複雑・ファジー小説

Re: Lion Heart In White ( No.2 )
日時: 2018/06/04 12:25
名前: 玲央 (ID: 8hur85re)

 お茶室での談笑から、二時間後。仕掛けていた反応が一段落したことをTLC、薄層クロマトグラフィーにより確認した後に、溶媒を飛ばし濃縮を行っていた。この後は脂溶性の試薬と分離するために、一度目的の化合物をイオン化させて分液に入る。
 エバポレーター、すなわち減圧下での蒸留装置が安定しているのを確認し、その正面に立ちスマートフォンを操っていたところに、もう一人部屋に入ってきた。また会ったなと、彼女の平坦な声。そのまま彼女は、別段抑揚も無い声で並び立つ彼に問いかけた。

「心。そんな名前をしている臓器があると、君は本当に思うか」
「いつもいつも、お前の問いは藪から棒だ」
「さっきの延長だよ。当然私が今議題として掲げたのは、心室と心房を持つ、血流を巡回させるポンプのことを指してはいない」
「素直に心臓じゃないと言え。ハートの方だろ?」
「心臓とて英語ではハートだ。ついには英語まで不得手になったか」
「ほっとけ。ずっと論文くらいしか読んでないから心臓と言えばcardioなんだよ」

 君でも論文を読むことがちゃんとあるんだなと相好を崩す。関心関心と、誉めているのか煽っているのか分からない口ぶりに、お前は俺の保護者かと凸レンズ越しに赤い瞳を注視する。心底楽しんでいる様子の彼女と目があった。

「まあ良い。どうせ溶媒飛ばしてるあと五分程度は暇だから答えてやるよ」
「優しいな、君は。ありがとう」

 白金の髪をかきあげて耳にかける。くたびれた白衣は試薬でところどころ染みが付いていた。どうせ俺が邪険に扱えないだなんて知っているだろうに。口には出さずに彼は、恨みがましい想いを眼光に乗せた。
 彼には邪険に扱えない。その期待は彼女の、寵児としての能力と言うよりもむしろ、これまでの両者の交流から来るものであった。

「俺は無いと思ってる」
「意外だな。君は割りとそういった事にロマンを感じると思っていたが」
「確かにあるような気はする。でも無い。それが冷静に考える俺の出した答えだ」
「ふむ、ありそうで無いか。とすると他の臓器がその機能を代行していると考えているのかな?」
「エスパーかよ」
「エスパーではあるな。尤も今のは関係ない、ただの推測だ」

 ウインクをし、開いた側の目を人差し指で示す。光っていないだろうとその顔を少し近づけた。と言っても身長差があるためそれほど近寄れない。見下ろした先の虹彩が瞳より強い朱色の円を描いているのが皆既月食のようだった。

「ったく、鋭いったらありゃしない。お前の恋人は浮気できないな」
「問題ない。私の恋人は研究だからな。時折すげない態度を取ってくるが」
「それでもその冷たい態度に惹かれてしまう、ってか」
「いや、そんな時はぶん殴ってやりたくなる」
「器具は壊すなよ」
「……以後、善処しよう」
「もう割ってんのかよ」
「冗談だ」

 真に受けるなと咎めるような彼女の白い目。お前が言うと冗談に聞こえないと男の方はたじたじである。実験器具は高いのだから意図的に割る訳が無いだろうと、至って一般論のように彼女は口にするが、安ければ割るのかと彼は身震いした。

「では、代替器官は何処かね」
「脳だな。人間に限らず、生物はその脳でものを考えてる」
「間違いないな。思考、学習、想像、忘却。全ては脳が遂行している。必要な情報のダウンロードに、それを我が物として利用するイマジネーション、最後には不要な代物を棄却する」
「そんな格式張った堅苦しい言い方しなくてもいいだろ……」
「何にせよ感情も、思考回路の一部に組み込まれている故に脳が支配していると考えているのだな」

 首肯する彼に、得心がいったかいっていないか曖昧な様子でなるほどと呟くアルビノの女。マネキンみたいな乳白色の肌が、マネキンでないと主張するように揺れた。顎に手を添え、物思いに耽る。添えた指をリズムよく小刻みに動かすのが、彼女が思考する際のルーティーンだ。

「そんな考え込むことか?」
「いや、最も普通な考えを初めに言われてしまったものだからな。ただ適当に答えるような人でないと理解している以上、正論にどう対抗したものかと考えているのだよ」
「普通で悪かったな」
「むくれないでくれ。貶してる訳じゃないんだ。真っ直ぐ考えてくれた上で脳だと言い切られた際に、私は私の論をどう伝えたものか悩ましくてな」

 この問いに対する答えは、脳だというものがマジョリティであり、また、説得力も強い。マイノリティに代表があるとすれば、心とは心臓に属しているというものだ。緊張に激昂、心が高ぶった時にその鼓動は強く、激しくなる。脳が己の怒りを自覚するより先に、心臓が強く跳ねることも。安堵し、リラックスすれば拍動までゆったりと落ち着くものであるし、そのために落ち着いた体から、ようやく心身が弛緩したと知ることも多い。

「ふーん。白の意見はどうなんだ?」

 彼女の名は、その雪のように白い肌から付けられた。当時はまだ寵児は一般的に認知されておらず、血の色が透けてしまいそうなほど色素の薄い彼女の姿は、神々しいと言えた。
 彼女の持つ寵愛《チカラ》、それはその能力も由来ではあるが、彼女の名字も併せてその呼称が与えられた。それはまさに、百獣の王たる特異能力。獅子心の寵児はある程度意見がまとまったのか、顎に当てていた手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
 獅道 白《シドウ マシラ》、彼女は前述二件のどちらの意見でも無く、それ以前の二択で分岐したその先に主張があった。その答えを耳にした彼はというと、咄嗟に我が聴覚を疑った。あるいは神経の伝達を疑った。どこかでシナプスを越える際、誤報を伝達したかと不安になる。
 しかし、彼女がそう述べたのは決して嘘ではなかった。私は心という臓器が存在していると思うのだよ、ただ誰にも見えないだけで。そう告げ、目の前で黙りこくってしまった男をじっと見つめる。異性間特有の、わたあめみたいな柔らかさも甘ったるさも無く、路傍の蝶をじっと観察するような視線。
 そしてふと、思い出したように一言。

「私を除いて、の話だがな」

 と言い添えた。

「ある……ってのが、お前の、意見」

 じっと降り注がれる視線、射抜かれ続けた彼は、せっつかれたようにようやく応答した。受け入れ難い事実を、咀嚼して無理矢理嚥下するように、体は対照的に、一息一息単語を吐き出した。

「ああ。その気になれば心が見え、聞こえる。そんな私だからこそ信じられる意見。それこそが五臓六腑を越えた先、第十二の器官として『心』は実在するというもの。それは目で触れることもメスを入れることもできないが、間違いなくここにある」

 ここ、そう発音する際にトントンと胸元の辺りを叩いた。雪の精みたいな、艶かしく細い指がさらさらと風になびいたようであった。

「頭脳にも体にも支配されずむしろ、感情という曖昧模糊な判断基準バイアスをかけることで、平時のその人とはまた異なる行動決定をさせかねない、言うなれば心身を掌握する臓器。そして胃が消化、腸が吸収、腎臓が濾過など、その臓器特有の能力を持つだけあって、心にも重要な役割がある」
「重要な、役割……? 他者を思いやるため、集団生活を円滑に進めるため?」
「いや、それは所詮副次品に過ぎない。何せ世の中全員が協調性のある善人ではないからな」
「じゃあ、心の役割って?」
「個性の確立さ。己を己たらしめるもの、それが十二番目の臓器だ。そしてそれは、個性というそれぞれ違った多様性を産み出す代物にして、思考と行動を円滑に繋ぎ止める代物」

 理解するより早く体が動くことがある。頭では正しいと思っていても、怒りに溺れて掴みかかってしまうことも。それだけではない、泣いちゃ駄目だと食いしばっても涙を堪えるなんて叶わないこともある。
 人体は脳が支配している。確かにそうではあるが、時としてそれは理性で制御しきれない。理性は、思考は、すなわち脳は感情により支配される。感覚器官からの報告をまとめ、筋肉と臓腑に命令を下す最高司令。そのように認識されている。

「誰もが己の頭で考えて、意思決定し、行動する。そう思っていることだろう。しかし頭脳は常にさらに上の調節組織により影響を受けている」
「それこそが、心だって? どうやって指令飛ばすんだよ。ホルモンでも分泌するか?」

 シナプス伝達ならカルシウムイオン、交感神経ならノルアドレナリン、副交感であればアセチルコリン、その他様々な放出ホルモンに、さらには放出ホルモンを分泌するよう刺激するホルモン。そういった分子を必要に応じて用いることで体内のスイッチを切り替える。
 では、心という臓器が目に見えないのならば、触れられないのならば、どのようにして脳細胞に刺激伝達をするのだろうか。そのための情報伝達物質に何を用いているのだろうか。白の眼光が怪しく瞬いた。彼の抱えたその疑問を読み取ったのか、「分からないか」と少しだけ湿っぽい笑みを浮かべた。

「私はな、そのホルモンやイオン、JAKにSTAT、IRFの代わりこそがすなわち、感情であると考えている」
「ごめん、ジャック以降分からん」
「知らなくて構わない。ホルモンとて、分泌して数秒後に効果が出る訳でもないし、JAKなんかは薬剤でその下流経路を阻害できる。感情による行動制御が上手くいく時といかない時があるのも、それと同じだと思えば生体の一部と考えられる」
「感情によって人体は制御されてる? でもそんな刺激どうやって出すんだよ?」
「それは未知の世界だな。何か観測不能のパルスでも飛ばしているんじゃないか? 私にしか見れないけれど」
「そんなファンタジーみたいな事言うような柄じゃないだろ?」
「ふふ、だから私は一番初めに伝えていたじゃないか」

 思い出してごらんよと白は男をせっついた。一番初め、心は実在するかという問いなのかと確認すれば、そうではないと否定する。首を左右に、同時に揺れる白金の髪の束。ふわりと、洗髪剤の芳香が漂った。主張しすぎない爽やかな甘さに、人外に思えることのある彼女も、女性ではあるのだなと男は改めて見直した。

「私は科学に触れていると、オカルトを感じる時があるんだ」
「あぁ、それか」

 まさかそこまで遡るとは。そう言い訳しようとしたが、直前に控える。何せ彼女はこの部屋に踏み入った際、さっきの延長だとことわっていた。それならば一番初めの言葉とは、その言葉であってしかるべきだろう。

「人間を人間たらしめる、感情などというスピリチュアルな調節因子。それらは確かに存在するのだというのが私の持論なんだ。我々のフィジカルなパーツは全て、心によって制御されている。魂とも呼ぶべき操縦主により、私と君とに差異が生まれるんだ。まあ肉体を見たところで生殖器官は正反対ではあるが」
「その、人を人とも思わない無機質な性表現はほんとにお前らしいよ……」
「何を言ってるんだ、私だってちゃんと人をヒトだと感じているさ」
「お前絶対、今の言葉のどっちかを片仮名で言ってただろ」
「ばれたか」

 それでは脳はどうなるのかと、彼は白に訪ねた。今の口ぶりでは、脳みそさえフィジカルに入ってしまう。しかし人々本来の認識であれば、脳もスピリチュアルに入れるべき代物だ。彼女の論を受け入れたとて、心と肉体を繋ぎ止める架け橋となっているはずだ。一概に、全て肉体的、物質的な器官だと言い切るのは憚られるように彼には思えた。

「いや、肉体的で間違いない」
「その根拠は?」
「そもそも脳が思考をするのは、本来の用途とは異なる副産物なのさ」
「そりゃまたどうして」
「まったく……君は質問ばかりだ」
「お前の話が難解だし、哲学混じりの科学なんだから俺は門外漢なんだ」
「はぁ……。脳とはな、そもそもの目的は体をコントロールすることだ」

 大脳で思考をしているが、これは以前に自分が述べた通りに、リスクと欲求とのシーソーゲームの先に、平衡がとれた着地点を見つけているだけだろうなと彼女は言い切った。そのシーソーゲームの支点をどこに置くかを定めているのが心だ。その他の脳の仕事と言えば、ホルモン分泌に自律神経の統括、それに伴う消化と吸収の管理、さらに呼吸に拍動、眼球運動の管理。そして何より、小脳による筋肉の運動制御だ。

「脳の一番の存在理由は筋肉の制御だ。内臓とて、筋肉の塊に近いからな」
「そのままだと、タンパク質の挙動を決定しているに過ぎない、って事か」
「その通りだ。理解し始めると早いな君は」
「そりゃどうも」
「その肉体の動作に意味を持たせる。その人らしさを与える。誰かと差別化する。そのために第十二の臓器は生まれたんだよ」

 その者の本質が現れる透明で不在の型紙。しかしヒトは、その型に当てはまるように生きてしまう。敷かれたレールは分岐していようとも、そのレールを外れることは決してできない。心あるが故に人間は、生命は、その個体であるという事実からは逃れることができないのだ。

「だからね、私は傲慢ながらもこう思ってしまうこともある。私の受けた恩寵、獅子心は『他者の本質を見抜く能力』であると」

 話を聞いている彼には、その言葉が傲慢だとは到底思えなかった。隠そうとしている本心さえ見抜いてしまう彼女の力を知っていれば、その自己解釈は何一つ間違っていやしない。

「そして私はね、寵愛と呼ばれるこの能力というのも、実は新たなる内臓と呼んで差し支えないと考えているんだ」
「となると十三番目の臓器か。不吉な数字だなぁ」
「寵児なんて悪魔のようなものさ。悪魔が住むという数字に相応しい」

 十二支や時計など、十二進法を用いるものが世の中には存在している。というのも、十二というのは比較的、約数の多い便利で整った数字だからだ。その十二を破り、一つ先に進んだ十三という数字は、調和を乱すとされている。何故なら13は素数であり、不便な数字に他ならない。
 他人と異なる体色だけなら別段奇怪でも無いが、寵児は人間が持たない特別な力を持っている。それらを併せて見てしまうと、神々しさを得てしまう。しかしそれならばまだ気に病むことはない。しかしだ、神々しいとはそれ即ち人間離れしているとも言え、言い換えるならば悪魔に近似できる。
 禁忌の子。生まれる時代が違えばきっと、そんな風に言われたことだろう。もしかすると魔女狩りの際には、そういった者を初めに処分していたのかもしれない。

「それに能力が生体組織の一部分だとすると、やはり私の違和感も通るだろうしな」

 科学を学ぶ内に超科学的な代物を感じるという、認識の齟齬。その不一致がどうにも歯痒くて仕方ない。理解と納得との間を断絶するかのように走る溝を埋めるには、そんな理屈も捏ねねばなるまい。

「心や感情というのは存在するし、我々の意識というのは絶対に、電気信号と化学物質に左右されてしまう代物ではない。それが私の下した結論だ。この根拠は、ひどく頭が悪いように見えて、何よりも端的にそれを証明していると我ながら思う。これはな、証明された定理などでなく、そもそもの大前提、定義なのだよ」

 世界が作られ、生命が生まれて、意識が生まれて発展していき、最後に心が必要に応じて生まれたのではない。ある時心が生まれて、それ以降劇的に生命体の在り方が変わった、心あるが故に世界が回っているのだ。

「ファンタジーと呼ばれても仕方ない。夢物語だし幻想に近い。それでも私が、私にしか見えない世界を眺めて、不安と恐怖とに揉まれて悩み抜いた結論はそれだったよ」
「……そっか」
「理解してるか、ほんとに」
「そんなに」
「だと思った」
「話が訳わかんねーんだよー。まだ学生なんだからそんなもんに答えられる訳ないじゃーん」
「茶化すな」
「言い訳だ」
「なおさらカッコ悪いな。ところで」

 それは大丈夫なのかと、話に熱中するがあまり空っぽになってしまったナスフラスコを指差した。いつの間にか溶媒どころか、目的の物質まで飛んでしまっている。温度の設定を間違えたらしく、必要以上に水浴が温まっていた。

「やらかしたぁ……てか気づいてたんなら教えてくれよ」
「すまない、今気が付いた。私に聞こえるのは所詮生き物の声くらいのものだからな」
「まぁ、エバポかけ直すだけで済むから良いんだけどさぁ……」
「じゃあまた十分ほど頑張りたまえ」

 そう言い残して、後から来たはずの彼女はフラスコを取ってドラフトの方へと戻っていった。順調なようで羨ましい限りである。
 しかし彼女のかかえるその悩みは、決して自分では抱えたくもないものであった。
 だからこそ、強く感じる。寵児は別に天よりの寵愛など何一つ受けていない。むしろ自分のように、人並みの悩みしか持たずに過ごしている方がよほど世界から愛されている。酢酸エチルの甘い匂いを嗅ぐ彼には、そうとしか思えなかった。