複雑・ファジー小説
- Re: この世にゃバグが多すぎる ( No.1 )
- 日時: 2018/04/30 12:57
- 名前: インセクター羽蛾 ◆fKyb7/SVPw (ID: EnyMsQhk)
あれが悪夢で済むならば、今すぐにでも醒めて欲しいと願ってしまう。あの悲劇が一昔以上前になった今でも、あの日に帰りたい、と。目を閉じるだけでありありと思い浮かぶ、赤にまみれた大部屋。駆けつけた時には皆事切れていたというのに、その惨状から悲鳴が聞こえてくるようだった。見知った顔は、愛した両親は物言わぬ人形となっていた。
その日は、母の弟、すなわち叔父の結婚式の前日だった。明日には挙式、その前に身内だけを集め、祖父のいる大きな屋敷で宴会をすることになっていた。その準備に父も母も、親戚達も駆り出されていた。当時五歳にも満たなかったため、年の近い親戚はおらず、数少ない子供達が各々その両親から手伝いをしろと指示されて料理の準備を手伝う中、自分だけ裏で遊んでいた。
Anti-BUGs Army Ant、通称AAA【トリプルエー】がローチ掃討戦を終結させた報せを発して、近い日であった。人々を恐怖のどん底に叩き落としてきたバグ、その一端であるローチと呼ばれる種が根絶され、安堵しきってしまったのだろう。
さらには、AAAが当時人員難であったことも、今となっては知っている。片田舎に常時気を配り、見張るほどの余裕が軍にも無かったのだ。それは、駆けつけるのも遅くなってしまうだろうなと納得するしかない、のに。やはり人は、己のこととなるとそう易々とは飲み込めなかった。
明日には式を迎える、幸せの絶頂にいた叔父はというと、血潮の池に浸りながら、もう閉じることの無い瞳孔で虚空を見つめていた。大きな部屋の真ん中を陣取るように配置された机、その上に所狭しと並べられた色とりどりな料理。しかしそれらは何人もの、何十人もの体液を浴びてしまい、瓶に詰められたイチゴジャムみたいな色になっていた。周囲を飾り付けるように転がる、先刻まで家族だったはずの、肉塊。
たった四年ぽっちの人生経験において、その光景はあまりに衝撃的だった。自我が目覚めてから、と考えればもっと短い期間であろう。それ以外の当時の記憶など、月日の流れと共に風化して薄れていくというに、あの部屋の様相だけは今でも色褪せる事はない。まだ、鮮明に、細部まで、正確に思い返すことができる。
記憶は映像のみに止まらない。嗅覚に触覚、聴覚にまで克明にその出来事は刻まれている。充満した鉄の臭いが鼻腔を埋め尽くす。排泄物の臭気や、胃酸や汗の酸っぱい臭いも混じっていた。ざわざわと、指先の方から肌が粟立つのが伝播していく。走り回って汗をかいていて、顔に昇った血が熱くて仕方なかったのに、急速に冷えゆく体温。きっとその瞬間、顔色は紅潮から真っ青へと変化したに違いない。そして耳には、血を啜る汚い音と、筋を引きちぎる獰猛な音。ズズズだとか、ブチブチだとかが、交互に。
その中で動く影は、たった一つだけ。青白い、人魂みたいな、嫌悪が募る色と光沢とを放つ翅。当時自分が幼く小さな体だったとはいえ、その屈強な体は小高い丘のようであった。その目は、よく見れば六角形の小さな目が規則正しく隙間なく敷き詰められていた。真っ赤で、その目だけで大人の顔くらいの大きさをしていた。
口らしい口は見つけられず、代わりにブラシのようなものが、人の顔であれば口があるべき所に付いていた。ぞわぞわと、生え揃った細かな毛が蠢くと、血がボタリボタリと垂れる。勿体無いと言わんがばかりに、意地汚くもその生物は、血が垂れた地面に筆のような口をあてがって、溢れた朱の染みを啜った。畳みごと食らうような掘削音。事実畳みは荒々しくその藺草の繊維をささくれさせていた。
筆やブラシのように思われたその口の繊維の下には、小さな棘のような歯が、やすりみたいに狭い空間に立ち並んでいた。あれで肉を引っ掻けて、引きちぎり、喰らっていたのかと幼いながらもすぐに悟ることができた。
触角の生えた顔から次第に、その胴体の方へと視線を向けていく。ドラム缶みたいな太さの胴体はよく見れば胸と腹の二つのパーツから構成されていた。その内、胸からは三対六本の足が伸びている。細長い癖に、しっかりと大地に踏ん張っていた。腹はというと、捕食したものが詰まっているのかパンパンに膨れているようにも見えた。腹の横の穴からは、興奮した人間の鼻息のように空気が吸ったり、吐かれたり。
背から伸びた長い翅はまるで刃のように鋭かった。全長は後に聞いたが、大の大人と同じぐらいだったのだとか。そんな偉業の化け物は、誰かが後ずさる足音を感じ取ったのか、ゆっくりと体ごとこちらへ顔を向けた。
幾百幾千、あるいは一万の複眼と目が合い、家族と同じようにここで人生が終わるものなのだと覚悟した。鈍い音を上げて、その翅が上下に震える。重力に逆らって、その巨躯が持ち上がったかと思うと、次の瞬間。
一直線にそれは、目の前に飛びかかってきたのだ。
それも、あのやすりみたいな歯で噛みつこうとするように。
身構え、襲い来る痛みに耐えようとしていた時の事だ。目を閉じ、待ち構えていたのにも関わらず、その異形の虫は一向に手を出してこないように思えた。
さっきあれほど準備万端といった風だったのにと思い返し、いつの間にか羽音が止んでいるその事実に気がついた。何が起きたのだろうか。目を開くと同時に、刮目。「嘘……」と感嘆を漏らしつつも僕は、ただ一刀のもとに切り捨てられた蝿の化け物の亡骸に目を奪われた。
バグは、背筋に複数の神経節を持っているのだが、それら全てを一度に斬り裂かれるよう、正面から真っ二つにされ、左右に両断。消化管からは、やはりどくどくと真っ赤な洪水があふれた。
剣を振り抜いた主は、父と同じぐらいの年頃に見える、男の人だった。朱色に燃え上がる、炎のような隈取りが顔に浮き上がっていたのが特徴的だった。
「すまない……遅くなってしまって」
部屋の惨状を見回し、そしてただ一人生き残った姿を見たその人は、悔やむような涙を浮かべて頭を下げた。その髪は、虫の返り血を浴びたせいで汚れていた。見回してみても、血の海に浸った一族の頭部もすっかり赤いペンキに染まってしまっているようだ。
そんな中、自分だけが綺麗なままだった。歪だと思えた。何一つ汚れてなんか無いのに、つまみ出された気分。蝿を殺した彼はさておき、化け物と、化け物に食い荒らされた家族とは、弱肉強食の世界を体現するように、物言わぬ死体と貸していた。
ならお前は何だと、胸中にて問い質す。弱い癖に生き残ってしまった、お前は誰なのかと。生者と言う枠に未だ取り残された君こそが、何より歪で汚らわしい存在なのではないかと、誰かが耳元で囁いた。無論当時にはそんな高尚な言葉など使えなかった。それゆえ、僕の口を突いて出た言葉は、あまりに簡単で、無垢で、現着の遅れたその大人にとっては、あまりに残酷な代物だった。
「どうして僕だけ生きてるの?」
「どうして僕だけ死ねなかったの?」
「どうせなら、一緒に死んでいればよかったのかもね」
記憶らしい記憶はここで途絶えている。ただし、ここまでの記憶だけがあまりにも鮮明だった。最後に焼き付けたのは、助けてくれたあの人の顔。
十年強の歳月が流れた今、あの人が誰であるのか今さら探しだせはしないだろう。もしかしたら既に死んでいるかもしれない。けれどもその人は、涙を失った俺に代わるように、泣いてくれたんだ。