複雑・ファジー小説
- Re: Lion Heart In White ( No.3 )
- 日時: 2018/06/07 18:26
- 名前: 玲央 (ID: EnyMsQhk)
問い一、どうして鳥は空を飛んだままなのか。
問い二、どうして一部の鳥は飛行能力を放棄した、あるいは獲得していないのか。
二つの問いかけ、その両者の答えは全く同一であると教授は口にしていた。酸素の減った肺の空気を吐き出して、新鮮な森の空気をめいっぱい取り込む。疲労で錆び付きつつある思考回路が、また輝き出す。それでも、簡単に答えは出てくれやしなかった。
「悩みどころだなぁ」
手入れもせず、ぼさぼさのままだらしなく伸び切った薄い金髪。顎の下まである横髪を指先で弄びながら、傾斜した大地を一歩、また一歩と進んでいく。出題者でもある教授のナップザック、ファスナーの引き手のところに糸でぶら下がるキーホルダーが揺れていた。
前者のみの質問であればいくらでも理由をこじつけられたであろう。空を飛んでいる方がメリットは多いから、地上には危険が多いが、空の天敵は同じ鳥類しか存在しないから。
ただ、あくまでもこじつけられるというだけ。それが正しいという訳では無い。何せ出題者は厳密な問題集でも何でもなく、一人の教授だ。彼が満足する答えを用意できねばそれは不正解になる。
「今のはむしろ、鳥が空を飛ぶようになったきっかけで答えるに相応しいものだ。地上には危険が多いから空に逃げようとした。空に逃げればその敵はほぼ存在しなくなる。それゆえ翼を持つ個体へと進化しようとしたとは説明できる。けれどもきっと、僕に出された問いの答えとしては不適切だ。既に獲得した飛行能力を持ち続けている意味。言うなればそれはきっと、飛ぶことのできる鳥が絶滅していない理由を述べろという事。だとすれば僕が考えるべきはもっと別の言葉」
目と鼻の先を歩く、初老の男にすら聞こえない程度の、口元でこもる呟き。まだ青年は若いと言うのに、老いてくたびれた獅子の鬣(たてがみ)を想起するような、無頓着でよれよれに波打った髪の毛が、歩調に合わせてまたふらふらと。
「そしてさらに考えるべきことは、『この問いの答えは問い二と同じである』という事。第二の問い、それは初めのものとは対極を成すような一文。鶏にペンギン、ダチョウ。世の中には飛べない鳥が数多く存在する。そういった種がどうして飛行能力を獲得しようとしてこなかったのか。それはおそらくだが、彼らはそんな事をせずとも生きていけるため。鶏は空を飛べない。しかし鶏は長距離を移動することも無ければ、エサを探してあちらこちら飛ぶ必要も無い。そこらを走って地面をつつき、ミミズでも啄んでいればそれでいい」
ペンギンにしたってそうだ。彼らは代わりに海中を泳ぐ能力を獲得している。鴨のように水面を這うボートのようにではない。もっと素早く、鋭く、水中を駆け抜ける。それはさながら魚雷のよう。ペンギンが長い距離を移動するには海中を進めばいい。それならば他の鳥類と同じような羽毛は抵抗が大きくなるばかりでむしろ邪魔になるのではないか。
そろそろ纏まってきそうだな。そう判断した青年は口を噤み、足を動かすことの他には思考に専念した。もうすぐ己なりの答えが出てくる。もう、喉の辺りまで来ていると言うのに、上手く唇から言葉として漏れ出てくれそうにない。歯がゆいなと感じるけれども、その残り十数センチの前進を為し遂げるには、最大限の集中力を必要とする。いつだって、大切なのは初めの一歩と最後の詰めだ。
都会の雑踏に紛れる人と同じように立ち並ぶ木々の隙間を縫い、上へと足を進め続ける二人。息はもう切れているし、足だって持ち上げるのは億劫だ。そろそろ答えを出せやしないものだろうか。そうなればディスカッションという名の一時の休息を得る事ができるのだが。
その時、彼の脳裏に天啓来る。
「空を飛び続けるというのはすなわち、地上生活を行っていない裏返しなんじゃないのかな」
今までぼそぼそ呟いていた独り言とは違い、その発想は目の前に教授の耳にまで届いた。先ほどから内容までは聞き取れなかったが、彼が一人でもごもごと独り言を繰り返していたのは教授の彼も気が付いていた。考え事を始めると、この学生はいつもこのようにその思考を声にして漏らしがちだ。そして最後に、他者にも聞き取れるほど明瞭な声を一つ発した時こそが、彼の考えがまとまった合図だという事も、よく理解していた。
立ち止まり、ここらで一休みしようと彼は振り返った。立ち並ぶ木々の一つにもたれかかり、腰を下ろす。教授の座った正面の木、相対するように彼も同じように根と根の隙間に入り込んだ。胡坐をかき、脚の上に鞄を乗せる。
「それで瀬白木【せじろぎ】くん、意見はまとまったかね」
「はい。僕からの回答はまとまりました。それの正誤は不明ですけど」
「構わないよ。私の側でちゃんと解答は用意しておいたから」
顎からほんのちょっと顔を出した髭を親指と人差し指の腹で顔の両側から撫で上げる。黒いゴマが顔に張り付いたような無精髭を撫でる教授の仕草を見て、自分も同じように顎に手を添わせた。しかしそこに凹凸は無く、髭特有のざらりとしたやすりのような手触りも無い。もし僕に髭が生えたら、それは金色になるのだろうか、などと少年は考えた。
「では、聞こうかな」
「よろしいでしょうか。なら、ディスカッションを始めますね」
瀬白木青年は、咳払いを一つ。次の瞬間には、深い隈の上に乗っかった淡青色の虹彩、その中心に座す、ほんのり紅い瞳孔から発された眼光が、一般人に過ぎない教授の茶色い瞳を射抜いていた。
「鳥が空を飛び続ける理由。僕の考えた結論は、『それを止める必要が無いから』です」
「わざわざ中断する必要が無い……か」
「はい。実際に我々人類が自力で空を飛ぶことは不可能ですが……」
「君は飛べるんじゃないか、その気になれば」
「……寵児を除き、我々人類が自力で空を飛ぶことは不可能ですが、そこにはおそらくメリットのみならずデメリットも存在していると思います」
知らず知らずのうちに、寵児を人類という枠組みから蚊帳の外に追い出していた自分に瀬白木は顔を顰めた。今までずっと化け物として扱ってこられたため、仕方の無い事ではあるが、何となく自分はヒトでは無いかもしれないと言う底知れぬ不安は毎日のように抱えている。
それと同時に、胸の内には安堵が一つ。こうして自分でない、そして寵児でもない大人に人類の一員であると認めてもらえた事実。自分の心構えの失態に対する羞恥、それに優るだけの柔らかな安心が訪れた。とは言っても、そんな感傷にはすぐに慣れ切って、また冷たい心に戻ってしまった訳だが。
「鳥類は、他の動物種と比べて体が軽くなくては飛べませんし、翼を打つために異常なまでに胸筋が発達した体をしています。おそらくこれは四つ足の哺乳類と比べてみると歪な姿でしょう」
「その歪んだ肉体構造にシルエットを改造してまで空を飛び続けるだけのメリットが空にあると」
「単純に、空を飛んでいる場合は天敵に怯えずに済みます。雀が猫に襲われるのも、蛇が鳥の卵を襲いに巣を訪れるのも、全て陸伝いです」
「なるほど。猛禽類を挙げてしまうと天敵はゼロにならないが、それでも宙にいる間は地上の俗物共から身を守ることができる、と」
「地上の俗物だなんて……。その言い方、まるで神になったみたいな口ぶりですね」
「往々にして天界の住人は、翼を持つものだろう?」
人々が天使を書く際、白鳥のような純白の羽は付き物だ。彼らを統べる神々にも、時としてその背に翼を授けたがる。そんな事を主張する教授に、「この人は鳥から見た地上の民を俗物と表現したのか」と彼は納得した。
「神様の話はさておき、食物連鎖が存在している以上、その頂点に君臨する者以外にとっては、どこにいようと危険なことに変わり有りません。もしも飛行能力を持ち続けることに、生活圏を宙に置く事に不利益が生じると言うのであれば、きっと鳥類は全て地上に降り立ち、その姿を変えていたことでしょう」
「要するに、降りたくなったら勝手に降りてくるものだということか」
「はい、その時がまだ来ていないだけです。問い二の答えも同一です。わざわざ飛ばなくても生き延びる事が出来る。地上に危険が多いと言っても、地に足が付く生活の方が常に翼を打っているのと比べて消費するエネルギーも少なく済みます」
「いつか飛び立とうと思った時には、飛べるように進化する。すなわち君の意見は」
「まだ、それに相応しい時期が来ていない、というものです」
現状、鶏にとっては地上で十二分に生活が成り立つし、ペンギンならばむしろ飛ぶよりも泳いでいたい。渡り鳥のように陸も海も越えて長距離を移動したいのであれば、空中でのロングランを可能にする今の肉体がベストであろう。
身体が変われば生活様式も変化する。裏を返せば、生活様式を変えたければ形質を転換、一息に表現するならば進化の必要性が出てくる。何もそれが前向きな発展である必要は無いだろう。それを進歩と言えるかどうかはすぐには分からないのだから。強いて言うべきだとすれば、それは変化であり、変異に過ぎぬという事だ。
やはり別人の論というものは面白い。口角を持ち上げて男は、目の前にいる生徒、瀬白木 ヴァイスを眺めた。そうこの理屈は、適応力の寵児である、彼の提言したものだからこそ面白い。
「実に君らしくない、そう『君らしくない』意見だよ、瀬白木くん」
強調を目的としたからか、ねっとりと、二回も君らしくないと教授は彼と、その答えとを評した。その言い草には、別段鋭い者でなくとも違和感を覚えるほどの含みがあった。瀬白木らしくない、そう言わしめるとはどういった根拠があっての事なのだろうか。いつになっても彼は、この教授に慣れることができなかった。もう出会ってから半年は経とうと言うのに、日々その好奇心に付き合わされていると言うのに。それでもなお、どんな灼熱の大地よりも、極寒の空気よりも、この男の性質に慣れ切ることは難しい。
「僕らしくないとは、果たしてどういう……」
「簡単な話さ。君は一体、何の寵児と言われている?」
「適応力……適応力【ダーウィン】の寵児ですが」
寵児、人知を超えた異能と呼ばれる特異な形質を発現した新人類。新人類というのは一部の学者が提唱しているだけで、実際のところ亜種や突然変異体と言った方が正しいと主張する者も学会には存在する。過激な狂信者の中には、人類という種の中に蔓延る癌細胞だと言う者も。
「そうだね、一世代の中で何度も形質の変化を繰り返す。それがまるで何度も何度も進化しているように見えるため、進化論の中でも世間的に高名なダーウィンの名を貰った訳だ」
「世代を跨がないと進化ではなく変態でしか無いと言うのに、誰がつけたんでしょうね」
「確か君の場合マスコミだったろう? 要するに文系の馬鹿どもだ」
「文系批判はやめた方が良いかと」
「言葉は正確に汲んでくれ給えよ。文系が馬鹿と言ったんじゃない。文系の中でも学の無い馬鹿な連中という意味で口にしたんだ」
よく出来た文系の人間は大体官僚や法曹界に向かうものだ。そう言われ、学内の者たちを思い返す。確かに司法の世界を目標に据えている法学部の面々はいつも気難しそうに厚い本とにらめっこしていただろうか。他にも証券会社や銀行などを就職先に見据えている者もそう言った面々の周囲には多い。
世の中探せばまっとうなジャーナリストも存在はしているだろうが、確かに他に就く仕事も無いから入った人間もいるのだろうなと勝手に推論した。
「というより文理の区別など関係ないんだよ。言葉や情報を発信する連中が、よく調べもせずにそんなことを口走ったのが馬鹿だと言うんだ」
「あの頃はアニメの影響で、進化という言葉が横行しましたからね。勘違いした人が増えても仕方ないんじゃないですかね」
「ああ、ゲームボーイの」
「僕も昔はよく見ていたものです」
「自分ではやらなかったのかい?」
「だって僕は寵児でしたし」
下手に買ったところでいじめの延長で壊されるのが目に見えていた。そのため、買ってほしいだなどと親に頼み込むのが憚られた。それのせいで余計な出費や心労を重ねたくなかった。
「それは踏み入ったことを聞いてしまったな。それにしても、同じ進化学の学者を用いるのであれば、もっと相応しい称号があったと言うのに」
そうすれば先ほどの君の言葉は『君らしい』ものになったろうと教授は愚痴をこぼす。なるほど確かに、先ほどの意見は自然選択説というよりもむしろ、要不要説であったかと自分らしからぬ回答だとのコメントに漸く合点がいった。
「ラマルクの寵児。僕ならそうつけるね」
「確かにそうですね。……とするともしや、先ほどの僕の答えは違っていたみたいですね」
「そうだね。僕たちの研究室は……いや、私達に限った話ではないがあくまで、ラマルクの意見よりかは自然選択説を尊重しているからね」
高校球児みたいな坊主頭を上下させ、瀬白木の言葉を肯定する。顔に皺が目立つものの、フィールドワークが多い事から肌は小麦色で不要な肉も無く、むしろ引き締まった筋肉が浮いている。大学の教授と言われてこの姿を思い起こす者はかなり少ないのではないだろうか。
「と、いうことは正しい答えは……」
「正しくは無いのだよ。答え合わせなんて誰にもできないのだから。いつも言っている通りこれは」
「先生の用意した、貴方が満足するための意見」
「その通りだ。ちょびっと僕にも適応してきたようだね、君も」
「そういう寵児ですから」
「ほら見てみなよ、謙遜すらしなくなったよ」
昔は、いえいえそれほどでも、だなんてかしこまって首を横に振っていたと言うのに。小生意気に成長してしまった瀬白木に、つまらなさそうに唇を尖らせた教授は、周囲に聳える高い木々の枝葉を見上げた。
「というより元来君は些事に無頓着すぎるんだろうね。初めは礼儀故か尊敬故か、僕にちゃんと敬意を払っていたと言うのに、最近じゃご機嫌取りなんてどうでもいいと思っている」
「すみません、最初から思っていました」
「ほらほら、そういうところだよ。髪の毛は伸ばし放題だし」
「たまに切ってますよ、裁ちバサミで」
「床屋に行きたまえ。それに、毎日毎日徹夜してるし」
「寵愛のおかげか睡眠いらないんですよね」
「隈が絶えないのがほんとに不気味なんだよ。顔立ちは整ってるくせに」
「ドイツ人とのハーフですから。後、寵児なんでアルビノですから見栄えだけはいいですね」
「そういうの自分から言っちゃうんだ」
「客観的な事実を述べただけです」
「やっぱり君は変わってるよ」
人からどう見られるかなんてさらさら気にしていない。ざっくばらん、それが誰よりも似合っている。環境に適応する様な力を持っているというのに、傍若無人に歩いていくその様はまるで、環境の側に「僕に適応しろ」と命令しているようである。
「先生がそれを言いますか?」
笑みも浮かべずに、淡々と語尾を上げる口調に、それが純粋な問いだと知る。からかっている訳でも皮肉でもなく、当然不快にさせたい訳でもない純粋な質問。それは言うなれば、先生の方こそ変わり者だと彼は信じているという訳だ。確かにそれは否定できない訳だが、もう少し言葉にも選び方があるだろうと叱り飛ばしたい。叱ったところでどうせ、顔色なんて変わってはくれないだろうが。
「まあ良い、本題に入ろう。僕が用意していた解答というのはね、『そこに不利益がないから』、さらに言うなれば『わざわざ絶滅する理由が無かったから』というものだよ」
何も好き好んで飛ぶと言う選択をしているのではなく、生まれながら『飛ぶことを運命としている生命体』が生き延びている、だけ。何かそこに不都合があれば自然淘汰されてしまっただろうが、幸いにもそんな事は起こらなかった。
「結局のところ鳥の先祖なんざ、恐竜の鱗に交じって羽毛みたいなものが生えたり、奇特な個体が腕をバタバタと上下させていた程度のものだ」
そんな塵のような突然変異が世代を重ねるごとに積み重なり、別の種が生まれた。飛行能力を獲得した個体、得ていない個体、それら二つ共に絶滅する理由は存在しえなかったため、分岐した道はそれぞれ独自の進化と、また別の分岐を迎えることとなる。
「生き残った個体が環境に適応していたのではなくて、環境が拒まなかった個体が生き残った、ただそれだけの話なのさ」
大きな講堂で講義をしているのと同じような口ぶりで教授は、瀬白木 ヴァイスにそう教え諭したのである。