐った関係性じゃなくて! もっと明るい、笑い合える関係になりたいんだ!」



「ああ、そうだなぁ」



「オレも、共也と友達になりたかった」



 そして、無川が自分の首に、刀を突き刺した。



「……あ……」

 無川の目は閉じられている。それはビクビクと、死を恐れていた。当たり前だ。死が怖くない人間なんか、居ない。
 そして、彼女の首には──刀が、刺さっていなかった。

「…………あ?」

 彼女が不思議そうな声を出して、目を開く。そして首元を見た。そして、それが驚いたように一気に開かれる。
 無川の刀を受け止めていたのは、横から突き出た、形がそっくりの刀だった。そして、それは無川のものとは対照的に、白く輝いている。

「もう、止めようよ」

 その声は、無川のすぐ右から発せられた。彼女がそちらを向く。

「『私』」

 そこに居たのは、乾梨透子。無川の本体の彼女が、ハートを使って、無川の自殺を防いだのだ。

「『オレ』……何してんだよ」
「見て分からないの?」
「そんなことを聞いてるんじゃねぇんだ! 何故止めた! オレは、オレはあれで救われたのに! オレ以外の誰かも、きっと救われたはずなのに!」

 鏡写のような二人、若干容姿に年齢差こそあれど、瓜二つと言っても過言では無かった。

「じゃあ、その人はどうなるの?」
「その人……だぁ?」
「そう。その人。貴女が死んでしまったら、その人は救われない。貴女は、その人を救いたくないの?」

 乾梨の堂々とした態度が、少しだけ違和感だった。彼女は、ここまでハッキリと人と話せる人間だっただろうか。

「……まさか」

 無川が、訝しげな目を向けた後に、閃いたような顔になる。決して、良い表情ではない。

「うん、多分そう」

 乾梨は、その手に握る刀を消して、こう言った。


「思い出した……というか、私はもう、逃げるのは止めたの」
「……オレの記憶からか?」
「ええ。人格が分かれた後は分からない。だけど、分かれる前の記憶は、ちゃんと思い出した。私は、その人の言葉を聞いていて、思った。私だけ逃げていちゃダメなんだ。私も戦わなきゃダメなんだって。そしたら、自然と体が動いてて、いつの間にか思い出していた」

 その人、俺の事だろうか。
 乾梨にも、俺の言葉は聞こえていた。それが、彼女を動かした。少々むず痒いが、気にしないことにする。

「私は、貴女を今まで拒絶してきた。見て見ぬ振りをしてきた。それは自分でも許されないって、分かってる」
「……」

 無川は何も言わない。目を逸らして、不貞腐れた子供のように黙っているだけだ。

「ごめんなさい。それは謝る」
「…………」

 だが乾梨は言葉を続ける。一つ一つに誠意の詰まった言葉で。

「今更許してもらおうなんて思わない」
「…………いいよ、別に」

 遂に、無川が折れたように、言葉を返した。

「……え?」
「いいんだよ。もう、どうでも」

 やはり、無川の対応は子供っぽかった。謝られて、困惑している様子だった。
 無川自体は、乾梨にそこまで嫌悪感を抱いて居ないらしい。
 だが、乾梨は構わず言葉を続ける。

「どうでも良くない。私は、私は自分のせいで、貴女にあんな事を……」

 きっとそれは、他人への配慮ができるというか、他人の事ばかり気にしていた彼女だからこそできる事なのだろう。

「あんな……無意味な事を……させてしまった……から」

 彼女は、そう何気なく言い放った。
 俺も彼女も、その場の誰も、そんな何気ない発言を、気には止めなかった。

 ──一人を除いて。

「……アハハ」

 無川が、笑い出す。急に笑い出した彼女に、困惑を隠せない俺達。
 だがその笑いは止まらない。次第に、大きさと勢いを増していく。

「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」

 遂に、彼女の笑いが、戻った。良くない方へと、おかしな方へと。

「そうかよ。『オレ』も、オレの行動を無意味と言うんだな」

 彼女は、笑う。

「『オレ』だけは、分かってくれると思ってた」

 苦しみながら、笑う。

「『オレ』だけは、受け止めてくれると願ってた」

 嘆きながら、笑う。

「苦しくても、『オレ』の為に頑張ろうと思っていた」

 泣きながら、笑う。

「だけど、そんな『オレ』すら否定するんだ。このオレの行為を、我慢を、努力を、思考を、無意味だ無駄だと、切り捨てるんだ」

 彼女はそうやって、苦しみながら、嘆きながら、泣きながら、笑いながら、確かに怒っていた。

「ち、違う。そんな意味で言った訳じゃ……」

 乾梨が慌ててフォローするが、無川が鋭い眼光を向けると、竦み上がる彼女。
 無川が手の中に、刀を出現させた。
 いつもよりどす黒く、黒の中の黒といった、そんな真っ黒の刀を掲げ、地面に突き刺す。
 彼女は怒る。彼女は叫ぶ。彼女は泣く。
 たった一言が、乾梨の何気ない一言が、無川の導火線に火を付けた。短く、無川自身が爆発してしまうであろう、爆弾の導火線に。

「うるせぇよ! もういい! オレになんて価値はねぇ! オレなんて存在は要らねぇ! そんな事実はもううんざりするほど分かってんだよ! だから、お願だから、そんな申し訳なさそうな目を向けるのを止めろ! テメェの目を見るとムシャクシャして仕方ねぇんだよ!」

 嗄れた声を主に、彼女が刀を地面に押し込む。そこはちょうど、赤と白の境目だった。
 瞬間、その二つが、唐突に分かれた。直後、地響きのような轟音が周囲を駆け巡る。
 赤色の世界と、白色の世界に分かれ、どんどん二つの世界は離れていく。俺が立っているのは、乾梨の方の白い側。離れていくのは、無川の方の赤い側。

「無川ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 だが、彼女の姿は、赤い世界と共に、俺の視界から姿を消した。この世界には、白い空間だけが残った。



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