複雑・ファジー小説
- Re: この世にゃバグが多すぎる ( No.2 )
- 日時: 2018/05/08 08:42
- 名前: インセクター羽蛾 ◆fKyb7/SVPw (ID: hgzyUMgo)
目覚まし時計は鳴っていたものの、目を覚ましたのは全く別の理由からだ。まず自覚したのは、夏だというのに体が震えていることだった。首から上は暑苦しいだなんて感じているのに、胴体は驚くほどに冷たかった。なぜだろうと目脂のついた睫毛を擦ってようやっと目を開く。それは寒いはずだと、季節外れの寒気の中に、夏らしさを感じた。
着ていた服は汗で変色していた。淡いグレーの寝間着であるはずなのに、裾の方数センチを残し、濡れ鼠のように濃い色となっていたのだ。貼り付く薄着が気持ち悪い。肌に接しているところからどんどんと体温を奪っていく。そのせいか、寒くて冷たくて仕方がない。着替えなくてはならないなと、急いでその服を脱ぎ捨てた。毎日鍛えている体が目に飛び込んだ。細身ながらも引き締まった体。綺麗に割れた腹筋も、細くしなやかなようで力を込めれば固くなる二の腕も調子はよさそうだ。
脱いですぐは、やはり一層熱を奪われる悪寒に襲われたが、カーテンを開けて日光を浴びた途端にそんな薄気味悪さは吹き飛んだ。高い気温のせいで、肌の表面の水分も乾ききったのだろう。ギラギラと、照らしたもの全て焼き付くすような真夏の太陽。直視すればこの眼球さえも溶かされてしまいそうなので、掌でひさしを作る。輻射熱のおかげか、秒を追うごとに体が表面から芯までじんわりと暖まっていく。心地よい。
「また……か」
またあの夢か。そう言おうとしたつもりだった。しかし、体内の水分が汗で持っていかれたのか、掠れた喉からは枯れ果てた木の葉みたいなカサカサの声しか出てこなかった。ひりひりと焼けるような痛みが胸元から鼻腔の根本の方までを走り抜ける。風邪気味だろうか、とりあえず喉を潤すためにも冷蔵庫の方へと向かう。
体が暖まって、ようやっと動き始める。その様子がどこか本物の虫のようで、そんな自分の体が嫌いで堪らない。虫はあの日から、大嫌いだというのに。
よく冷えた紙パック入りの牛乳を取り出した。1リットルサイズの容器に、まだ後半分以上残っている。けれども自分以外飲む者もいない以上誰に遠慮することもない。注ぎ口から直接飲む。大きく喉を鳴らして、一気に胃へと注ぎ込んだ。乾燥しきった口内を通り抜ける牛乳はとても甘く、冷たく、さっき暖まったばかりの体がまたクールダウンしていく。口の脇から漏れた白い滴が、顎から首筋に垂れてきた。体の方を這う前に急いで手で拭う。親父臭く大きな感嘆を含んだ息を漏らして、もう後四分の一くらいになった紙パックをまた冷蔵庫に戻した。
部屋にあるものと言えば、ベッドと冷蔵庫、そして小さなテレビと勉強机くらいであろうか。八畳程度の広さ、それが新米兵士、三級ソルジャーアントに与えられた個室である。我ながらそれほど几帳面でもない男だが、部屋が散らかることはない、何せ置くものがこれ以上は何も無いのだから。
ひと度喉が潤ってしまうと、先程まで感じていた息苦しさに似た喉の痛みは消え去ってしまった。なるほどただの脱水ゆえの症状かと、体調を崩していないことに安堵する。今日は訓練でなく外回りの日であるため、病気など患っては班長にも班員にも迷惑がかかるだろう。
いや、迷惑は普段からかけているか。トウドウのゴミを見るような目を思い出す。黒くて太いフレームに支えられたレンズの向こう側、切れ長の目が嘲るように見下している。そりゃ、ラッセの足を引っ張っている自覚はあるが、わざわざオペレーターのトウドウに罵られる謂われは無い。
そもそもラッセが規格外なのが仕方ない。誰が組もうと同期の中ならば、誰もが彼女の足を引っ張ることになるだろう。それほどに、彼女の才能は群を抜いていると言える。本当に同じ、入隊初年度の兵士なのかと尋ねたくなる程度だ。アカデミー時代から、ラッセが優秀なことは知っていた。しかし、それでもだ。四ヶ月前AAAに所属してからの華々しい戦果は、新人にしては常軌を逸している。そんな奴の比較対照として班員となった足手まといの俺の気持ちを誰か一人くらい汲んで欲しい、と愚痴をこぼしてしまうのも仕方ない。
そんな愚痴すらも、きっと班長はおおらかに笑って見ているのだろうな。口を大きく開ける彼の様子が思い浮かんだ。歯医者にかかったことなど無いと豪語するほど、綺麗に並んだエナメル質。山みたいに大きなあの人なら、きっと班員個々の能力に大きな差があろうとそうは気にしないだろうなと。
外回りに出るまではまだ時間がある。余裕を持って飯くらい摂っておいた方がいいなと、背と腹がくっつきそうな空腹感を自覚した。部屋の入り口には本部の者から物資が届けられる支給ボックスがある。ポストのように外から物を投じ、中から回収できる仕組みだ。洗濯、修繕の済んだ戦闘服なんかはもっぱらここに返される。
前回の勤務では、危うく右腕を失いかけた。蟷螂の鎌が簡単に腕を引き裂いた。何とか飛び退こうとしていたところなので腕は飛びきらなかったが、丁度骨に到達するようなところまでは肉が断たれていた。無事に傷跡がその日の内に接着したのはアントの力の賜物だ。神経も問題なく繋がっている。指先の感覚まで、麻痺することなくいつも通り。
それでも戦闘服は穴が開いてしまったので修繕に出した。強靭な蜘蛛の糸で編まれたこの戦闘服は体にぴたりと合い、とても軽く、その上工業的に生産できるどんな合成繊維で編んだ布よりも強靭だった。やはり自然の神秘というものは、人の手だけで乗り越えるには少し手強いところがあるのだろう。これのせいで、丈夫な繊維を産出できる蜘蛛ベースの職人アントの需要が急増したのだから。
蜘蛛なのに、肩書きはアントなのが未だに抵抗がある。組織の施設を蟻の巣に見立てており、組織の名前にもアントと入っているため仕方ないのだが。
日の当たる窓の前に戻ってさっさと着替えようとしたところで、ノックの音が眼前の扉からした。誰かがこの部屋の前に訪れたらしい。時間はまだ、六時くらいのはずだ。こんな時間に誰だろうか。ドア越しに返事をし、魚眼から外を覗き込んでみる。緑色の何かが見えたかと思うと、すぐさまそれは遠ざかった。レンズの向こうの視界が開けたかと思うと、鮮やかな金糸が揺れる輪郭が見えた。
なるほど、さっきの緑は向こうから覗きこんできた瞳の色だったのかと納得した。その顔が離れていった今、廊下や向かいの扉の様子もよく見える。
誰が訪れたのかはすぐに分かった。あんな目立つ髪と目をした者はこの基地には数少ない。東日本支部にいる、渡来兵は片手で数えるほどにしかいない。部屋の扉をおいそれと開ける訳にはいかなかった。初めに、ここは男子の居住棟だぞと釘を刺し、来訪者の名を呼んだ。
「朝っぱらから何の用だよ、ラッセ」
「いや何、起きているかと思ってな。もし起きているなら私の朝練に手を貸してもらおうかと」
相変わらず日本語が堪能なことだ。この国に棲み始めて、四年と少ししか経っていないのに、いつしか発音まで完璧に習得していた。初めて会った頃には日本語なんて全然分からなかったくせに。あの頃はまだ、可愛いげがあった。
「起きたばっかなんだけど」
「何、私もだ。気にするな」
「気にするっつの」
せめて飯食うまでは待っていろ。そう告げると自分も食事前だと彼女は言う。どうせなら食事から共にしようという誘いらしい。おそらく拒否権は無いのだろうな。
「よし、なら出てこい。一番乗りであさげと行こうじゃないか」
「待て、まだ着替えてないんだよ」
「別にここにいる同期は家族のようなものだろう? 何、部屋着のままで構わんさ、開けるぞ」
「おい馬鹿、上は脱いだまんまなんだよ」
言うが早いか、向こうから彼女は扉を押し開けた。そのまま、上裸のままの自分と、顔色一つ変えないラッセとの目が合った。こっちで俺が服を来てなかったのは予想外だったろうに、目が泳ぎすらしなかった。
ソルジャーアントの居室は何事かあった際に鍵の故障ですぐに出られないといった事態を引き起こさないためにも、鍵がつけられていない。支給ボックスを使うことで、あまり他者がその人の部屋の中に入らずとも済むようになっているし、住む者は皆他人の部屋に勝手に入るなという暗黙のマナーを守っている。勝手に部屋の扉を開けるのもナンセンスだ。
とはいえ、ラッセにその理屈は通用してくれないのだが。その上、男の脱いだ姿になど一切動じやしない。此方はというと、下を脱いでいなくてまだ助かったと安堵しているというのに。
「自室だからとそんな格好をするのはどうかと思うぞ。夏とはいえ、風邪をひく」
「心配どうも、早く閉めてく……れ」
魚眼からは見えない死角にいたのだろう、もう一人の来訪者を見つけ、言葉に詰まる。ラッセとは違う、大和撫子らしい、墨のように真っ黒な髪を揺らしたトウドウの姿。その目は嫌悪ゆえか、眉間に皺を寄せながら細められ、見下すような冷たい眼光でこちらを睨んでいる。
棘のある、平淡でどすの利いた声が、這うように耳まで届いた。静かだが、隠しようのない彼女の感情が込められている。
「そんな汚ならしい体見せつけないでくれる?」
「ならラッセに閉めるよう言ってくれよ……」
「ラッセ、目の毒よ。早くドアから手を離して」
「そこまで言うかよ……」
凍堂 麗奈。男嫌いでよく知れ渡っている。薄い顔立ちに、太いフレームで厚いレンズの眼鏡をかけており、容姿に関しては一言で言えば地味の一言で片付く。オペレーターにありがちな、細い手足。女性に対し別段優しい訳ではないが、男性へのあまりに苛烈な物言いに辟易する者は多い。上司であろうと容赦は無く、それさえ受け入れる班長として、今のリーダーが選ばれたのは納得だった。
「手に服を握っていたな、すぐに来て出てこい」
「下はまだ部屋着脱いでねぇよ」
「言い訳せずに早くしてくれるかしら? ラッセは朝練したいって言ってるの聞こえてる?」
「わーってるよ」
性の悪い姑かお前はと、疲れのせいかため息が出た。しかし、聞こえているぞと向こう側からまた声が。地獄耳めと、今度は胸中にこぼして、いそいそと着替え始めた俺は、一分後にまたトウドウに「遅い」と罵られるのであった。