複雑・ファジー小説

Re: 少女の香は花に似ている。 ( No.4 )
日時: 2018/07/05 10:11
名前: 片谷天晴 ◆nqpaN7kCns (ID: EM5V5iBd)

 母なる宇宙、内海の温もり、振動、振動、夢、呼吸。

 僕らはまちがいなく、甘く艶やかな夢を見て、守られていたはずなのに、いつの間にこんなに恐ろしい日々に身を委ねていたのだろうか。喧騒、雑踏、繁栄、反逆。僕らの手に余るネオンは、いつだって淡々と致命傷を残そうと狙っている。狭い六畳一間の世界は蒸し暑くて、ラジオから聞こえる時報が、また現実を引き連れてやってくる。苦しみからの、解放。昼のニュースでは、表情を忘れたニュースキャスターが人身事故を告げる。勢いよく啜ったラーメンの汁にむせて、むせて、ああ、なんていうか、生きてしまっているなぁ、なんて虚しさを吐き出す。
 母が亡くなったのは、僕が15歳の夏だった。信号無視のトラックに轢かれて、弾き飛ばされた先で右折車に轢かれて、あっさり死んだ。ズタボロになった母を見て僕は、自分の還る場所がなくなったのだと悟った。それは、遅すぎるかもしれない自我の芽生えとも言えるのかもしれない。
 ぱき、と音を立ててシャープペンの芯が折れる。書いて、消して。真っ白ではないくせに、一文字だって書かれていない原稿用紙を前に小さく唸る。壁に飾られた賞状が、急かすようにこちらを見ている。楽しかった。昔は、自分の考えた物語が、自分の言葉で紡がれるだけで楽しかった。誰に褒められるわけでもなく、それでも楽しかった。15歳の時、誰も知らないような小さな文学賞で、小さな賞を取った。母はそれを喜んで、「あなたにこんな才能があるなんて、知らなかったわ」と言いながら、額縁に入れた賞状を和室の壁に掛けた。才能。才能?そうか、これは才能なのか。まだ幼さの残る僕は自覚する。なら、もっと、きちんとしたものを書かなければ。その後すぐ母が死んで、それで、3年が経った。文章を書くことへの楽しさはいつの間にか消えていて、還る場所もなくなって、僕はそこでようやく自分が「大人」になったことに気が付いた。あれは才能ではない。無垢だっただけだ。欲の出た僕には、もうあの文章は書けない。還るところのなくなった僕は、二度とあの日に帰れない。そのことに気がついてしまった僕は、もう子供には戻れないのだ。
「さよなら、僕」
 額縁を外すと、目の前が少しだけ揺らいだ。涙が出た。鼻水も出たので、きっとこれは埃のせいなのだ。