複雑・ファジー小説

Re:     縹渺の路    ( No.2 )
日時: 2019/10/14 23:29
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: ty0KknfA)

 僕は、死ぬために生きている。

【鎹】

 壊れは唐突に訪れた。当たり前を着こんで、着こんで、着膨れした僕は、どうにもこうにも壊れてしまったらしい。人はそれを、糸が切れたとか、抜け殻のようだとか形容するが、僕は、僕として存在するための部品が欠損してしまった、『壊れ』という状態がぴったりだと思う。そんな欠陥品と成り果てた僕を、社会は簡単に切り捨てるようだ。
 鬱病。障害者。お前は、正常じゃない。
 精巧かつ緻密に作られた時計の——ルーペを通さないと、歯車のひとつ一つの噛み合わせが見えないような——小さな小さな部品。ただその一つが当たり前、という熱にやられて、夜道に落ちてしまったらしい。どこで落ちたのかも、どうなっているのかも分からない。誰かに踏みつぶされているかもしれないし、すでに、焼却炉の中で灰となっているかもしれない。唯一わかるのは、もう二度と元の僕には戻れないという、ただそれだけだ。代わりとなる同じ部品は、メーカーに問い合わせれば見つかることが多いだろう。でも、それで作られた僕は、完全に元通りではない。本当に小さな部品一つで、歯車の噛み合いかたや動きの滑らかさは変わってしまう。
 正常だった頃の僕は、失われた。
 そして時計と違うのは、僕が人間であるということ。僕が落とした部品は還ってこないし、交換することもできない。壊れを抱えて、動き続けることを課されているが故に、立ち止まって直す時間すら与えられず、欠陥品としての出来だけが良くなるのだ。一度狂った時計は、誰か他人の手を借りないと正しい時を刻めない。
 では、一度狂った人間が正しい時を刻むには、何が必要だろうか。
 僕には壊れが訪れただけで、正常なときも、小さな部品は身体から抜け落ちている。腰から抜け落ちれば、それを腰痛と言い、心臓から抜け落ちれば寿命と呼ぶ。僕は心から、本来抜け落ちてはならない部品が落ちてしまっただけなのだ。

 その部品のことを——かすがい。そう呼ぶらしい。

 子は鎹。そんなことわざにもあるように、鎹というのは何かを繋ぎとめるため、あるいは、何かを繋ぐために用いるものである。古くは材木と材木を繋ぎとめるための大釘として使われていたそうだ。
 そんな重要な部品も、過度な負荷がかかれば朽ち果てる。大釘と言えど、身体の内部において心が占める割合なんて、ほんの隙間ほどしか存在しない。だから抜け落ちて、僕には壊れが訪れてしまったのだ。しかし、欠陥品となった人間に、生きる意味はあるのだろうか。そう、僕は正常ではない。
 鎹を失った僕を社会は切り捨てる一方で、死に関しては異様なほど神経質。暗闇に堕ちた人間にとって、死というものは最後にして最大の権利である。目の前で、死はいつだって両手を広げ、光を、希望を見せてくれるのだ。社会はそれを闇だとみなす。僕のように、光と闇は簡単に入れ替わってしまうにもかかわらず、誰もそれを見つめようとしない。
 人が死んだら、大騒ぎするくせに。


 伴碍奏哉(ともがいそうや)という人間は、いたって普通の男子高校生であった。遅刻回数は年に四回数えれば多いほう、欠席日数は一回あるかないか。成績は平均点より少し高いか低いかを常にさまよい、特に運動を得意とするわけでも、苦手とするわけでもない。クラスの空気に自然となる、どこにでもいそうなタイプだった。苗字が珍しい以外に、これといった特徴もない。きっと、彼が消えたところで一ヵ月もすれば話題にすら挙がらなくなり、卒業アルバムを見たときに「こいつの名前なんだっけ?」と誰もが一瞬考え込むことだろう。そんな男子高校生であった。

「では、文化祭実行委員は伴碍と増井ますい速水はやみで」
「えーやばー、あたし実行委員とかキャラじゃないんだけどー」
「そんなことないよー!」

 教室の反対側で、女子たちが甲高い声で笑う音が聞こえてくる。地毛だと言い張れる程度に髪を染め、女教師が間近で見ればわかる程度に化粧をし、校則ギリギリで制服を着崩した集団。女子の中でも特に権力を持ったグループの一人が増井梨々花りりかだった。彼とは違い、人生はイージーモード。彼氏は基本途切れず、成績も優秀で教師からも多少の校則違反は見逃してもらえる。体育祭の個人種目も軽々と学年一位を獲得してみせ、常にクラスの中心にいる存在。自信家であり、それに見合う実力も容姿も兼ね備えた女子高生であった。

「それじゃあー、係ごとに分かれてー、打ち合わせが必要なところは話し合ってくださーい」

 気の抜けた担任の声で、教室が蜂の巣を突いたように騒がしくなる。僕は動く気もなく、喧騒を無視して本を読み続けていた。

「速水くん、私たちの係は話し合わなくっちゃ。二週間後に各クラスの出展希望出さなきゃいけないっぽいよ」

 ふわっとフローラル系の香りが漂う。増井がつけている香水だろうか。やれやれと仕方なく顔をあげた。整った顔立ちの美少女と、その後ろで自信なさげにこちらを見る冴えない男子。属性が全く異なる三人が集まってしまった。
 普通に見れば先にも挙げたように、伴碍奏哉はごく普通。増井梨々花は頂点。そして僕は壊れ。どうせ増井が引っ張り、僕が口を出さないから、最終的な結果は中の上ぐらいに落ち着くだろう。とすると、話し合う気はそこまでないはずだ。さっと頭の中で計算する。

「増井さん、何かやりたいことないの? 僕は特にないから、増井さんがやりたいことに協力するよ」
「あ、ほんとに? やっぱ舞台は三年が取っちゃうからさ、飲食やらない? ほら大体、高二って飲食やるじゃん。タピオカとか売ってればいいと思うんだよねー」

 彼女の中でもまた、想定通りだったのだろう。満足げに長い髪をいじりながら提案してきた。後ろの伴碍がなにも言わないところを見ると、すでに話した内容なのだろう。

「なに売るかは希望通ってから考えればいいのかな。まぁ決めてから希望出すと通りやすいって言うけどねー。他のクラスがどんな感じか聞いてから考えよーっと」

 んじゃ、今日はとりあえずかいさーん。そんな間延びした終わりを告げ、増井はさっさと自分の席に戻ってしまった。残った僕と伴碍は顔を見合わせる。

「あれでいいんだよね……? どうせ企画書とか書くの俺らだけど……」
「いいんじゃん? 彼女に全て決めてもらえば楽だよ。僕みたいな奴の意見は彼女も求めてないだろうからね」
「……そうか」

 そう言い残して、若干寝癖のついた後ろ髪が、教室の前方の席に戻っていった。彼は不思議な人間だ。普通であるにもかかわらず、スクールカーストでは底辺に当たる。自分らしく過ごしているだとか、容姿がほんの少しだけ優れているだとか、わずかな要素の差で決定する権力社会において、普通であることは求められない。僕のように権力を放棄し、離れたところから見物している人間の方が、発言権は強いことがザラにあった。カーストをいくら自分が放棄したところで、周りも放棄しなければ自動的に組み込まれてしまう。
 それが、悲しくも狭い空間の社会だった。三年という僅かな時間しか通用しない権力。頂点を目指して醜く争う姿が青春だと、もてはやされるのも納得がいかない。

 やっぱり、当たり前は苦手だ。

 息苦しさが胸の奥からこみ上げてくる。教室に漂っている得体のしれない空気が、真っ黒な色となって僕に牙を剥く。ざわざわした喧騒は木霊がかかったような耳鳴りに、何の変哲もない景色はぼやけて褪せた色へと変わった。耳鳴りはいつしか「お前なんか邪魔だ」「お前は必要ない」「お前は何もできない」そんな声になる。そうだ——僕は壊れた人間だった。僕みたいな底辺が人のことを見下して、考察なんかつけて良いはずがないじゃないか。
 理由もわからず零れ落ちそうになる涙を隠すために、そっと机の上に覆いかぶさった。

「速水。いつまでお前は寝てるんだ」
「……へ? あぁ。すみません」

 気がつけば六限が終わり、帰りのホームルームも終わり、掃除も終わり、日直と担任が鍵を閉めようとしているところだった。お節介にも担任は起こしてくるタイプ。このまま寝させておいてくれれば、ちゃんと鍵も返すし、勝手に家に帰るのに。早くしろという視線を受けながら、けだるさを払うように伸びをした。はみ出たワイシャツの裾をしまいながら教室を出る。
 遠くで野球部のかけ声がした。バスケ部かバレー部が廊下で筋トレをする音も聞こえた。吹奏楽部が空き教室で練習する音も聞こえる。休み時間とは違って誰の姿も見えないのに、活気と暑苦しさがここまで流れてくる放課後の廊下は嫌いだった。
 陸上部を辞めた後ろめたさが、どこかに残っているからか。
 壊れる前は、この時間に走っていた。中学から数えて四年半、毎日、毎日飽きもせず。長い距離を走っている時は、自分の音しか聞こえなくなる感覚がたまらなく好きだった。タイムや競技としてではなく、純粋にずっと走っているのが楽しかった。だから、筋トレや基礎練をする意味が分からない。
 いつの間にか、孤立していた。スポーツ性貧血で長い距離が走れなくなった。何をするにも身体は鉛でコーティングされたようで重たい。ひたすら筋トレをしろと言われる日々。

「貧血が治ったときに、タイムが落ちないように」

 口をそろえて、顧問も同期も先輩も後輩も同じことを言った。僕はそんなに意識高く競技をしていない。ただ走ることが好きなら、部活でなくても良かったんだと最近気がついた。でも、走っていない。結局、部活という強制にも近い義務感がないと、僕は何もしないのだ。学校も行かなくちゃいけないから行くし、やらなくちゃいけないから部活もしていた。
 義務じゃない生き方が分からない。決められたことだから、絶対終わらせないといけないから、僕以外にやれる人がいないから。義務から逃げる僕を、放課後の廊下は嘲笑う。
 だから、嫌いだ。
 逃げるように校門をくぐり、学校を去った。あとどのくらい、この場所に来れるのだろうか。学校という義務にどれほど従順でいられるのだろうか。僕には、わからない。

「速水さーん、五番へどうぞー」

 今日は精神科に通院する日だった。ネット上に転がっている鬱病チェックのあらゆるサイトで高得点、あるいは重度の鬱病と診断され、高校の健康診断でも正直に答えたら、病院に行けと口うるさく言われた結果がこれだった。本当は病院に行くつもりなど欠片もなかった。でも、明らかに自分の意志で制御できない状態が積み重なって、病院に行けと言われたことが冗談にできなくなる日々。電話予約するまでに三週間ほど躊躇ったが、驚くほどあっけなく予約した日は来た。ネットの診断など信用していなかったが、僕は本当に鬱病らしい。
 三十分ほど、医者とカウンセリングにも似た話をし、薬をもらって帰る。意味などあるのだろうか、と思ってしまうから壊れているんだろう。まぁ薬を飲み始めて、夜中に唐突に涙が出たり、帰り道に動悸が収まらなかったりといった症状は、頻度が抑えられているけれども。
 精神科や心療内科での治療は、医者選びと薬選びが非常に難航する、と一般的には言われていた。三ヵ月ほど通っているが、こんなにあっさり症状が軽くなって良いものなのだろうか。その一方で僕の心に空いた穴は、塞がるどころか広がっている気がする。この穴が広がりきって僕の身体を蝕むのが先か、自ら死という祝福でその穴を埋めるのが先か、どちらが早いのかは分からない。
 痛みに臆病な僕は、きっと死ねやしないんだ。とは常々思うけれど。
 心地良い風と明るさが身体を包み込んでいた。六時を回っているのに、辺りはまだ明るく、夏に向けて徐々に陽が伸びる時期だった。昼と夜の境目の時間は嫌いじゃあない。でも、どことなく不安を覚える、得体のしれない不気味さは苦手だ。
 ぺたぺたと音をたてるスニーカーのリズムも、道路を走るトラックの唸り声も、夕方だけは違って聞こえる。別の世界に連れ去ってくれるような高揚感と、背筋を舐められるような緊張感が混ざり合い、背徳感を大きくする時間。
 このままどこか知らない世界に、連れ去ってくれないだろうか。僕一人がいなくなったところで、バイト先は新しい人を雇えばいい。学校は一人生徒が減るだけで、時間が経てばそんな生徒がいたことはデータ上にしか残らない。そのデータもいつかは消える。この世界に、必ず僕が存在していなければいけない理由などない。僕が消えれば、代わりの誰かがその穴を埋めて、世界はいつも通り回り続ける。ここはそんな世界だ。だからこそ、僕が『速水宥はやみゆう』であることの必然性、『僕』を構成する決定的な部品を、渇望し続けている。

 僕自身が、自らの虚無に狂ってしまうほど。

 いつも通りの夕方だ。いつも通りの夜が来る。いつも通りの一日が終わる。
 死神が現れるとか、金持ちの遠い親戚が迎えに来るとか、世界を救う勇者に選ばれるとか、人生が逆転するような非日常を、ずっと期待していた。主人公という役割は、自分に生きる意味を与えられるから。

「なんかちょっとムカつく」
「調子乗ってるよね」
「たいして結果も出してないくせに」
「そんな簡単なこともできないんだ」
「デブが視界に入るだけでキモイ」
「ゴミはおとなしくしてろよ」
「存在が迷惑」

「死ねばいいんじゃない?」

 現実でもネットでも、いたる場所に言葉が溢れている。自分は正義、自分が正しい。歪んだヒエラルキーのより上位に立とうと、誰もかれもが必死だ。自分が吐いた言葉の重さや痛みには気がつかない。その優越感のために、いったい何人の心を殺してきたのだろう。誰も知らない。
 SNSに転がって、時折バズっているいじめの漫画も嫌いだ。弱者の立場から、コミュニティを変えることによって人権を獲得した『心の痛みを知っている自分』のサクセスストーリーでしかないから。たまたま目に入ったそれを読み、コミュニティが変わるまで自分は耐えきれないという現実に気付き、命を絶つ人間だっている。
 見なければいいとか、自己責任とか、上の立場にあるもののエゴでしかない。自分の言葉は自分の物だ。言葉を発して、人の耳や目に触れた瞬間に、自分の意図とは違う意味を与えられることもある。
【生きるの、しんどい】
 鍵のかかった無人のタイムラインに、僕の呟きだけが表示されていたはずだった。

「速水、悩みごとがあるなら聞くぞ。進路のことはこの時期、誰だって悩むからな」
「え? 進路とか一切悩んでないです」
「昨日の夜、しんどいって呟いていたのは進路じゃないのか? 人間関係か? なんでも聞くぞ」

 八時二十七分。二分の遅刻。校門をくぐるなり、待ち構えていた担任に、面談室へと連行された。僕はどうやら、呟くアカウントを間違えたらしい。学校の生徒のSNSを監視している生徒指導部が、きちんと拾い上げてしまった。そして担任は、卒業後の進路や大学入試の悩みだと勘違いしているらしい。
 いい人ではあるけれど、と僕は思う。きっと彼は弱者の立場、存在意義を失うことの痛み、死と隣り合わせにあるという実感、それらを味わったことがない人間だろう。

「特に。僕、言ってないですけど、鬱病なので。よくあることですし、投薬もしているので気にしないでください。一人で呟く用のアカウントと間違えただけなので、あとで消しておきますから」

 たかが進路決定で悩んで「しんどい」「死にたい」だの言う人間が多いから、本当に救いを求めている人の言葉が軽くなってしまうんだろう。就職活動やその後の仕事のほうが、よっぽど精神的につらいだろうに。

「速水」

 出ていこうとする僕を、担任は呼び止める。

「何に苦しんで、何をつらいと思っているかは知らん。個人の自由だ。でも世の中に一人ぐらいは、お前が死んだら悲しむ人間がいるからな。それは覚えておけよ」
「悲しむ人間かどうかは分からないですけど、何かに繋ぎ留められているから、僕、いま生きているんだと思います」

 驚いたような悲しいような、そんな彼の表情が頭の中に残っている。
 やっぱり、僕は壊れだ。満たされているものに自分で穴を開けて、中身を溢している。手を差し伸べる他者に気がつかないふりをして、まだ満たされないと言っている。こんな自分じゃ、ダメなんだ。こんな僕を、好いてくれる人なんていないんだと。

『速水とか、いらなくね?』

 今でもはっきり覚えている。声も、表情も、放課後の匂いも、何もかも。僕の当たり前は、彼らの当たり前じゃなかった。当たり前になろうとして、存在を認めてもらおうとして、三年間で僕の心が壊れただけ。屋上からの景色も、吹きつける風の強さも、死の気配も覚えている。でも僕はこの世に繋ぎ留められた。遺書まで用意していたのに、死ねなかった。飛び降りなかった。僕は、いったい何に繋がれているのだろう。
 分からないけれど、僕は今日もこうして生きている。いつかは分からないけれど、僕を繋ぎ留めている部品が朽ちたら、死ぬために。