複雑・ファジー小説

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.4 )
日時: 2018/06/15 17:22
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)

〈一章 人間になるために〉

 王宮から連れ出された少年は、これまでの記憶を全て失っていた。護送車に入れられ、暴れ出さないように手足を鎖でつながれ、薬を飲まされて朦朧とする意識の中、少年は己に問うた。
——ぼくは、だれ?
 あまりにも辛すぎる記憶は、少年から己の名前すら忘れさせた。ずたぼろになった手の痛みが、思い出すなと囁きかける。そんな彼が彼たる唯一の証は首に掛けられた金のメダルだけれど、彼にはそれが何であるかわからなかった。少しでも字を知っている者ならばそこにフォルトゥーンの字を読み取ることができるだろうが、獣の少年はそもそも言葉というものをほとんど知らなかった。文字なんて読めるわけも無い。
 ガタンゴトンと、馬に引かれて護送車は揺れる。どこへ行くのだろう、どこへ連れていかれるのだろうと少年は胸の内に不安を抱く。何一つ身に纏わぬ少年は、隙間風に身を縮こまらせ、獣の尻尾を幼い身体に懸命に巻きつけて暖を取った。少年は孤独だった。少年は独りだった。実の親でさえ彼を捨てた。少年を助ける者なんていないのだ。
 少年の脳裏にふっと、このメダルをくれた人の顔が浮かびそうになったがそれすらも曖昧で。
——わからないや。
 諦めて少年は眠りについた。それぐらいしか彼にはすることがなかった。
 フォルトゥーンのメダルは彼を幸せにできるのだろうか。
 託された願いの成就はいまだわからない。

 六日か、七日か。時の感覚の消える旅。やがて少年は「到着だ」の声とともに起こされて、檻の隙間から外を見た。
そこは小さな村だった。木で作られた家々の立ち並ぶ小さな村。道端には花が咲き、小鳥のさえずりの聞こえるのどかな村。
「お前の家は、今日からここだ」
 護送車を操っていた御者の声。しかしその瞬間、何の前触れも無く少年の中の「獣」が頭をもたげた。それは水に墨汁を落とすように、見る見るうちに少年の心を侵食した。先程まで穏やかな微笑みを浮かべていた少年の顔に影が落ちる。そしてその姿が、変化し始めた。
 全身に漆黒の毛が生え、小柄な体は巨大化する。手足には鋭い爪が生え、手は長くなり、二足歩行から四足歩行へとシフトする。
 数秒後にはそこに全裸の少年の姿はなくなって、代わりにただただ緑の瞳を殺意にぎらつかせた漆黒の狼が、その場で咆哮を上げていた。狼は唸り声を上げて勢いよく檻にぶつかったが、鎖が邪魔してうまく動けないようだ。村人たちが怯えた顔をした。
「…………」
 御者は無言で荷台から弓と矢と毒壺を出すと、矢の先を毒壺に浸して弓につがえ、狼に向かって放った。その手捌きには一切の遠慮がない。放たれた矢は風を切って飛んで行き、狼の腕に突き刺さった。狼は唸り声を上げて、ますます猛り狂う。
「……悪く思うな、獣よ」
 淡々とした声とともに、第二矢が放たれる。今度は狼の後肢に突き刺さった。狼はしばらく暴れていたが、やがて大人しくなった。毒壺に入っていたのは麻痺毒だ。それが効き始めたようである。
 身体の自由を奪われた狼は、とてつもない憎悪を含んだ目で御者を睨んだ。御者は疲れたように息をつき、その様をじっと見ていた村人たちに声をかける。
「そちらが預からねばならぬのはこんな奴だが、皇太子殿下のご命令だ、宜しく頼むぞ」
 簡潔に彼はそんなことを言う。
「檻は荷台から取り外せるようになっているから彼ごとここに置いていく。戻ったら秘密隠蔽のために俺は始末されるだろうから、仕事を終えたら行方をくらます。こいつの世話の仕方は看守が紙に残してくれたからここに置いていく。ではな」
 御者の男は紙の束を地面に置くと、馬と護送車とを切り離し、馬にまたがった。
「任務、終了。これ以上、関わることも無いだろう。こっちだってこんなことになんか関わりたくはなかった。餞別に名前をくれてやる。俺はウィオ。名字すらない平民さ」
 言うだけ言うと、御者ウィオは馬の腹を蹴り、風のようにその場を去った。残されたのは、不安げな村人たちと獣のうずくまる不気味な檻。
 村人の一人が、思わずと言った体で呟いた。
「私たちはこれから……どうなるんだ?」
 重い空気が村中を包んだ。


 「ジオファーダは人の姿をした獣である」。それが、この村の人々から見た少年の印象だった。暴れるだけ暴れ、暴れ疲れたら人の姿になって眠る少年。彼が人間であるときは彼が獣である時よりも長いけれど、彼に意識があるのは獣の時の方が長い。彼は人間に戻った時間のほとんどを眠って過ごした。暴れることによって消費した体力を、眠ることによって回復するのだ。
 彼が暴れる理由。それを人は「自由になりたいからだろう」と解釈した。檻にひたすら身体を打ちつける獣の少年。それは自由を求めているようにも見える。だがその理由は少年自身にもわからない。彼の中でただひたすらに、意味も無く荒れ狂う感情が、彼にそういった暴力を起こさせる。それを制御するすべを少年は持たず、また、そう言ったどうにもならない思いを伝えるための言葉もまた、彼は知らなかった。暴力しか持たず、何も知らない少年はただ、暴れることしかできなかった。
 グオルルル、ガオルルル。少年の叫びが村を震わせる。彼の胸の上、金のメダルがちらり、ちらりと輝いた。まるで運命を嘲笑うように、まるで少年を嘲るように。
 かくして悪夢はまだ続く。


 暑い夏も、寒い冬も。気温差の激しい春も秋も。少年の生活は変わらず、誰も少年を人間として扱わなかった。向けられるのは恐怖と侮蔑。獣として育てられた少年はいつしか、人間らしい感情をも喪失していった。わずかに覚えていた言葉も、彼の脳が不要と判断して忘却した。少年は施行する能力すら失い、惰性で生きるようになった。
 「生きている」のではなくて、「生かされている」命。
 そんな日々が五年も続いた頃、余所者の来ないこの村に一人の余所者がやってきた。それは老人だった。髪も眉も髭も白く、そういった毛でモコモコしている低身長のその老人の頭からは、先の折れた兎の耳が生えていた。獣人の一種、兎人である証である。そんな彼は、

 共和政シエンルが王、「平和の白兎」リュブド・シエル。

 五年の歳月を経てついに彼は、己の後を託すべき孫息子を見つけたのだった。

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.5 )
日時: 2018/06/18 18:40
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


「話は聞いておる。しかし私はそなたらを処罰したりはせぬ。私はのう、可愛い孫息子の顔を見に来ただけなんじゃ。じゃから恐れる必要などないぞ?」

 リュブドは村に着いて名乗りを上げると、安心させるように村人たちにそう言った。しかし村人たちは皆不安げな顔をしている。リュブドは困ったような顔をした。
「私はただ、孫息子に会いたいだけなんじゃ。元皇太子夫妻に巻き込まれ、強制されただけのそなたらを私は責めぬ。じゃから、案内してくれんかの。……現状が、知りたいのじゃ」
「……ご案内致します」
 その言葉を受け、一人の青年が前に進み出た。その顔にはどこか諦めたような表情が浮かんでいる。彼はリュブドを追い越して歩いて行き、リュブドに背を向けたまま、立ち止まって言葉を発した。
「一言、言わせてもらいますが……あれは人間ではない」
「承知の上よ」
 リュブドは真剣な顔でうなずいた。それを確認すると、青年は歩き出す。
「……ついてきて下さい」

 エサをくれる人のものではない足音を聞きつけて、くたびれきっていた少年は目を覚ます。獣の耳が敏感に音をキャッチして、ぴく、とどこか怯えたように震えた。
 檻には布がかけられており、それが郊外に置いてある。その布が取り払われた。少年は突如飛び込んできた光の眩しさに、何度も目をしばたたいた。
 光の中にさらされた少年の裸身。何も纏わぬ肌はいたるところ傷だらけで汚れていた。漆黒の髪は己の血と汚れによってやや茶色みががり、エメラルドグリーンの瞳は虚ろで人間らしさなど存在しない。外見こそ人間の姿をしてはいるが、そこにいたのは紛れも無い獣だった。檻に入れられて見せ物にされている、哀れな手負いの獣だった。その手足には、拘束の鎖が伸びていた。
「ジオファーダ……」
 思わずリュブドは少年の名を呟くが、少年は首をかしげるだけだ。名前すら忘却した少年は、リュブドを見て警戒の唸り声を上げた。
「私は敵ではないよ、ジオ」
 リュブドは優しく微笑むと、少年のいる檻へ近づいていく。その背を慌てて青年が呼び止めた。
「駄目です、この方は危険ですよ! 近づかない方が——」
 リュブドは青年をぎろりと睨んだ。
「そうやって遠ざけて、誰もこの子を愛そうとしなかったのだろう。違うか?」
「…………」
 黙り込んでしまった青年を尻目に、リュブドは唸り続ける少年に近づいていく。少年は警戒の唸り声を強くしていくが、リュブドの歩みは止まらない。
 やがて、
「——ジオファーダ」
「……ッ!」
 リュブドの手が、少年の腕に触れた。リュブドは優しく語りかける。
「私は、お前に会いたかった」
 言ってリュブドは少年の身体を引き寄せると、檻の鉄格子ごと彼の身体を抱き締めた。驚きに少年の身体が硬直する。リュブドはその背を何度も何度も、優しくいたわるようにさすった。
 少年はこれまで、こうやって誰かに抱きしめられたことなんてなかった。誰かに優しくしてもらったことなんてなかった。そして今、彼は溢れんばかりの愛情を身に浴びて、ただ戸惑うばかりだった。その時少年の心に生まれた感情は暗いものではなく、彼は自分でも理解できない感情の奔流に涙を流した。
 しかしその感情に導かれるように、少年の中の「獣」が目を覚ます。これまでならば、少年は簡単に己の内に眠る獣に意識を乗っ取られていたことだろう。だが、今になってようやく少年の心の中にきざした小さな「自我」は、今まさに荒れ狂わんとする「獣」を必死で抑えつける。目の前の人は敵ではない、だから傷つけてはいけないと、少年は「思考」する。少年はおぼろげながらもこの「獣」が他者を傷つけ得るものだと知っていた。だから——起こしてはいけないと。
 止まれ。
 最初に少年が思いだした言葉はその一語だ。少年はその言葉をひたすらに心の中で呟き続けた。止まれ止まれ止まれ——。それは、彼に初めて「喜び」という明るい感情を与えてくれた、目の前の人間を傷つけないようにするために。
 リュブドは体を硬直させた少年の顔に、苦悩の色を垣間見た。
 その瞬間、
「ッ! 離れて下さいッ!」
 青年の叫び声。彼の手によってリュブドは檻から引き剝がされた。刹那、檻の中から恐ろしい唸り声がした。
「ジオ……」
 少年は、まだ持てる自我の少ない少年は、「獣」に克つことができなかった。彼は「獣」に己の身体の支配権を譲り渡してしまった。先程までは少年のいたそこには、通常の三倍はあろうかという大きさの狼が、目に映るもの全てを憎悪の眼差しで睨みつけている。
「でも……驚きました」
 額から汗を流しながらも、青年はリュブドに向かって言った。
「彼……一瞬でしたが確かに、自分を制御していましたよね。そして『人間らしく』涙まで流した」
 リュブドは頷く。
「ジオは獣ではなく人間なのじゃよ。ただ一般人よりも、獣性を強くして生まれただけで」
 リュブドが檻の中に目をやれば、自我を失った獣が狂ったように暴れている。リュブドは顎に手を当てて考え込んだ。
「獣性か……。『封印』すればもしかしたら……?」
 リュブドの頭の中に、自分の手駒として使える腹心の部下の顔が浮かんだ。
「成程、現状は理解したぞ。今回は一旦帰ることにするが、次はある人物を連れてまた訪れる。彼ならばきっと、ジオファーダの強すぎる獣性も、封じられるじゃろうて……」
「……畏まりました」
 青年は何かの装置を動かして、元通り檻に布を掛けた。檻が獣の突進を受けて、激しく揺れた。
 何かを考え考えしながらも、リュブドはその場を、村を去る。
 こうして初めての邂逅は、終わった。

  ◆

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.6 )
日時: 2018/06/18 18:50
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


  ◆

 王宮から離れた小さな別荘にて。

 「彼」は旅支度をしていた。黒髪青眼、狼の耳と尻尾を持ち、青のマントに身を包んだ彼は十代後半の少年に見える。どこか儚く、そして冷めた雰囲気のある日教の湖のような彼は、大して身体が強くはないくせに旅が好きだった。実際、彼の旅の記録が国外の情勢を知るのにも役立っているから、彼は旅のついでに様々な情報を集めてくる。そんな彼は王、リュブド・シエルの腹心の部下である。
 この国、共和制シエンルの南には神聖エルドキアという、ちっぽけな島国がある。その国の民はみな誇り高く、また戦闘能力も非常に高いことで有名だ。「彼」はその国に渡ることを考えていた。
 そんな彼の背に声が掛かる。
「ルエンス」
 ルエンスと呼ばれた少年は振り返る。振り返った先には全身モコモコの老人がいた。リュブド・シエルである。その姿を見てルエンスは軽く会釈すると、何の用、と問い掛けるように首をかしげる。
 リュブドは口を開いた。
「そなたに用があるのじゃ。正確には、そなたの『封印』の力に。せっかく旅支度をしているところ悪いが、王として命ずる。引き受けよ」
 ルエンスは頷き、待ってと言うかのようにリュブドを手で制し、懐から青い表紙の一冊の手帳を取り出した。彼は微笑むと、そこに魔力を込める。すると、何も書かれていなかった白紙のページに、青く光る文字が現れた。青はルエンスの色、彼の魔力の色である。
 そこにはこう書かれていた。
〈僕があなたに逆らう訳がない。大丈夫、わざわざ命令形にしなくても引き受けますよ〉
 文字の現れた手帳をルエンスはリュブドに突きつける。リュブドは淡く微笑んだ。
「ルエンス、お前はいつも私に忠実でいてくれるんだな」
〈当然です〉
 手帳に魔力で書かれた文字が消え、順次に別の言葉に書き換わった。
 ルエンスは唖者あしゃだ。喉の構造が普通の人間とは違うため、生まれつき喋ることができない。だから彼は手帳で喋る。
 空気中に無数浮かぶエネルギー粒子、「魔法素マナ」を使って魔導士たちは魔法を使う。それは通常は目に見えないが、コツさえ覚えれば、魔法の才能のある者は己の魔力を直接流すことで可視化させることができる。声を持たぬルエンスは意思疎通のためにその技を磨き、今は文字に様々な色をつけることだってできる。しかし魔法素マナの可視化は魔法を使う者にとっては式を看破られることになるので普通はそんなことしない。ルエンスは己の意思疎通のためにひたすら、その技を磨いてきたのだ。今やルエンスは魔法素の扱いに関してはそこらの魔導士を軽く凌駕する。
 また、彼は封印の術式と罠の術式も得意である。魔力を込め、可視化させないように気を使った特殊な「糸」で相手や物を縛ったり、触れても何も感じさせない特殊なセンサーを張り巡らせたりと、魔法素そのものを使った術式は使用者が少ない割に応用範囲が広い。
 ルエンスはリュブドをつついて手帳を突きつけた。
〈ところで、ジオファーダは見つかったんですか?〉
 それを見て、そうじゃとリュブドは頷いた。
「しかし、獣性が強すぎて私ではどうにもならなんだ。だからそなたの『封印』の力を借りたいと思ってな」
〈承知致しました。出立はいつですか〉
「出来る限り急ぎたいからの……明日でも構わんか? 無論、私も行く」
〈問題ありません。……もう若くはないのですから、無理なさらないで下さいね〉
 少し心配げなルエンスの言葉に、リュブドは豪快に笑った。
「はっはっは、私のことなら気にするな。これでも昔はシエンルで名だたる剣士だったのじゃぞ? 大丈夫、まだまだ剣を持って戦える自信もあるでな。……それよりルエンス、お前はそこまで強い身体じゃないんだから無茶するでないぞ」
 その言葉を聞くと、ルエンスは少し不本意そうな顔をした。手帳に文字が綴られる。
〈大丈夫です、これでも旅に出て少しは体を鍛えました。老人に言われたくはないですね〉
「言ったな? 私はこれでもまだ十分元気じゃよ。病人に言われとうないわ」
 リュブドはクスクスと笑った。その笑みにルエンスも穏やかな微笑みを作る。
〈では、僕はこれで。あなたも明日またすぐ出掛けるのならば用意が必要でしょう〉
 手帳に綴られる言葉は簡潔で無駄が少ない。それはルエンスの淡白な性格を表している。
 そうじゃの、とリュブドは頷き、軽く手を上げてルエンスに別れを告げた。
「それではまた明日。……ようやく、この国に平穏が訪れるのか」
〈平穏にはまだ早い。隣国が怪しい動きをしていることも、お忘れなく〉
 リュブドは溜め息をついた。
「……問題は、山積みじゃの」
 疲れたような顔をしながらも、リュブドはルエンスの家を出ていった。

 翌日、リュブドは数人の供と共にルエンス宅を訪れた。
 ちなみにルエンスの部屋は王宮内にもあるのだが、王宮の重苦しい雰囲気は彼には合わないらしく彼は滅多に自分の部屋に帰らない。その部屋も今や書斎と化していて生活調度のほとんど存在しない空間になっているので、彼はその部屋を便利な図書館としか思っていないきらいがある。一般人からすればものすごい贅沢だが、ルエンスの立場は少々特殊なのでこの程度のことはリュブドも気にしない。
 リュブドはそんな彼のために城の外、郊外にわざわざ別荘を造らせて与え、その別荘は今や彼の本当の家のようになっている。破格の待遇である。
 そんな彼の別荘の庭には派手すぎない植物が自然な感じに植えられていて、今の季節は露草の青が綺麗に映えた。朝露に連れた露草というのも風流だ。庭の管理は雇いの老人がやっているが、庭の植物はルエンス自身が選んでいる。この庭を訪れるたびにリュブドはその美しさに感動し、幸せな気分になるのだった。
 その露草の庭を抜けると木造の、小ぢんまりとした家がある。そこにルエンスは世話係の少女とともに、ひっそりと暮らしていた。
 庭を抜けたリュブドは、その家の木の扉を叩く。
「ルエンス、準備できたかの?」
 声を掛けると扉が開いて、中から旅支度を終えたルエンスが出てきて手帳を突き出す。彼は何度か咳込んでいた。リュブドが心配そうに眉根を寄せる。
「体調、大丈夫かの? 昨日とは違う気が」
 背伸びして額に手を乗せようとするリュブドを、ルエンスは鬱陶しそうに払いのけた。
〈たかが咳くらいでそこまで心配されても困ります。僕のことなんかどうでもいい。で、そちらの準備は?〉
「少しは自分のことを心配しなさい。……ほう、やはりそなたは青が似合うのう」
 リュブドは彼の格好を見て、思わずというように簡単の溜息を漏らした。
 闇を切り取ったかのような黒い髪に同色の狼の耳、そして冷たさと僅かな穏やかさを湛える青玉石の瞳を持つルエンス。その肩には露草のような色をした鮮やかな青のマントが掛けられており、その下に着たベストの色は黒。グレイのズボンを穿き、足には黒革のブーツ、手には黒の革手袋。彼が軽く身動きをすれば、胸に下がった青玉石と石英の首飾りがシャラシャラと涼しげな音をたてた。
 ルエンスは自分を褒めた言葉にも素っ気なく返す。
〈褒め言葉など無用です。さっさと行きましょう〉
 その文字を見て、リュブドが口を尖らせた。
「つれないのう、ルエンスは」
〈魔力節約のためです。この文字も一応、僕の魔力でできている〉
 ルエンスは持てる魔力が常人より少ない。彼は独自の式で魔力消費を極限まで抑えているようだが、それでもこれから大きな「封印」を掛けるのだ。無駄な消費は避けた方が良いだろう。
 素っ気ない態度に苦笑しながらも、事情を知るリュブドはさて、と気合いを入れた。
「わかった、もうしばらくは話し掛けんよ。ではでは、囚われの愛し子を助けに行くとするかの」

  ◆

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.7 )
日時: 2018/06/24 16:42
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 例の村へは馬車を使って片道七日もかかる。狭く、馬車では通り抜けられない道が多いからだ。それに何よりも、王都から距離がある。
 しかしそれでも、いつかは必ずたどり着く。
 出発から一週間後、リュブド・シエルは再びその村の土を踏んだ。

「共和政シエンルが王、リュブド・シエルじゃ。ジオファーダを迎えに来た!」
 六十過ぎの老人とは思えないほどよく通った声が、村の中に響き渡る。しばらくすると、前にリュブドを案内した青年が村の奥から現れた。彼はリュブドとお付きの者たちをきょろきょろと見回すと、ルエンスに目を留めた。
「ご案内致します……が、その前に。この方が、陛下が以前におっしゃられた方ですか」
 そうじゃとリュブドは頷いて、ルエンスの腕をぽんぽんと軽く叩く。
「彼はルエンス・アルトゥーゼという。私の腹心の部下であり、おそらくシエンルで一番の封術師じゃ。彼がどうかしたのかの?」
 リュブドの疑問に、青年は視線をさまよわせた。
「いえ、陛下のお言葉を疑うわけではないのですが……あの獣の子は本当に危険です。だから、絶対確実な者でないと心配なので」
 青年の言葉が途中で止まった。その口も、その身体も突如、まるで金縛りにあったみたいに動かなくなる。よくよく見ると、青年の全身に魔力でできた青く細い糸が、瞬時に彼をぐるぐる巻きにして動きを封じたのだとわかる。その糸はルエンスの細い指先から出ていた。
 ルエンスが無表情で、青年の前に手帳を突き出す。手帳には彼の魔力でできた、青い文字が躍っていた。
〈これでいい? 補足。僕は喋ることができない〉
 青年がその文字列を読み取ると金縛りが解けた。青年はルエンスに驚きの眼差しを向ける。
「……ご無礼を深くお詫び申し上げます。では、ご案内致します」
 青年の顔から不安の表情は消えていた。彼は自分よりも若い子の少年に、畏敬の念を抱いたのだった。


 その足音を聞いた時、獣の少年は自分の心が高鳴るのを感じた。彼は覚えていた。その足音が、いつしか自分に明るい感情を教えてくれたことを。聞き慣れない足音もあったが、少年は気にしない。ただただ明るい期待だけが際限なく膨れ上がって、少年の心を占領する。少年は嬉しかった、楽しみだった。その目がきらきらと輝きを帯びる。
 短い時間が、しかし少年にとっては永遠にも感じられる時間が過ぎたとき、少年は「あの声」を聞いた。。
「——ジオファーダ」
 布が取り払われて現れたのは、真っ白でモコモコの老人の顔。少年に光をくれた人物の、顔。それを見た少年は——喜びのあまり、獣となった。

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.8 )
日時: 2018/06/29 21:07
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


「……って、いきなりですか!? 離れて下さい!」
 目の前で唐突に獣となった少年を見て、青年が叫んだ。一同は慌てて檻から離れる。
 檻の中で暴れ狂う獣の様子を冷静に観察しながらも、ルエンスは相手の力を推測する。
(相当凶暴……一筋縄ではいかないみたいだ)
 その額から、緊張のあまり汗が一筋伝い落ちる。
「やれるか、ルエンス?」
 声に心配の混ざったリュブドの問い掛け。ルエンスはゆっくり頷いて、深呼吸をしながらも手帳を皆に突きつける。
〈今から式の構築に当たります。うまくいけばジオファーダは人間に戻り、失敗すれば恐らく僕が倒れる。沢山の集中が必要ですので、今から僕に話しかけないでください。何があろうとも、僕の邪魔をしないでください〉
 返事は待たない。
 その言葉を見せると彼は、暴れ狂う獣と対峙した。その青の瞳がすっと閉じられる。彼は外部の情報を遮断することによって、無意識の世界へと侵入した。
 ルエンスは己の魔力で紡ぎ上げた糸を対象の身体へと伸ばす。魔力の糸は獣の身体に幾重にも絡みつき、その心を精神的に、その身体を物理的に縛りあげた。しかし一瞬の血にすさまじい抵抗にあい、ルエンスは自分から伸ばした糸に振り回されて吹っ飛ばされ、壁にしたたかに身体をぶつけた。その顔が苦しみに歪む。肺から一気に空気が吐き出され、彼は刹那、呼吸困難に陥った。
「ルエンス!」
 リュブドの手。駆け寄ったリュブドの手がルエンスを助け起こす。激しく息をつき、地面に血を吐き出したルエンスの顔には余裕がない。彼は手帳を取り出す暇ももどかしく、手を素早く動かして手話で意思を伝える。
〈大丈夫……です。まだ負けてはいません。小手調べでは負けましたが、この程度、まだ何とかなる範囲です。——勝負は、ここからだ〉
 相手がその「言葉」を読み取ったかの確認もしない。ルエンスは再び目を閉じて、意識を集中させた。相手に絡みつき、動きを封じようとする青い魔力の糸。彼はその先端を、意を決して相手の心臓に差し込んだ。
〈————ッ!〉
 途端、ルエンスの心臓に激痛が走る。相手から無意識のうちに放たれた返しの魔法。しかし彼は歯を食い縛ってそれに耐え、そのまま「糸」を進めさせて、相手の心の底へと迫る。
 心は何処に宿るのか。頭か、心臓か? それは古来から繰り返されてきた問い。その問いに、これまで何度も他者の心に侵入してきたルエンスはこう答えるだろう。「心は臓器に宿らない」と。
 ルエンスは他者の心に侵入する際に、その臓器を媒介として侵入する。しかし臓器そのものに心は宿らない。彼の考えは、心とは人類が知覚できない次元にあるが、確かに存在するものである、というものだ。それでも臓器は媒介になる。だから彼は「糸」を進ませていくのだ。臓器と無意識、心との境界が曖昧になっていくまで。
 やがてルエンスは目にする。
 ジオファーダの心の世界。少年の抱いた感情や記憶がさまざまな事物の姿を取って、無意識の世界に顕現する。ルエンスが目にした少年の「世界」は、何も無くてただ殺風景だった。天地の境目すら曖昧なその世界。その世界はいつでも夜で、その外周を檻の鉄格子が取り囲んでいた。
 その中央に、獣。
 四肢に千切れた鎖の巻きついた、目に憎悪を宿した真紅の獣が、悪意をただ吐き散らしながらも檻の中の世界を暴れ回る。その真紅の瞳には狂気と破壊欲。この獣こそが、少年に巣食う悪夢の元凶だった。
 人の心の奥底には、様々な「核」がある。これまでルエンスは七人の心を覗いたけれど、ジオファーダのものほど禍々しいものは見たことがなかった。ルエンスはそれを封じようと、己の魔力を総結集させて、魔力で作られた巨大な糸玉を呼び出した。ルエンスの青に輝く糸玉。ルエンスはそれを一気にほどき、タイミングを見計らって獣の四肢に巻きつける。
 現実世界。あれほど暴れていた獣の動きが止まった。固く目を閉じたルエンスの全身からは絶え間ない汗が流れている。しかし獣は止まった。だれも止められなかった獣は——止まったのだ。
 相手の心の中で、ルエンスは必死に闘っていた。獣の心の本体の抵抗は想像を絶するものがあり、いくらシエンル屈指の封術師たるルエンスの腕をもってしても手に余る。予断を許さぬ状況の中、ルエンスは決断した。己の限界を超えた力を引き出すことを。
 何の前触れも無く、現実のルエンスの身体に内出血が浮かぶ。それは見る見るうちに数を増やし、ルエンスの全身は内出血によって赤黒く染まっていく。内出血が弾け、血が飛び散った。それは使い過ぎた力の代償。自分の魔力で補えない分の魔法は、その身体を使って補われる。魔法は時に、己の身すらも傷つけるのだ。
「ルエンス……」
 顔を痛みと苦しみに歪めるルエンスの手が握られる。カサカサした老人の手。リュブド・シエルの。ルエンスの大切な人の手。ルエンスはその手から温かさを感じた。それが彼に力を与える。
 己の身体を破壊した、つまり己の身体にかけられたリミッターを解除したことによりルエンスの力は跳ね上がる。それにリュブドの力も合わさって、大きな魔力の波が生まれた。
〈止まれ、鎮まれ、落ち着け——!〉
 心の世界。青の糸の輝きがひときわ強くなる。
 刹那の後にはルエンスは相手の心から弾き飛ばされ、目の前に人間に戻った少年の姿があるのを確認した。そしてそれを確認するなり、彼の全身から力が抜ける。激痛。身体中の傷と内出血の痛みとまだ治りきらぬ心臓の痛み、そして耐えがたい頭痛。事を為し終えたルエンスは、痛みと苦しみに地を転げ回った。
「ルエンス!」
 力強い声が苦しみを裂いてルエンスの耳に届く。それは慈愛に満ちた優しい声、リュブドの声。
「——よくやった」
 ルエンスはその声を聞くと妙に安心して、眠るように意識を手放した。

  ◆

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.9 )
日時: 2018/07/07 12:24
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


「……それにしても、驚きました。まさか本当に封じてしまうなんて」
 呆けたように、青年が呟いた。
「わかります。この子は人間に戻ったと、もう安全だと」
「ルエンスは、よくやったよ」
 リュブドは疲れたように笑った。
「とはいえ、もうしばらくは何もできまい。この体調のまま帰らせたら死亡するやもしれんし、ゆえにしばらくこの村で過ごさせてもらいたいのじゃが、構わんかのう?」
 青年は大きく首を縦に振った。
「もちろんですよ! ジオ様も一緒に!」
「あの子はもう、獣ではないからの……ようやく、一緒になれた」
 リュブドはほうっと息をつく。
 獣として扱われ、両親に捨てられた少年。檻の中、己の獣性を封じられた少年は安らかに寝息を立てている。リュブドはその首に掛けられた金のメダルに気が付いた。
「フォ、ル、トゥーン? フォルトゥーンか。運命神フォルトゥーン……成程のう……」
 リュブドはそれの掛けられた経緯など知る由も無い。
「しかし運命というのは不思議なものよ……。ジオ、安心するが良い。お前は救われたからの」
 看守の託した願いの金色。彼の願いはこれから叶えられるだろう。
 陽の光を受けて、まるで微笑むかのように金のメダルがきらりと光った。

 目が覚めたとき、少年は光の中にいた。
 優しく、穏やかな光。そんな光を、ずっと閉じ込められていた少年は知らない。
 少年の身体にはしっかりと衣服が着せられており、それは少年を寒さから守った。
 あれだけ彼を拘束していた鎖は今やなく、少年は驚いたよう顔をして、恐る恐る身体を動かしてみていた。
——そして何より、「獣」がいない。
 少年が最も驚いたのは、初めて受けた人間らしい扱いではなくて、己の内面についてのことだった。少年の心の中にはこれまでずっと獣がいた。恐ろしく凶暴なけだものがいて、それが少年を暴走させ、傷つけた。
 その獣が、もういない。
 少年は己の心の奥底に冷たい青の光が瞬いているのを感じたが、少年にはそれが何であるのかわからなかった。
 様々なことに疑問を感じていると、少年の獣の耳は誰かの足音を捉えた。それは紛れも無い、少年に喜びを教えてくれた人の足音だ。少年は思わず寝かされていたベッドから飛び降りて、音のする方へ駆けだした。
 部屋の入り口のドアが、音も無く開く。
「もしもし、いるかの? ……って、わわっ! いきなり何じゃ」
 扉を開けるなり飛びついてきた少年を見て、リュブドは面食らった。彼は少年の歓喜に満ちた瞳を見て、そっとその身体を抱き締めた。すると少年は強い力で老人にしがみついてきた。
 少年はまだ、この人物についてよく知らない。それでも、生まれたばかりの雛鳥の、最初に見たものを親と信じ込む性質の如く、彼にとってこの老人は、「親」として刷り込みされていた。
 少年は老人のモコモコの身体にしがみついて何度も頬ずりした。それはまるで、小さい子供のようだった。実際、生まれた時から獣として扱われ、人間らしい育て方をされてこなかった彼の精神年齢は外見よりも幼い。今の少年の年齢は十歳だが、その心は三歳児のものと大して変わらなかった。
 感情の波がおさまるまで、少年はずっと老人にしがみついていた。やがて喜びに高ぶった感情がおさまると、少年は純粋な瞳で老人を見上げた。その様はまるで、老人に何かを期待しているかのようだった。
 だからリュブドは少年に、与えてやった。
「ジ、オ、ファ、ー、ダ」
 それは、この少年の名前。
 訳がわからず首をかしげる少年に、リュブドは少年を指差して言った。
「ジ、オ、ファ、ー、ダ。……それがお前の名前だよ、言ってご覧」
 少年は首をかしげながらも、自分を指差して恐る恐る、初めての「言葉」を口にした。
「い、お、ぱ、ー、だ?」
「違う。ジ、オ、ファ、ー、ダ。ほら、もう一回」
 リュブドは少年に根気強く教え続けた。
 そしてその日、少年は自分の名前を覚えた。

Re: SoA 大戦編 月影に吼える ( No.10 )
日時: 2018/07/12 00:59
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


  ◆

 それから二週間。政務の合間、リュブドはジオファーダに様々な言葉を教えた。ジオファーダはスポンジが水を吸うようにたくさんの言葉を覚えていき、「獣」は一気に「人間」へと成長した。リュブドが簡単な文字を教えてやると、ジオファーダはひたすら本を読みたがるようになった。その知識欲たるや、好奇心たるや。まるでこれまで何も教わってこなかった十年間を、取り返そうとするような勢いであった。
 丁度その頃、全身ボロボロだったルエンスも大方回復したので、リュブドは二人を会わせることにした。

〈初めまして。いや、正確には会うのは二度目だけれど……。ルエンス・アルトゥーゼだ、よろしく。僕は喋れないからこうやって手帳を使っているわけだけれど……読める?〉
 ジオファーダの部屋に入るなり、ルエンスは無愛想に手帳を突き付けた。知らない人間に、ジオファーダは警戒の色を隠せない。リュブドは苦笑した。
「これ、ルエンス。ちぃと無愛想に過ぎるぞよ? ジオが怯えておるではないか。
 ジオ、これはルエンス、私の腹心……つまり大切な部下じゃよ。家族みたいな存在だと思うておるから仲良くしてくれい。お前が他の人間を信じられなくとも、私とルエンスだけは絶対にお前を守るから怖がらないでいてほしい。こいつが冷たく見えるのは昔からじゃが、本当はとても優しいのじゃ。お前の『獣』を封じたのも彼なのじゃ。ルエンスはお前にとっての恩人なのじゃよ、ジオ」
 その紹介を聞いて、ジオファーダは目をまん丸にした。
「あなたが……おんじん」
 ルエンスは頷いた。その顔にはどこか、誇りのようなものが見えた。
〈そう。で、僕の言葉、読めるかな〉
「さいしょの、よめなかった。ことば、むずかしい。ぼく、べんきょうちゅうなの。もじ、むずかしいよ」
 ジオファーダは拙い言葉で、懸命に意思を伝えようとする。
「で、えーと、あなたは、うえんす?」
〈ルエンス。『ウ』じゃない。簡単な字はわかるよね?〉
「……るえんす」
 ジオファーダはゆっくりとその名を呟いた。
「るえんす。じぃじのなかま、じぃじのかぞく。ぼくの……おんじん」
〈そう〉
「るえんすは、ぼくにひどいこと、しない?」
〈当然〉
「そっか」
 ジオファーダの顔が晴れやかになる。彼は握手を求めるように、ルエンスに右手を差し出した。
「ぼく、ジオファーダ! これからよろしくね、るえんす……ルエンス!」
 こうして、二人の間に絆が結ばれた。
 リュブド、ルエンス、ジオファーダ。未来、この三人は、シエンルの歴史を大きく動かすことになる。


 ルエンスが完全に回復すると、リュブドはルエンスをこれまでの役から外した。
〈……僕では、不満ということですか〉
 失望の表情を浮かべたルエンスに、違う違うとリュブドは否定する。
「おぬしは非常に物知りで頭が良く、さらにジオに信頼された。そこでじゃ、おぬしにジオの教育係を任せたいと思ったのじゃが、いかがかな?」
〈…………〉
 声を持たないルエンスには、己の意思を伝える手段は文字しかなかった。だからルエンスはひたすら本を読んで知識を貪欲に吸収し、必死で自分を表現したのだ。まだ十六にしかならないルエンスがこうしてリュブドの腹心でいられる理由の一つには、彼の知識量の多さと頭の良さが起因する。
 黙り込むルエンスに、リュブドは彼を説得しようと話しかける。
「私は王じゃ、いつまでもジオのことばかりに関わってはおれぬ。しかしジオは次に王となるべき人物で、しかるべき教育を受けねばならぬ。それで色々と考えたのじゃが……適任はおぬししかいないのじゃよ、ルエンス」
〈……承知致しました〉
 手帳に青い文字が綴られる。
〈でもたまには事務仕事を回して下さい。でないと頭が鈍る〉
「たまにはの。ま、無理せんようにな」
 無理しがちなルエンスには、リュブドも慎重に対応する。
〈で、僕は何をどうすれば良いのですか〉
「午前はジオに地理や歴史、王族としての作法や常識を教えてほしい。午後はあの子の傍にいて見守ってやってくれ。——要は、一日中あの子の近くにいて、あの子のお守りをしてほしいのじゃ。命ずるは、それだけ」
 ルエンスは承諾の意をこめて、頭を下げる。
〈……御意〉
 ジオファーダの周囲の環境は、変わり始める。

【第一章 人間になるために 終】