複雑・ファジー小説

Re: 君は地雷。【短編集】 ( No.45 )
日時: 2020/05/17 02:03
名前: 脳内クレイジーガール ◆0RbUzIT0To (ID: rtUefBQN)

【 もうひとりの彼女 5 】


 世界は汚いもので、溢れている。



***


 テスト期間中で、生徒がほぼ帰ったあとの放課後。
 教室で勉強をしていたはずなのに、いつの間にか寝入ってしまっていて、気が付いたら窓の外の景色は少し暗くなってきていた。教室の施錠をして学校を出る。自転車を取りに行く途中の道で、何人かの男子とすれ違った。見たことのある。運動部のカースト上位のチャラそうなやつら。関わりなんてないから俺は何も気にせずすれ違った。
 ガタンと小さな音が聞こえたのは、その時だった。本当に小さな遠くから聞こえたような音だったから、最初は無視していたけれど、何でか無性に気になって向かった。

 いつも鍵がかかっているはずの体育倉庫が、簡単に開いたとき、俺の違和感はちゃんと仕事した。
 嫌なにおいが鼻を刺激する。吐き気がするような、嫌なにおい。
 声が聞こえた。小さな、絞り出すような小さな声。女の子の泣き声だった。
 ひく、ひっく、しゃくりをあげながら、掌で必死に口元を抑えて声が漏れないように、彼女はずっと泣いていた。



 「み、やかわさん?」




 クラスメイトの、宮川有栖がそこにいた。体育座りで小さくなって、彼女は泣いてた。
 ブラウスが引きちぎられたように破れていて、青白い肌が露わになっている。

 痣が、彼女の体中に、まとわりついていた。

「見ないで」

 彼女が俺の顔をみる。まるで怪物でも見てるかのように、怯えた瞳だった。
 涙でぐちゃぐちゃの顔で彼女は言った。こっちにこないで、叫ぶように、でも消え入りそうな声で彼女は言った。髪の毛は誰かにひっぱられたのか乱れていて、彼女は何度も咳き込んで咽ていた。
 俺は彼女の前にしゃがみ込んで、制服のポケットからハンカチを取り出して渡した。

「気持ちわるい」

 彼女はずっと泣いていた。俺のハンカチを受け取ることなく、ずっと小さくまるまったまま、声を漏らすことなく泣いていた。
 腕にはロープか何かで縛られたような痕がついていて、足には暴行を受けた痣がひろがっていた。
 

「汚い」


 彼女は譫言のようにぽつぽつと言葉を漏らしていく。


「汚い。汚い。汚い。汚い。」




 壊れたロボットのように、何度も同じ言葉を繰り返す。目は虚ろで、どこを見ているのか、視点は安定していなかった。


「汚いよ。汚い。いやだ、あたしは、汚い」


 彼女がゆっくり立ち上がった。切り傷が酷い足を引きずりながら、出口に向かう。だけど、彼女の足はそこで止まる。外に出れずに彼女はまたしゃがみ込んで泣いてしまう。


「宮川さんは汚くないよ」
「……汚いよ。だって、あたしは、あいつらに」
「汚くないよ。その先は言わなくていいから」
「でも、あたしは、あたしはっ」


 誰にやられた、何をされた、彼女の口から言わせることは死んでもできない。


 うずくまるように、酷く小さな声で泣き叫ぶ。

 助けて、と彼女は最後まで言わなかった。




 たぶん、そのときも、彼女は言えなかったんだろう。




 彼女は何度も自分のことを汚い、という。汚くなってしまった、と。
 俺がもう少し早くここにきていたら何か変わっていたのだろうか。のうのうと通り過ぎていったあの男たちの笑った顔を思い出すと腸が煮えくり返りそうだった。彼女の人生をめちゃくちゃにしたのに、あいつらは今ものうのうと笑っている。きっと彼女は永遠に許せないだろう。でも、このことは絶対に口にはできないのに。あいつらも、きっとそれをわかっていてやったのだ。

「許せないよ。こんなの、おかしいじゃん。こんなので泣き寝入りする必要なんてないじゃん。こんなの、宮川さんが辛いだけじゃん」
「……でも、もうどうしようもない。だって、もう終わったんだもん」
「でも」
「あたしは汚された。もう戻れない」


 体育倉庫にひろがる、独特な、嫌なにおいと、
 彼女の泣き声と、
 吐き気のするような悲惨なこの状況が、すべて教えてくれた。




「ごめんね。言えないよ、誰にも。だから寛太くんも言わないで。お願いだから」


 彼女は縋るように俺に土下座をして頼み込んだ。見たくない光景だった。


「あいつらにされたこと、誰にも言わないで」