複雑・ファジー小説

Re: ハートのJは挫けない ( No.71 )
日時: 2018/07/30 22:44
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 乾梨の心から出ると、既に乾梨の暴走は止まっていた。目を覚まして、今は傷口の手当をしている。愛泥は相変わらずそこに倒れているが、兄さんが適切な処置を施してくれたようだ。

「『私』……何処へ行ったの?」

 彼女がポツリと呟く。
 無川が、彼女の心の中から消えたのだ。行方は不明。兄さん曰く、暴走が止まるのと同時に、一人の無川に似た小さな少女が現れ、何処かへ逃げたと言っていた。彼は追い掛けるべきか悩んだが、愛泥の処置を優先したらしい。

「……なんか、心当たりねぇのか、乾梨」
「……分からないです。ただ、近くにいる事だけは……学校の中にいる事は分かります。感じるんです」
「分かった」

 俺はその言葉を聞いて、駆け出す。音楽教室から飛び出ると、真っ先にすぐ横の二年生教室の周辺を探した。

「無川……」

 俺はあいつの事を誤解していた。確かに、あいつは他人からそう誤解されるように演技をしていた。俺が勘違いをしたのも当たり前のことかもしれない。
 あいつが人を殺してきたのは事実だ。それは消しようもない、消えるはずもない罪だ。
 だけど、彼女は誰一人として殺してはいない。彼女のハートさえ解除すれば、皆は仮死状態から解かれる。彼女が頑なに人を刺す時、必ず具現化を解いていたのは、この為だったのだ。

 探し回って十分程度の事だろうか。廊下を走っていると、ふと、向こう側の屋上のフェンスに、誰かが寄りかかっているのが見えた。
 長い焦げ茶色の髪が、風に揺られて浮いている。その後ろ姿は、間違えようがなかった。

「居た……!」

 全速力で渡り廊下を突っ走り、向こう側の後者へと移動。階段を二段飛ばしで駆け上がる。
 最上階に付いたところで、階段の辺りは真っ暗になる。それでも感覚だけを頼りに進み、屋上の扉に手を掛けた。ガチャリ、と音を立てて開くそれ。
 そこに広がるのは、夜の世界。そして、一人の少女の姿。

「……無川」

 その少女の名前を呼ぶ。彼女は俺を認識すると、俯いて目を逸らした。
 彼女に少しずつ歩み寄って、気が付く。彼女の立つ場所に。こちら側ではなく、フェンスの向こう側──一歩間違えば、三階建ての校舎から転落してしまうような、そんな場所に。

「お、おい! なんて所に立ってんだよ!」
「……共也、か」
「危ねぇって。さ、こっちに戻って来い」

 俺が手を伸ばすが、彼女はそれを振り払った。冷たく、あしらうように。

「来るな、共也」
「な、なんでだよ」

 彼女の冷たい表情と声に、驚きを隠せない。
 その赤い瞳の光は、炯々と輝いている。まるで、彼女の抑え込んでいる内心を、代弁しているように。
 彼女の顔をずっと見つめていると、ほんの一瞬だけ、その向こう側の景色が見えた。透けたのだ。半透明になっているのだ。

「な……?」
「オレは今、実体がない。正確には、ハートの具現化によって現れた武器やらと同じようなもんだ。確かに見えるし触れるが、本当にそこにあるものじゃない」

 彼女はあくまで魂の一部。だがそれでもこうやって単独で具現化できているのは、一重に彼女の意志の強さ故だろう。

「共也、オレは今、自分が恐ろしいんだ」
「恐ろしい……?」

 彼女の声は、震えていた。

「オレは今、共也の事を殺したくてたまらない。この身体が、お前の事を切り裂きたいって叫ぶんだ。それを抑えるのに必死で、これでも今、話せているのが奇跡なんだ」
「……お前は今、自分を抑えてるじゃねぇか。お前はやっぱり、自分に勝てるんだよ。変われるんだ。今からでも遅く無い。戻ってくれよ、無川」
「ダメなんだ。今戻ったら、間違いなくお前を殺してしまう。オレの事を信じてくれた共也を、オレは殺したくないんだ」
「だからって……! だからって、お前が死ぬなんて間違ってる! 違うだろ! もっと別の何か、別の方法が、別の結末があるはずなんだ! 誰かが死んでハッピーエンドなんてのは有り得ねぇんだ! お前だって、お前だけ救われないなんて、そんなのあんまりじゃねぇか!」

 俺の嘆きに、彼女は何を思ったのだろうか。泣きながら、俺に微笑みかけた。やめろ。そんな、そんな満足したような表情をしないでくれ。

「……ホント、共也は良い奴だよな。オレは、オレは沢山のテメェの友人を傷付けて、関係の無い人間ばかりを殺して、それでも、お前はオレを、最後までそんな風に見てくれる。オレの事を、信じてくれる」

 彼女はゆっくりと、俺に背を向けて、下を見た。

「だからこそ、だ。そんなお前の為だから、オレは死ねる。死ぬ勇気を、持つことが出来る」
「違う。それは違う。そんなの勇気じゃない、勇気であっちゃダメなんだ! 怖がれよ、恐れろよ。お前は今、確かに死に近付いているんだ! 死ぬのが怖いっていう感覚を強く持つんだ!」
「怖いよ。ああ怖いな、共也。死ぬって、こんなに怖くて恐ろしくて、手先が震えて血が冷めていくような、こんな感覚になるんだな。分かるよ。今なら、殺してきた人間たちが、最後にあんな恐怖の表情を浮かべていた理由も、ハッキリと」

 彼女の、フェンスを握る手がガタガタと震えている。腕も足も、同じように恐怖を叫んでいる。だけど、それから彼女は目を逸らさない。

「お前はそうなっちゃいけない。簡単な話だろ。こっちに戻って来ればいい。オレの手を握ってくれればいい。後は二人で何とかしよう。お前一人だけ悩ませるなんて、しない」
「ああ。それは簡単だ。死の恐怖はそれで避けられる。でも、そしたらオレは、別の恐怖に襲われる。お前を殺してしまうかもしれない。そんな、オレにとって死よりも恐ろしい恐怖が、そこには、居るんだ」
「俺はお前に殺されない。絶対にだ。意地でもお前を止める。そこには恐怖なんてものはない。自分を信じろ。お前なら、きっとそれを抑え込める」

 彼女が、再び振り返る。
 その目は、更にいっそう、赤い光を増していた。

「お前がそうやって、オレに優しい言葉をかける度に、オレの中の殺意が勢いを増していくんだ。オレはもう、抑えられない」

「オレと共也は違う。共也は良い奴だ。だから、そんな共也はオレみたいな無価値な奴の為に犠牲になっちゃ、いけないんだ」
「違う! お前は無価値なんかじゃない! お前は今確かに、ここに居るじゃあねぇか!」
「そう、だから今から居なくなるんだ」

 彼女は、そう言って、遂に、フェンスから手を離した。
 そして、そのまま彼女の身体が、向こう側に傾く。

「じゃあな」

 その言葉を言って、彼女は視界の外へと消えた。
 気が付けば俺は、何かを叫びながら、フェンスの上を飛び越え、そのうちの一つの棒を掴んだ。

「待てぇぇぇぇぇぇぇ!」

 下の方で、無川が驚いたような顔を浮かべていた。俺は無川の所まで空間を繋げる。そして空間の境目に手を突っ込み、遠くの彼女の手を掴む。そして、力を入れて引っ張り上げる。すると、何も無い空間から、無川がテレポートしたかのように、すぐ側に現れた。

「はぁ、はぁ、はぁ……危なかった……ぐッ……!」

 無川こそ助けられたものの、状況は絶体絶命だ。今俺は、フェンスの一つの棒に捕まり、そのまま宙にぶら下がっている状態だ。そして、反対の手には無川がいる。
 かなりキツイ。無川は通常よりもかなり軽いのだろうが、それでも結構な負荷になる。それほど長く、その状況を保てるとは思わなかった。
 冷や汗が吹き出すせいか、棒が手汗によって湿ってくる。少しだけ、滑り始めたそれ。僅かだが、俺の寿命が縮む。

「ぐッ……!」
「……離せよ」
「嫌だ! やっと掴んだお前の手だ、離すわけにはいかない! 例えお前が拒もうとな!」

 無川の言葉は、俺に呆れ返ったような口調だった。構わない。俺は決めたのだから。一度救うと。

「共也、テメェだけなら、まだ助かる。だからお前は生きるんだ」
「断る!」
「……何故、テメェはオレに固執する? テメェがそこまで、オレを救おうとする訳が分からねぇ」

 彼女はそう叫ぶ。なぜなぜなぜと、俺に理由を尋ねる。

「捨てられねぇんだ」

 俺は言う。彼女の求める答えを。

「一度捨てられた人間だからこそ、一度救われた人間だからこそ、お前を捨てられない。捨てられた側の人間だから、他人を捨てられない。その辛さを、知っているから」

 俺は一度捨てられた。ばあちゃんが居なければ、俺は今でも地獄のような日々をさ迷っていたかもしれない。だから、まだ救われていない無川を、俺は見捨てることが出来ない。

「共也……」
「だから……! 俺はお前を見捨てなんかしない! 無川、頼む、お願いだ!」

 無川の目を真っ直ぐ見て、伝える。

「俺を信じろ」

 無川の目に、再び涙が浮かぶ。やるせない表情や悲しみの表情と共に。

「……信じられない。全部、ぜんぶ、しんじ、られないんだよ……オレは……」
「お前が他の誰も、お前自身すら信じられないって言うなら、俺を信じろ。お前を変えてやる。だから、俺を信じてくれ」

 俺の言葉に、無川が泣き崩れた。見たことも無い泣き顔に、それが変わる。全然似合わない。お前は、もっとふてぶてしく笑うべきだ。

「……きょう、やぁ……オレ、は……」

 その時、俺の手が滑った。

「──しまった!」

 俺の体が、重力に引きずられるのを感じた。だが咄嗟にハートの力でフェンスと自分の手の前の空間を接続。自分の手だけがフェンスを掴み、肘から先が消えた俺と無川が何故か空中に浮いているという、なんとも不思議な光景が出来上がる。
 不味い。また滑る。クソ、手汗が止まらない。なんで、なんだってこんな時に。

「おれを……見捨てて……お願い……」
「うるせぇよ! そんな願いは聞かない! 俺を信じろっつったろ! 俺は絶対見捨てないし、絶対に救ってみせる!」

 だが状況が不味いのは変わりない。また手が外れたら、今度こそ俺は死ぬ。なぜなら、感じるからだ。自分のハートの限界を。
 学校に来るまでの数回のテレポート。戦闘での使用。乾梨との心の接続。それらの負担が、今ここで来ている。あと数分したら、今の空間の接続も切れ、俺のハートは使用出来なくなる。
 もう、ダメなのか。
 俺は、救えないのか。また、あんな事を、繰り返すのか。頭に過ぎるのは、ただひたすらの無念と後悔。
 ちくしょう。そう思いながら、俺はゆっくりと、瞼を下ろす。諦めて、しまいそうになった。

「共也君! 諦めちゃダメだ!」

 その、親友の声が、耳に届くまでは。
 咄嗟に上を見上げる。すると、そこに居たのは、頼もしい男だった。

「……貫太……! お前……」
「君が今ここで諦めてどうする! 君は、無川を救いたいんじゃあ無いのか! それなのに、君が諦めてどうするのさ!」

 彼が、その手にナイフを出現させた。そして、俺のフェンスを掴む右手に突き刺す。刻まれた言葉は『離すな』。
 瞬間、フェンスと無川を握る手が、ガッチリと固定された気がした。これで、滑って転落なんてお粗末な自体は避けられる。

「……ああ! その通りだ! 俺が諦めてちゃあダメだよなぁ! 貫太ぁ!」

 俺がそう返すと、返事をするかのように、上から鎖が垂れてくる。それは俺と無川を絡め取り、上へと少しずつだが引き上げる。そのハートは、一度見たら忘れられない。

「愛泥か!」
「貴方には一度助けられましたから。これで貸し借りは、無しですよ」
「……へっ、連れねぇ奴だ」

 だがありがたい。鎖の補助を受けつつ、少しずつ、少しずつ上昇する。

「共也、無川を寄越せ」

 兄さんがそういうので、無川を握る手を少し持ち上げた。すると、兄さんの手が伸ばされ、無川が上へと簡単に引っ張り上げられる。
 俺もその後、貫太と愛泥のお陰で何とか戻ることが出来た。足場に少し感動を覚える。

「良かった……本当に……」

 安堵の息を漏らすのは、乾梨だ。きっと彼女も、責任感で押し潰されそうだったのだろう。

 皆無事だ。きっと他の人達も目を覚まし始めている。俺達は、皆を救ったんだ。
 だけど、まだ一人、救えていない人間がいる。
 俺は、その一人と向き合う。

「皆、離れていてくれないか。これは、俺と無川の問題だ」

 皆は大人しく俺の言う事を聞いて、数歩下がる。そして、俺と無川だけが、その場に残った。

「……無川」
「……きょう、や、ごめん。オレは……オレは……」

 ギラギラと光りを放つ瞳を見れば、彼女が限界であることが良くわかった。きっと、今も抑えるのに必死で仕方ないはずだ。

「お前なら、変われる。お前が信じた俺が言うんだ。間違いない」
「オレ……は……!」

 彼女が、その手に刀を持つ。どす黒い色の刀を、上に構え、俺に近付く。

「共也君!」
「共也!」

 後ろから兄さんと貫太の声が聞こえた。だが俺は振り返らず、無川の目だけを見て、言う。

「大丈夫だ。無川は、俺を切ったりしない」

 その言葉を発した瞬間、無川の口が、開いた。

「ああああああああああああああああああああ! 共也を殺したくなんか、ねぇんだぁぁぁぁぁぁぁ!」

 そして彼女は、その刀で、自分の左腕を切り飛ばした。思わず驚くが、彼女は止まらない。

「黙れ! オレの心も体もオレのもの! オレに指図するんじゃあねぇ! 殺人なんかもう嫌だ! 殺しなんかもう嫌だ! オレの、オレの体から出てい来やがれぇぇぇぇぇ!」

 そして、彼女は右腕だけで、自分の右肩に刀を突き刺した。すると、その手がブランと垂れ下がる。
 空に風が走る。彼女の長い髪が一際大きく揺れたと同時に、その身体が倒れた。

「無川!」

 慌てて駆け寄ると、彼女はこちらを見て、苦しさも混じった清々しい笑顔を浮かべた。

「オレ、やったよ。自分に、勝ったんだ。オレ、変われたのかな」
「ああ、お前は変われた。変われたんだ」
「……そっか。共也が言うなら、信じられる」

 彼女がそう言った途端、身体が透けて行く。ハッキリと、屋上の床が見え始めた。

「……なんだよ、これ?」
「オレは魂だけ……こんなに傷付いたら……消えちまうんだよ……」
「なんで、そんな、嘘だろ?」
「ホントだよ……嘘なんか……つかねぇ……」
「嫌だ。待てよ。無川。お前は、やっと変われた。これからじゃないか。言ったじゃないか。友達になろうって、なぁ」
「……ごめん」
「謝るんじゃあねぇ! 謝ったりなんかするんじゃあねぇよ! 無川ぁ!」

 彼女の身体を抱き起こそうとしても、俺の手は彼女の身体をすり抜ける。もう、触る事さえ出来ない。

「……ちくしょう、俺は、俺はぁ!」

 俺が床を一際強く殴る。だが、じんわりと痛みが伝わるだけで、何も変化しない。広がるのは、途方もない無力感。

「あの、友松さん」

 そんな中、俺に声をかけた奴がいる。乾梨だ。彼女はこちらに駆け寄って、無川のすぐ近くに座った。

「……なんだよ、乾梨」
「私から、提案があるんです。もしかしたら」

 彼女は言った。


「『私』を、助けられるかもしれない」
「……なんだと!?」
「保障はないんです。でも、もうこれしかない」

 彼女は言う。無川の消失は魂のエネルギーの様なもの不足が原因であると。つまり、誰かがそのエネルギーとやらを提供すればいい。

「だから、私と無川の心を繋げて下さい。切れないように、完全に」
「……それは……」

 確かに、そうすれば無川は救われるかもしれない。だが、心を完全に繋げるなんて、出来るのか。
 俺のハートで、俺の力だけで、出来るものなのか。

「違う。やるんだ」

 そうだ。出来るとか出来ないとかの話ではない。やるのだ。やり遂げるのだ。

「無川、乾梨、俺は必ず繋げる。だから、二人はお互いを受け入れてくれ」

 二人の手を握って、無川の場合は手を握るように触れて、俺は言う。

「無川、乾梨はお前の行動を否定したんじゃない。お前に自分の罪を着せてしまったのを悔いていただけなんだ」
「…………『オレ』……」
「……『私』、ごめん。でも、もう一度だけ、もう一度だけ私にチャンスを頂戴。必ず、私はあなたを受け止める。受け止めてみせるから」

 乾梨の言葉に、無川は笑ってこう言った。

「ああ、オレも受け入れるよ。『オレ』の事を、な」

 二人の言葉を聞いて、俺はハートの力を使う。無川の消えかけた心と、乾梨の心を、いつものように自分と他人を繋げる要領で、繋ぐ。それが終われば、後は、二人の心次第だ。そして、無事に接続が完了する。
 直後、俺の視界が、一瞬だけ歪んだ。

「……やべ……限界……」

 先程まで、ハートの力の使い過ぎで限界であったことを忘れていた。そんな状態でこんな風にハートを使えば、どうなるかはもうお察しの通りだ。
 俺の視界が、倒れた。正確には、俺の体が倒れたのだろう。不思議な感覚と共に、俺は意識を失った。
 その直前、無川の身体が、乾梨の心臓辺りに入っていくのが見えた。

「ありがとう。友松さん」
『ありがとな。共也』

 そして最後の最後で、二人の声が、聞こえた気がした。


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