複雑・ファジー小説

Re: ときめきと死す ( No.1 )
日時: 2018/04/25 08:51
名前: 夢野ぴこ (ID: KG6j5ysh)

 「テレビ付けてないと眠れないんだよね」

 私は言った。特に意味は無い。テレビを消して寝たこともあるし、放送休止になった後、あの七色の、クレヨンみたいに色が並んだカラーバー画面を付けたまま眠りに落ちたこともある。
 彼はそうなんだ、じゃあ付けてようか、と言った。
 夏。なんだか地味に、通過する。不完全燃焼に、おわってく。
 今年は夏の始まりから、今まで、うだうだと消化不良な感じが続いている。外の気温も六月に上がりきったと思ったら、七月に入るとお天道様の機嫌でも悪くなったのか、雨が続き街はどんよりとしていた。そして、そのテンションを引きずったまま、夏の本番、八月が、あと一週間でやって来る。天気予報のキャスターは、嬉しそうな表情で「夏の行楽行事を楽しんでください」と言わなくなった。予定されていた都内の花火大会などは雨のせいでダメになってしまったし、たぶんみんな、「今年の夏は夏らしくない」と思っている。地味で、気が付いたら終わっているような、情緒の無い夏。爽やかさもない、灰色の夏。うだるような熱気の中、自転車を飛ばして、途中で形の整った青葉に目を奪われて足を止めて、それをむしり取ってしまいたくなったり、綺麗なものはこの世に遺しておきたかったり。視界がてかてかになるほどの暑さを乗り越えて、たどり着いた駄菓子屋で食べた、七十円のアイスのことを思い出す。あの田舎で見た、水色と緑の思い出。雲がひとつもない空には沢山夢を描いていたんだ。東京に行ったら、東京に行ったら。そんな妄想を、棒のバニラアイスを咥えながら、していた。憧れていた。
 東京はサイケデリック。水色とアイスの色と、夕焼けくらいしか知らなかった馬鹿な私は、持っている色の数が少なすぎて、必死になってなんでも混ぜて変なことになっている。すみません、馬鹿で。馬鹿はテレビをつけていないと、眠れないのです。優しい彼が持つのは薄いグリーン色。初めて一緒に寝る私を気遣っている言動が、よく見られる。

 「電気は? 明るい方が眠れる?」
 「や、それはどっちでもいい」

 じゃあ、消そうか。全部消したら寂しいから、豆電球くらいにしよう。
 安くてダサいホテルだ。ぱち、ぱちと電気のスイッチを切り替える音が聞こえる。私は裸にシーツでくるまったまま。ぱち、となって部屋は真っ暗になる。ぱち、もう一度押すと少し明るいくらいのいつもの部屋になる。事後、ヘアスタイルも化粧も崩れた自分をあまり見られたくなくて、シーツで顔を隠した。ぱち。最後の一回でついになった、豆電球モード。オレンジの小さな光は部屋の中のものがなんとなく区別できる程度の明るさで、けっきょくみんなこれがいちばん落ち着くんだろうなあ、と二人で笑った。
 彼の腕の中で見る夢はどんなものだろう。豆電池モード、に目が慣れてきて、となりで一緒に寝ている彼の顔が、ぼんやりからはっきりへに、変わってきた。明日は何をしようか、蜷川くん。どうせ、バンドでスタジオ練習しなくちゃいけないから、下北沢に行くとか行って、私がまだノロノロと起き出して化粧とか髪を巻いたりとかしているうちに、出ていっちゃうんだろうな。彼、自分がやってる自由区っていうバンドが何よりも好きだから。お腹にだけタオルをかけて抱き合うように、さも仲良しのようなふりをして眠るけど、起きたらそこには何も、誰も無いんだろうな。
 蜷川くんは、私に背を向けて横になり、「おやすみ」と言った。

Re: ときめきと死す ( No.2 )
日時: 2018/04/27 04:11
名前: 夢野ぴこ (ID: lQjP23yG)

 たばこの煙がぷか、ぷかと、水色の空へ上がっていく。途中で行方を見失ってしまいそうになる、ところに向かって、またハーっと煙を吐き出した。白い煙は天まで登ってゆく。のんびりと、ゆらゆらと。
 私は、蜷川くんに恋をする、ただのフリーターの女だ。一人暮らしのアパートは二階。練馬区。駅からは、徒歩で十分くらい。出かける時は、練馬駅から都営地下鉄に乗る。とちゅうまでは夢うつつでシートに座っていられるが、新宿駅でどわっと車内人口は増える。バイト先が渋谷なので、青山一丁目で乗り換えをするのだが、身動きが取れないほど窮屈になった電車は息がしづらいし、隣に音が漏れていないだろうかと心配をして、イヤホンの音量を下げたりもする。単純に周りに迷惑をかけるのが嫌だし、私の音楽は私だけのものであってほしい。
 その点、アパートは、近隣住民に迷惑さえかけなければ自由だ。誰にも干渉されない、私だけの城が持てる。蜷川くんは予想通り、起きたらホテルの部屋にはいなかった。荷物ごと、いなくなってしまったので、彼の吸っていた、同じ銘柄のたばこを購入し、一人で帰ってきた。次の仕事の出勤はいつだっけ、と右手で握りしめたスマホで確認をする。そしたら、シフトの欄はぽっかりと空いていて、私が次入ればいいのは、来週の、水曜日。けっこうまとまったお休みができてしまい、煙とともに「うぁ」と変な声を吐き出した。今週末は自由区のライブがあるから、と言ったら、かなり優しめにシフトを組んでもらえたみたいだ。雇われて半年目になるバイト、仕事内容は、渋谷の小さなライブハウスの清掃。なかなかいい職場だな、と思っている。ライブが始まる前の、しんとした箱の中、ステージに立ってみたり、する時に。大都市渋谷の、しょぼいビルの地下一階。ここでライブをする人たちは、駆け出しのアーティストばかりだった。大きな夢を持った彼らが、毎日入れ代わり立ち代わりやって来る。自由区はもう少し大きな箱を埋めるため、バイト先で蜷川くんに会えたことはない。
 蜷川くんはハイライトを吸う。かなりのヘビースモーカーらしい。私、ベランダに一人、水色のパッケージからたばこを摘んで出した。安いライターで点火、すうって吐いた細い煙が風に乗って飛んでいく。
 私はもともと、教室の隅で本を読んでいるような、根暗で真面目な学生であった。そのため、同じく根暗で真面目どうし、仲良くつるんでいた元同級生などに会うと、タバコなんて害でしかないならやめなよ、と真顔で言われる。私はその度に、へらぁと笑って、「早く死にたいからやっているんだ」と返すのだ。同級生らは驚いたような顔をする。名前が少し珍しい程度で、教室ではいるかいないかも分からなかった、地味な子でしたが、私。

 「早く死にたいからやってるんだよ」

 たばこを一本吸うと、寿命が五分縮むらしい。それなら最後まで、命をむしり取られる最後まで吸いたい。でも、フリーターの私にはそれが出来ない、お金がない。あと、来週、また蜷川くんに会えるっていう楽しみもあるし。蜷川くんの音楽が、弾くギターが、好きだ。そして、願わくば彼の辿ってきた道や、信仰や、大好きなハイライトを死ぬまで守りたいと本気で思っている。あぁ、気持ち悪い。気持ち悪い女だ。蜷川くんは高校の同級生だった。違うクラスであったが、最初は私にわざわざ会いに来た。綺麗な名前の女の子がいるって聞いてさ、と彼は言った。大きなギターケースを背負っていた。放課後。私は自転車を引いて、帰るところだった、夕方。
 星のよだかが、青い宇宙をとんでゆく。
 蜷川くんがはじめて作った曲は、自由区がはじめて出したアルバムにも収録されている。歌詞は色々と変更があったらしいが、ここの、このフレーズだけはこのまま使いたかったみたいで、自由区がアルバムを作ることになった際、蜷川くんから久々に連絡が来た。「よだかの歌詞、あのままアルバムに入れていい?」と。高校一年生の時に作った歌。いつから好きになったのかはもうわからないが、はじめてギターを背負って私の前に、彼が現れたその日から、蜷川くんの音楽に、世界に、恋してしまったのかもしれない。今だって甘い青春を夢見ている。二人で飲む約束を取り付けた。昨日を心待ちにしていた。案外簡単にホテルに行けた。蜷川くんは私を抱いた。夢見た彼は一夜だけ私のものになった。知ってた、高校の頃から蜷川くんの女癖の悪さは有名だったから。それでもよかったのだ、私は。
 ぷか、ぷか。たばこの煙が飛んでいく。くらくらしてきたな、と思いつつ、最後、深く深く吸って、吐き出した。これを吸うときまって体調が悪くなる。貧血がひどくなるし、吐き気を催すこともある。でも、それだけ、私は死に向かって着々と近づいていっている、という確信が持てる。私は、すごくゆっくりと、ゆるやかに、自殺がしたい。烏滸がましいけれど、好きな人に、他の全てを捨ててまで、愛されたいと思ってしまうんだよな。狭いアパートで一生、ふたりで愛を誓いあって、確かめあっていたいんだ。吸殻を灰皿に押し付ける。蜷川くん、の人生に、私はちゃんと居るんだろうか。どうせ、キープその二くらいに思われているんだろうな。
 夏、なんだか早く過ぎていく。ゆっくりと登っていった煙はもう見えない。今日の夜は月が綺麗らしい、綺麗なものを見て、素直に綺麗だという言葉を出せる人間になりたかった。テレビの中のアイドルは可愛い。蜷川くんも、いつか、トップアイドルのMysherryと共演したいと言っていた。その度に私は肩身の狭い思いをする。私、ね。あのアイドルグループの人気のメンバーと同じ苗字だから、私でいいじゃん。もうそんな上を目指さないで、置いていかないで。自由区がそんなに大々的に流行るとは思えないが、あの子が可愛い、共演してみたいという話を聞くと、なんにも関係ない私が苦しくなる。
 ベランダから一人暮らしの部屋に足を踏み入れた。ものが散乱としている。そろそろ、片付けなければ。虫とか出たら、嫌だし。夏は特に気をつけなければならない。
 テーブルの上には、酒の缶や薬や、払わなければいけない公共料金の請求書が散乱している。私はその一つを手に取ってみる。ガス代。宛先、星野夜鷹さまへ。
 星のよだかが、青い宇宙を飛んでいく。
 やりきれないので、スマホで再生を始めた。私の名前が歌詞になったこの曲が、自由区で一番好きである。

Re: ときめきと死す ( No.3 )
日時: 2018/05/09 08:44
名前: ゆめのぴこ (ID: a0p/ia.h)

 「星のよだか」は、アルバムの七曲目に入っている。綺麗な旋律と、星空に寄り添うように流れるギターが聴き所である。退廃音楽ばかり作っている自由区が珍しく作った、少しだけ、希望のある前向きで明るい歌。ドラムの音が、ゆっくりとイントロのビートを刻む。チープなCDだ、ボーカルが息をすうっと吸うところまで聞こえる。
 蜷川くんが、私のために作った歌だと聞くとどきどきする。しかし、彼は「星のよだかが青い宇宙を飛んでいく」というフレーズを使いたいだけだったのた。星のよだか、青い宇宙。どうして人間は星空にロマンを感じるのだろう、星なんて、だいたい全部ゴミ屑なんだよ。バイトの帰り道、あぁ月が綺麗、星も綺麗、と思って立ち止まることがあるけれど、スマホのカメラを向けてみても、それらは上手く写ってはくれない。一眼レフでも買ってみればいいのだろうか? どうせゴミしか浮いていない空を、たっかい金を出して買ったカメラで撮るのか? 少ないバイト代だから、もう少し有意義に使いたいものだ。
 星野夜鷹という名前について、私は別に名付けた親を恨んだりなどはしていない。ただ、名乗った時、綺麗な名前だねと褒められる度に、夜空をかける鷹なんて、素敵でもなんでもないだろうと思う。
 東京はビルが高く、街が狭いのだ。星をかけるよだかなんて、見えない。し、そんなものはいない。私の綺麗な名前は全てが幻想。幻想を背負っていきていくんだ。それってもう、死んでいるようなもんじゃないか? 星のよだかは墜落し、蜷川くんはライブハウスでちょっとだけ私を思い出しながら「星のよだか」を演奏する。高校の時、私のクラスにやってきた蜷川くん。「綺麗な名前の女の子がいる」って指さして、彼はすぐに曲を作った。公園のブランコで、膨大な量のルーズリーフに何かを書きなぐっていた。歌詞を直接見た時は恥ずかしさがこみ上げてきたが演奏を聞いたら、やっぱり、素直にかっこよかった。星のよだか。今、星のよだかは、墜落死してしまいました。星野純華ちゃんの曲でも作ってたら、今頃バカ売れだったろうにね。
 公共料金の紙を踏んづけて、二本目のタバコに火をつけた。煙はぷかぷかと飛んでいく。蜷川くんは、また週末可愛いラブホテルに連れて行ってくれるらしい。
 そんなこといいから、東京を少し離れて、星空の下、宇宙を翔けるよだかを、この目で見てみたいな。彼女でもない女の、こんな願いは重いか。すーっと、タバコの煙を吐き出した。次蜷川くんに会えるまでは、まだ一週間ある。

Re: ときめきと死す ( No.4 )
日時: 2018/05/13 14:30
名前: 夢野ぴこ (ID: v2BiiJyf)

 バイト中。開店まではまだ一時間半あり、私達は誰もいない無音のライブハウスに、アンプや大きな機材を運び、照明を調整し、今日、もしかしたら、ここから大きな舞台に巣立っていくアーティストのお手伝いをする。昔は重くて持てなかった機材も、今や一人で運べるようになった。後輩の男の子にはとても心配される。でも私は案外、ひとりでも、生きていけるタイプなんだろうな。なんとも言えない顔の後輩くんを見て申し訳なくなる。「困った時には頼ってくださいよ」と彼は心配げに言っていたが、もはや私には、困っているものがない。重いものを運ぶくらい簡単だ、この仕事の経験が無い女子ならきついかもしれないけど、私はもう慣れた。

 「よだか、そこは俺がやっとくから、お前はドリンクの補充しておけよ」

 高くも低くもない、落ち着く、中性的な声が、「よだか」と私の名前を呼んだ。振り返ると、黒髪をポニーテールに縛った、身長がすらっと高くて白のワイシャツにスキニージーンズを履いている、キリッとした風貌の女性と目が合った。

 「ありがとうごさいます、霧美さん」

 任せなって、よだかは週末の自由区のライブで頭がいっぱいだろうしなぁ。彼女はけらけらと笑って、重い機材をひょいっと持ち上げた。バイト仲間、名前は霧美さん。それ以外の情報はよくわからない。ミステリアスな女性なのだ。中肉中背、地味な顔つきで、流行のファッションもうまく着こなせない私にとって、霧美さんは究極にかっこいい大人の女性だ。歳は私の五つほど上だろうか。前に飲みに行った時も、霧美さんは自分の話はせず、私の話だけをずっと聞いてくれた。アメリカンスピリットを吸いながら彼女は、「そうかそうか、自由区の蜷川が好きなのかぁ、もっといい男なんて死ぬほどいるのにな、よだかにはそいつしかもう見えないんだよな」と、私の頭をぽんぽんと叩いた。霧美さんの恋愛の話も聞きたかったが、私はけっこう、日本酒一杯でくらくらしてしまうタイプの人間だ。気が付いたらお会計は済まされており、霧美さんの肩に捕まって、「蜷川くん、蜷川くん」と呪いみたいに吐き出す私を、タクシーで家まで帰してくれた。霧美さんは、とてもいい人だ。一人称、俺だけど。最初はびっくりしたけど、霧美さんくらいかっこいい女の人なら、途中から何も気にならなくなった。重い荷物を軽々と運んでいく霧美さんを、私は、オレンジのリキュールを補充しながら見ていた。私は高校の時から蜷川くんが好きだったが、霧美さんはどんな恋愛をしてきたのだろうか。いつもニヤリと笑って、狙った男を落としていく。店長さえも霧美さんには敵わず、開店前の店内BGMは、霧美さんが好きだという絶望的にやる気のない、やるせないUKロックが流れていた。

 「私、こういうポワーっとした、生きる気力のない音楽が大好きです」
 「だろうねえ、自由区なんて聴いてるんだから、これはドンピシャでしょ」

 大きなアンプの上に座って、霧美さんは足を組み、二本目のアメリカンスピリットを箱から引き抜いた。

 「……でも、私、やっぱり邦楽のほうが、自由区のほうが好き。蜷川くんには、振り向いてもらえなくたっていいんです。ただ彼の作る世界、紡ぐ言葉、ステージで浴びる歓声、それを守り通せたら幸せだなって」

 夏、やっぱりすぐに終わっていく。霧美さんは一瞬、きょとんとした目で私を見たような気がする。けれどすぐに元に戻って、その綺麗な口を小さく開いて煙を吐き出した。そして、こう言った。

 「よだかって、悲しいくらい一途なんだな」

Re: ときめきと死す ( No.5 )
日時: 2018/07/11 03:33
名前: 夢野ぴこ (ID: MHTXF2/b)

 「よだか、ビールひとつ」

 ライブハウスのカウンターに、私と霧美さんはいる。私たちの今の仕事は、ライブ中、チケットを持ってきた人に、お好みのドリンクを注いで、渡してあげる、それだけだ。私は霧美さんの指示を受け、瓶ビールを紙コップに注ぎ、客に手渡した。ここは小さな箱だから、カウンターがライブハウス内に作ってある。だから、私や霧美さんなどのアルバイトも、タダで、舞台に立つアーティスト達を見ることが出来るのだ。後ろの棚にびっしりと並んだ、見たこともない種類の酒や、ばかみたいにたくさん置いてある紙コップにもびっくりしたが、やはり、ステージをここから見た時、とても、どきどきした。蜷川くんも最初はこういう会場からのスタートだったんだろうな。最初のファンになりたかった、「最初」とか「最期」にこだわりだすとキリがないけど、間違いなく私の、最期の恋は蜷川くん。目立った顔立ちではない。だけどどこか、言葉で言い表せない部分で、かっこいい。星のよだかなんて曲を作ってしまうところも、それが完成した時私に見せてきた笑顔も。
 蜷川くんの好きな、これからやりたい音楽の系統は知っていた、だけど、「星のよだか」だけは違った。まるで綺麗な、この世のものじゃないような旋律に、空とか星とか、遠い世界の幻想を詰め込んだ音楽。蜷川くんの曲はたくさん聞かせてもらった。オルタナティブ、退廃的、そんなジャンルに入るんだろうな。でも、星のよだかだけは、クリスマスシーズンに街中で流しても、まったく違和感がないくらいの曲だ。どうして蜷川くんが、星のよだかをこんな曲にしたのかはわからない。一緒に聞いていた時、「この曲、ポップだね」と言った、私の何気ない一言に、彼は少し不機嫌になってしまった。音楽に関しても、蜷川くんの世界に関しても、ド素人な私は、あたふたとしながらも、この少ない語彙と情報では彼の世界には入れ込めないんだなと思ってしまった。星のよだか。ロックじゃないんだ、ジャズとかファンクとかでもないんだ、じゃあなんだ? 蜷川くんが目を輝かせてノートに何かを書きなぐっていた星のよだか、頭の中で流れ出すピアノが絡み合う綺麗な旋律。いつか生で、ライブで聞いてみたい。星のよだかは私ですって、ライブハウスの端っこで、密かに笑っていたい。この曲は前述の通り、素人の私が聴いても「ポップ」である。自由区のバンドコンセプトは、九十年代流行った洋楽を模倣したような、気だるさやチープさを全面に出したものだ。だからこそ、「星のよだか」の、明るくて王道なメロディが分からない。蜷川くんは、こんな歌が好きだったっけ?

 「ラブソングか、この甘ったれた音楽は」

 考え込んでいたら、横で霧美さんがふっ、と笑い捨てた。小さなステージでを四人組のバンド。どこにでもいそうな人たちと、どこにでもありそうな音楽。ラブソング。失恋の歌が、私は好きだなあ。この時点で私は幸せになるのにはとことん向いてないことがわかる。不幸でいるのが、きっと好きなんだな。ステージの上で「愛してる、君を愛してる」と叫び続けるボーカルを、見る。ラムのリキュールを継ぎ足しながら、私は自由区の曲を口ずさんでいた。音の圧に殺されそうなライブ会場では、控えめに歌っていれば隣の霧美さんにさえ気づかれない。少し暗い、カウンターの照明の下、本当にこいつらには、愛なんてわかるのかね。霧美さんは吐き捨てた。愛してるって言えば、私も愛してるよって言葉が帰ってくるような、そんな恋愛をしてきたんじゃないですか、と私は言った、ドリンクを注ぎながら。愛がどうとか、恋がどうとか、もう私にはわからない。霧美さんもそれを察したのか、はたまた霧美さん自身もそんな恋愛をしてきたのか。私は何か思いつめた表情をしていたらしい、霧美さんは、安心しろって、こんな音楽売れないから、と、また笑う。私も、はは、と適当に笑う。
 後日、このバンドは有名なプロデューサーに目をつけられたらしく、誰もが知る事務所からメジャーデビューした。

Re: ときめきと死す ( No.6 )
日時: 2018/06/11 00:58
名前: 三森電池 (ID: Ft4.l7ID)

 蜷川くんとはホテルで待ち合わせをし、ホテルで解散する。白いシーツを引いて私は、私をほったらかしてスマホをいじっている蜷川くんの背中を見ていた。
 いったいどんな女の子が、蜷川くんの彼女になれるのだろうか。アイドルみたいに可愛くて、スタイルが良くて、胸も大きくて、気立てが良くて、いつも蜷川くんの後ろに隠れるように立っていて、ニコニコ笑っている女の子。私とは正反対だな、私は何も持っていないな。蜷川くんは、あと数本しか入っていないセブンスターの箱から、タバコを取り出した。私の吸っている銘柄はハイライト。蜷川くんが吸っていたから、私もハイライト。なのに彼は、簡単に、セブンスターを取り出した。オレンジの安いライターで火をともし、すうっと息を吸った後、部屋中に白い煙が広がる。蜷川くんの口元から零れるように流れていく煙を見ながら、私もセブンスターにしよう、なんてことは、思えなかった。蜷川くんが吸ってたからハイライトにしたのに。煙草のことなんてよくわかっていないけど、甘くて、コクのあるような、パッケージもオシャレなハイライトが、私も好きだったのに。
 大きなベッドに転がる。ラブホテル、内装はとてもきらびやかで豪華だけど、天井にはいくつか染みがある。どんなことをしたらここに染みができるのだろうか、と思った。蜷川くんは私に興味など示さず、煙草をすいながらスマホに文字を打ち込んでいる。二人分、大きなベッドだなあ。一回寝返りを打っても、まだ余裕がある。こんなとこに住めたら。ふたりぶんのベッドを独占してはしゃぐ私を、笑顔で叱る、彼がいたら。蜷川くんは私に見向きもしない。いつものことだから、あんまり気にならない。でも、もし私が結婚したとき、隣にいるのは蜷川くんではないのだろうな、それだけはわかる。それでも私は蜷川くんが好き。大好き。このために一週間頑張ったのに。蜷川くんは付けっぱなしだったテレビを消して、「よだか」と、背を向けたまま、私を呼んだ。

 「俺、明日スタジオ練なんだよ。もう寝よう」

 私、テレビつけてないと眠れないの、という言葉を飲み込んだ。部屋の電気がぱちんと消える。蜷川くんが、同じ布団に入ってくる音がする。もしかして、もう一度抱いてくれるのではないかと思い、彼の細い指に手を伸ばした。冷たい人差し指を、ぎゅっと握りしめた。でも、もうそこに、暖かい熱はない。しばらくして、静かな寝息が聞こえ始めた。私に背を向けて、蜷川くんは眠っていた。
 その寝顔にキスをすることも許されない。広いベッドの天井を見つめているだけだ。今日はまだ、眠れなさそうだ。

Re: ときめきと死す ( No.7 )
日時: 2018/06/27 03:13
名前: ゆめのぴこ (ID: 9AGFDH0G)

 蜷川くんが寝静まった後、私はテレビをつけた。テレビつけてないと眠れないんだよね、と言ったあの言葉を、蜷川くんは完全に忘れているようだった。
 夜中だから、チャンネルをぽちぽち、と変えてると、砂嵐が出てきたり、カラーバーが出てきたりする。芸人とかタレントがちょっと卑猥な話で盛り上がる番組ばかりだったので、ニュースを最小の音量で見ることにした。蜷川くんを起こさないように。ホテルにおいてあった、安っぽい灰皿にはセブンスターの死骸が転がっている。そうやってすぐ、女も銘柄も変えるんだな、と、静かに流れてゆくニュースを見ながら思うのだ。若者の自殺とか、幼い子供の虐待死とか、流れていく悲しい話を見ていた。比べるなんてナンセンスだが、私だって辛い、なんとかして死にたいと思っていた頃だ。蜷川くんの体は貰えるけど、心はずっと離れたまま。隣で寝ている蜷川くんの腕をなぞる。死んでるみたいにきれいだ。このまま、私が奪えたのなら。私だけのものに、できたなら。立ち上がって、灰皿を手に取った。青色のパッケージから一本抜き取り、安いライターで火を灯した。暗い部屋の中で、ライターの火だけがゆらゆらと揺れていた。煙草を咥える。ニコチンが、体内に入り込んでくる感じがする。事後の煙草は美味しいと蜷川くんは言っていたが、そんなの違う、私にとっては虚しいだけ。からっぽの心ごと、煙を吐き出した。そして、また口をつけ、吸う。体に悪いものを、摂取しているなあという感じがする。煙草一本で、人間の寿命は五分縮むらしい。じゃあこのハイライトも、蜷川くんのセブンスターも、全部吸うから、死なせてくれよ。暑そうにシーツを剥ぎ取り、バスローブだけを身につけて気持ちよさそうに寝ている蜷川くんに、私のつらさなんてわからないくせに! とヤケになって、煙草の痕をつけてやろうかと思った。できないけど。私はもう、彼が好きなのか、嫌いなのか、わからない。だけど、これ以上蜷川くんのことを考えていると、不幸になって、頭がおかしくなってしまうことは、わかっている。それでもやめられないのだ。それでも愛しているのだ。寝顔にキスをしたかった、名前を呼んで欲しかった。全部叶わなくて、夢みたいだ。蜷川くんにとって私は、沢山いる遊び相手のうちのひとりで、「星のよだか」っていう歌を作ったくせに、ライブでは全然やらないし、なかったことに、されてるし。あの時の蜷川くん、君の曲を書かせてよと言ってきた笑顔、全部、もう消してしまいたい過去なのだろうか。私は蜷川くんが、まだ、こんなに好きなのに。
 自ら不幸になりに行く、馬鹿な女だ。蜷川くんの彼女になりたいわけじゃない、そんなこと望んでない、ただ好きだよと言って、抱きしめて欲しい。ステージに立つ彼は何よりもかっこよくて、私は自然にリズムを取り出して、気がついたら、見とれていた。一瞬の、煌めきのようだった。蜷川くんがバンドをやっていることは前前から知っていたが、あれはもう、反則だ。蜷川くんのファンだという女子が、わらわら湧くのも仕方が無い。
 「諦めなよ」と霧美さんは言う。女は、追いかけられた方が幸せだって。追うだけの恋愛は、精神を削るだけだって。でも、私、蜷川くんより好きになれる人なんて、この先いないよ。私はこんなに好きなのに、蜷川くんは私のことなんて、そのへんの、モブBくらいにしか見ていない。そう話したら、霧美さんはさらに難しい顔になって、本当に、その男だけはやめなよと言った。
 蜷川くんの中で、特別になりたい。でも私は、なにもできない、つまんない女だ。蜷川くんの目の前で首を切って、死ぬくらいしか、彼の人生に「私」は残れない。

Re: ときめきと死す ( No.8 )
日時: 2018/07/11 03:31
名前: 夢野ぴ子 (ID: MHTXF2/b)

 蜷川くんと別れ、駅から、二番線の電車に乗って帰った。平日の昼間だからか、席はガラガラである。端の席にもたれながら、私はイヤホンを耳にさしこんだ。再生するのは自由区のアルバム。ボーカルがなぞる歌詞より、蜷川くんのギターのフレーズばかり、耳をすまして聞いている。電車の揺れ、アナウンスなどでそれは時折途切れるも、私の耳から脳まで、幸せな音が満たしてくれる。
 そうか、平日の、昼間か。だからこんなに電車は空いているのか。蜷川くんはバンドマン、予定は不定期。私はフリーター、同じく予定は不定期。景色が流れていく中央線、コンクリートの古い壁には水商売を誘う広告。今日の天気は晴れ、電車が発進し、通り過ぎていく際ちらりと見えたヨガ教室で、思いっきり体を伸ばしている女性達。蜷川くんは寝相が悪く、私はベッドの隅で丸くなって眠る。もし私たちが恋人だったら、抱き合って眠れるのだろうか。「星のよだか」が流れ出す、綺麗なイントロが、なぜか、耳から通り過ぎていく。中央線から眺める景色が、広告が、どれもこれも同じに見える。
 蜷川くんは、綺麗なんかじゃない。高校時代の時から他校まで女の子を食べ散らかして、問い詰められても知らんぷりを決め込んで、過去なんて全部捨てました、とばかりに、自由区のギターとして、かっこつけてステージに立っている。あれだけ好き勝手抱いて、ぐちゃぐちゃに扱い、それでも縋ってくる哀れな女、「星のよだか」のことを、創作物として昇華させ、ステージで弾く。この歌詞を書いたのは蜷川くんだ。星のよだかは私のことだ。蜷川くんは、ファンの女の子にも手を出しているという噂を聞いた。その子達はきっと、私なんかよりも可愛くて、蜷川くんにも大切にされている。星のよだかなんて、そんなものは、たった一曲、適当に完成させただけで、思い入れとか、そんなに無いのだろうなぁ、と思う。
 最寄り駅で降りた。人は変わらず少ない。まあ当たり前に、平日の、昼間だからだ。私は夜からバイト、いったん自宅に戻り、シャワーを浴び、着替えて渋谷へ向かおう。今日のシフトも霧美さんと一緒だ、それだけが嬉しいことだ。
 駅前を抜けると静かな住宅街に出る。この狭い東京に、きらきらした憧れを抱いて上京してきた人たちが、詰め込まれているアパートが、たくさんある。彼らは東京に絶望していないだろうか。私はすこし、絶望しているよ。リュックのポーチからハイライトを取り出した。蜷川くんとお揃い、だと思っていたのは私だけだった。安っぽいライターで点火、煙を吐き出して、真昼間の住宅街を歩く。どこを見渡しても安アパートだらけだ、ここに住んでいる若者達は、東京にどんな夢を見ているのだろうか。歩きながら、私はハイライトに口をつけた。最後まで蜷川くんの前では可愛くいたかったから、塗りたくった赤い口紅が、ベッタリとフィルターに付着する。
 くだらない、くだらないなあ、と思いながら、私は「星のよだか」の再生を止めた。イヤホンを引き剥がし、リュックに押し込む。歩きながら煙草の煙を吐き出す、非常識な女を、たまにすれ違う大学生風の人間たちはすこし不快そうに見ていく。早く死にたいから吸ってるんだよ。ハイライト、ニコチンが直接脳に突き刺さってる気がして、いけない、貧血を起こしそうだ。早く死にたいくせに、ダサいなあと自嘲し、半分くらい残っているハイライトを道路に捨て、靴先で火を消した。
 ボロアパートが所狭しと並んでいる場所に、私の部屋もある。郵便受けを確認し、何も届いていないことを確認すると、階段を登り、リュックから鍵を取り出した。その時、さっき押し込んだイヤホンが絡まった。
 だから、星のよだかなんて、私の歌じゃないんだって。蜷川くんは私のことなんて、どうでもいいんだって。
 鍵穴に差し込む。ドアを開ける。私だけが住んでいるこの部屋は変わらず殺風景だ。かといって、ラブホテルみたいな豪華さは求めていない。少しのおしゃれな家具と、良い音楽と、あと、好きな人さえいればいい。それらは何一つ叶うことはない。私は化粧も落とさずベッドに倒れ込んだ。そのまま眠ってしまいたかったが、今日もバイトがある。

Re: ときめきと死す ( No.9 )
日時: 2018/07/18 14:16
名前: 夢野ぴこ (ID: RnkmdEze)

 よだかはさ、バンド以外に興味あるものはあるの? と、霧美さんに聞かれた。あの後すぐ支度をしてバイトに向かった私は、なんだか、とても疲れた顔をしていたらしく、霧美さんがいつもより早い時間に休憩を入れてくれた。楽屋と呼ぶには設備が貧相すぎる、アーティスト達が出番を待つ部屋の中で、ポカリスエットを飲みながら、私達は、いつものようにぽつぽつと、会話をしていた。
 蜷川くん以外に、興味のあるものなんて、ないかもしれない。そんな私の人生って、すごく薄っぺらいかもしれない。もし、とても素晴らしい絵画とか、音楽とか、小説に出会ったとしても、蜷川くんが私の目の前に現れたのなら、すべて吹き飛ぶ。霧美さんはアメリカンスピリットに火をつけて、俺が何を言ったって、よだかは蜷川から目をそらしたりしないんだろうな、と言った。

 「そりゃあ、好きなんですから。他に何も、いらないくらい」
 「でも、あいつは相当な女たらしだし、よだかなんて二番目、いや何番目かも分からないんだろ? これを、恋愛って言っていいのかね。一途な片思い、と言うには少し、よだかが可哀想すぎないか」
 「私は、これで幸せですから。私は蜷川くんに救われてきたし、この恋が実るとか実らないとかは、どうでもいいんです。ただ、彼に会いたい、触れたいってだけ」

 空虚だなあ、と思う。
 霧美さんの言っていることは、正しい。だけど蜷川くんが居なくなったら、私はどうやって生きればいいんだろう。古いアパートのベランダで、ハイライトをふかしながら、自由区を流して、次会える日を楽しみにして待つ。それがどんなに、蜷川くんにとって意味の無いものであったとしても、私にとっては、大切な大切なことなのだ。ただ、よだかが可哀想すぎないか、と言った霧美さんの目がどこか悲しそうで、こんなにも心配してくれる人がいるのに、自分の体と心を大切にできない私を、自己嫌悪で塗りつぶしたくもなった。蜷川くんは今何をしているだろう、どの女の人と一緒にいるんだろう。頭がぼうっとして、ポカリスエットの水面にゆらゆら映る、自分の疲れた顔を見ていた。

 「よし、よだか、今日は帰れ。店長には俺が適当に理由つけとく、どうせ今日来るバンド、チケットもまともに売れてねえし、俺ひとりで回せるよ。よだかは疲れてるんだ、たまには早く寝ろ。先輩命令だ」
 「そんな。私、働けますって。私が蜷川くんのことが好きでしょうがないのって、いつものことじゃないですか。大丈夫、大丈夫ですから」

 慌てて霧美さんを止める。人の優しさには、敏感なつもりだ。一番大切な人から、優しさをもらえないでいるからかもしれない。いくらチケットが売れていないとはいえ、霧美さんと、あと新人の子だけでライブを回すのは大変だ。私が少し手伝ったおかげで、ライブが成功すると嬉しい。お礼を言われると、私はここにいて良いんだ、と思える。いつか蜷川くんのライブのサポートもしたくて、もう少し大きいライブハウスで拾ってもらえるように、頑張っているのだ。

 「頭冷やせって、よだか。夏の暑さでおかしくなってんだよ、早く家に帰って休みな。大好きな自由区でも聴きながら、寝てろよ。今日は俺がひとりでやる。さ、帰った帰った」

 霧美さんに背中をぽんぽん、と押される。
 なぜだか、「この場は私がいなくてもなんとかなるんだな」と思い、悲しくなった。普段貰えない物だぞ、人の優しさくらい、真正面から受け取れよ、星野夜鷹。そう思ってみるも、立ち去っていく霧美さんの後ろ姿に、「ありがとう」も言えなかった。
 それくらい疲れているんだな、と思い、私は楽屋の床に座り込んだ。

Re: ときめきと死す ( No.10 )
日時: 2018/07/19 18:03
名前: 夢野ぴこ (ID: w32H.V4h)

 帰り道、とぼとぼホームを歩く私の横を、快速電車が通り過ぎていく。
 蜷川くんに会えるのは、次は、いつだっけ。そういえば次会う約束を、しなかったっけ。もし私が蜷川くんに、このまま連絡をしなければ、私たちの関係は、終わってしまうのだろうか。
 ふらふら、ふらふら。霧美さんの言葉を思い出す。自分を大切にしなって。したいけど、したいのに、大切になんか、できないからこうして泣きながら歩いてる。蜷川くんに、連絡をしないと、私からしないと、もう会えないんだろう。それくらい、どうでもいいんだろう。私なんかいなくったって、彼は生きていくし、友達と遊んだり、女を抱いたり、バンドではさらに上のステージに上がっていく。命を削って、大好きだったって伝えた。けれども彼は振り向くこともせず、私を適当に抱いては、朝、ホテルを出ていく。今更、また、「好きです」なんて言えない。言ったら、こいつは俺に惚れている、面倒な女って認定をされて、関係を切られるんだろう。だから私は、彼ができるだけ、快く過ごせるように、都合のいい女でいられるように、ニコニコしている。見た目だって、本当は地味だけど、蜷川くんに会う日は、香水をつけて、スカートを履く。だけど、それは、蜷川くんにとっては、いくらでもある夜のうちの一つで、私は、いくらでもいる女のひとりで、抱かれるたびに、新調した下着も、スカートも、すぐにベッドの外に放り投げられてしまい、ああ、と悲しくなるのだ。
 私には、何も無い。蜷川くんは、私のことなんて、気にもとめない。バイトだって私が居なくても回るんだ。霧美さんは有能な人だ、私なんかよりずっと、店長も贔屓にしているし、新人の男の子も、覚えの悪い私なんかより、重宝されているんだろう。
 蜷川くんに会いたい、けど、こんな疲れきった、化粧もぐしゃぐしゃで、バイト帰りの私は、見られたくない。中央線。ゴミ臭い匂いが漂う、道行く人たちは、何がそんなに楽しいんだ。私はポケットから、まだ十本入っているハイライトを投げ捨て、そのままスニーカーでぐしゃりと、潰した。さようなら思い出、いや、ここまで想った日々を簡単に、さようなら出来るわけないだろ。星野夜鷹は、永遠に蜷川くんしか見えない。蜷川くんが振り向かないのなら、もう価値はない。
 自分の部屋の、古いアパートを思い出す。夏風を浴びながら、だらんとぶらさがる、私の死体。「早く死にたいから吸っているんだよ」と笑う私。
 もう、疲れてしまったよ、と、通り過ぎていく電車に向かって呟いた。
 スマホを開く。誰からも、何の連絡もない。そんなもんなんだろう、私の生きた二十年は。楽しそうな大学生たちが、横を通っていく。私はこれから家に帰って、スーパーの惣菜を食べて、暗い部屋でひとり、寝転がって、蜷川くんのSNSの楽しそうな投稿を見て泣いたり、美味しくもないハイライトを吸い、寿命、縮んでるなあ、と思うのだ。
 蜷川くんは、私がもし、死んだら、少しは興味を持ってくれるだろうか。少しは悲しんでくれるだろうか。
 快速電車がまた目の前を通り過ぎる。それはあまりに突発的な計画だった。どうせ失敗が約束された人生だ。遺書なんて、書く元気もなく、電車がまたやってくる音が、遠くからぐわんぐわんと、頭の中まで聞こえてくる。都会の電車は便利である。
 都会には馴染めず、好きな人には振り向かれず、何にもなれなかった、つまらない人間だった。黄色い線の内側に立つ。私は大きく息を吸う。これまでの人生、ほんとうに、虚しいことだらけで、後悔するようなこともなくて、未練も執着も、もはや捨て去りたいと思った。どうにかして死にたいと思っていた頃だ。
 今年も夏は、なんとなく、終わっていく。
 私の死を聞いた蜷川くんは、どんな顔をするだろうか。
 電車がまいります、のアナウンスが聞こえる。向こうから、銀色の電車が、ガタンゴトン、と音を立ててやってくる。私は、小声で、せーの、と呟いた。そして、思いっきり、線路に飛び出した。
 夏日、空はとても晴れていたのだ。