複雑・ファジー小説
- Re: 飛んでヒに入る夏の虫 ( No.1 )
- 日時: 2020/04/28 15:22
- 名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)
#01 陽炎/カゲロウ
7日目。
拝啓
恥の多い生涯を送ってきました、なんて。有名な書き出しを真似してみる事しかできない私を、あなたはどう思うでしょう。
ありがちな事しか綴れないけれど、よくあるやつです。
“あなたがこれを読んでいるとき、私はもうこの世にいないでしょう”
そう。遺書です。迷惑を承知でこの手紙をあなたに遺そうと思います。逝ってしまう私を、許してほしいとは言いません。私はあなたに恨まれ、罪の意識を背負う覚悟なんてありません。だから死ぬのですから。臆病で、挑戦よりも逃亡を繰り返してきた私だから。
そもそも、私が何故この手紙を君に宛てたか。それは言ってしまえば君に対して抱いてきた「名前のない感情」によるもの。
何だそれは、と思うでしょうが、その名の通り、既存の言葉では表せない感情です。
私は君が好きでした。でも、恋のように甘く酸っぱく苦い、なんてものではありません。味で表すならもっと苦々しい、とても飲み込む事のできない激しい感情。苦くて辛い、何よりも痛々しい。蛇みたいに心の奥でとぐろを巻いて、のたうち回っては私の気持ちに荒波を立たせて、どうにも無視することができない。愛おしいのに、狂おしいほどの嫌悪とも相違ない。それを恋などとは呼べやしない。
そう、私は君のことが大嫌いでした。
3日目。
蝉の声が煩い。
肺いっぱいに吸い込んだ空気はムワッとした熱気を孕んでいて、肌に纏わり付く温度同様に気持ち悪い。照り付ける日差しに焼き焦がされて、皮膚は痛いくらいだ。俺は額に滲んだ汗を拭いながら、炎天下の住宅路を進んでいく。
8月の日差しは、人を殺すためにあると思う。制服のワイシャツが汗で肌にくっついて気持ち悪いし、そろそろ目眩がしてきたし、こんなの人間が出歩ける気温じゃないだろう。
そう思うくせに、俺は態々クーラーで冷やされた自宅から出て、直射日光に殺されかけながら、フラフラと道を歩く。生ける屍。リビングデッドみたいだ。でも俺はまだ死んでない。死にかけの生者だ。真逆の存在だった。死にかけの生者って英語でなんて言うのだろう。リビングデッドの真逆なら、デッドングリッビとか。
……残念ながら、これでも英語は得意科目のつもりだったのだが。高校3年生、日暮 禅(ヒグラシ ゼン)、こんな事で大丈夫だろうか、大丈夫である筈が無いだろう。もう駄目だ。国語の成績だけがいいのが取り柄なのだけど。灼熱の太陽に頭をやられて、全体的な機能が駄目になっているように思う。
俺が目指していたのは、駅から徒歩20分程度のところに位置する大きな病院だった。比較的健康な少年として育った俺には、殆ど無縁の場所で、あの日、彼女に出会わなければ、これからもずっと無縁になる筈だった。
病院内に入った途端、温度が変わる。煩かった蝉の声も止んで、火照った体を冷たい空気が包んでいく。別世界みたいだ。本当に、別世界みたいなものだと思う。ここには沢山の死んじゃうかもしれない人とか、生きたくても生きられない人がいる。死にたくてここに来たあの日の俺は、その人たちを愚弄してるみたいだった。
階段を上がって行って、彼女の入院している病室へ向かう。
部屋の扉を軽くノックしたけれど、返事は無い。
「ケイ、俺だよ?」
返事は無い。寝ているのかも知れない。だとしたら、寝ている女の子の部屋に勝手に入るのってどうなのだろう、と迷いが生じる。この病室、1人部屋なのだ。寝ている女子の1人部屋に入ろうとする18歳男子、という字面が結構危ない感じがする。
帰ろうかと思って病室から離れかけたが、家から駅まで5分歩き、電車に乗り込み、1つ隣の駅で降りて、20分かけて此処までお見舞いに来た。その労力を思うと、簡単に帰るわけにもいかないだろう。
「入るからね」
小さく声をかけ、意を決して横開きの扉を開く。
白い病室の中、白いカーテンが風に揺れていて、廊下よりも少しだけ温い空気が肌を撫でた。窓を開けっ放しにしているせいで、冷気が逃げてしまっているのだ。
白いベッドの上には、白いシーツと布団が綺麗に畳まれていて──ケイの姿は何処にもない。彼女のいるべき空間は、空っぽだった。
白に囲まれた病室の中、窓際の花瓶の中にあるオレンジの色彩が、やけに異質に見えた。ケイが好きな花。マリーゴールド、というらしい。小さな太陽のような花だと思ったことがある。
外出しているだけかもしれない。しばらく待っていれば、帰ってくるはず。俺はそう思って、ケイのいない、空っぽのベッドに腰掛けた。窓の外から蝉の声が喧しい。
20分は経ったか。待っても、待っても、ケイが帰ってくる気配はなかった。窓の外からジイワジイワと鳴く声が煩くて、窓を閉めようかと思った。
ふと、マリーゴールドのオレンジが、視界の端を掠めた。白い病室の太陽のように咲き誇る、その一輪。
俺は花の茎を指先で摘んで、ぐっと力を入れた。そうすれば、簡単に折れてしまう。圧し折られたマリーゴールドは情けなく項垂れて、その姿を見ていると、少しだけ清々しく思えた。
ケイがこれを見たら、怒られてしまうだろうか。俺よりも、こんな植物を気にかけるのだろうか。ケイならそうするかもしれない。
俺の気持ちなんか、全然知らないから。
その花の本体がなければ、俺がマリーゴールドにしたことだってなかったことにできる。花瓶から取り出したマリーゴールドを窓の外に放り捨てて、窓を閉めた。途端に喧しかった声も止んで、病室内はクーラーのフィルターの音だけが満たしていた。
俺はもう少しだけ待ってみようと、スマホを弄りながら時間を潰していたが、突然、通話が掛かってきて、肩を震わせた。
源氏 蛍(ゲンジ ケイ)……。期待した彼女の名前では無くて、薄羽 秋津(ウスバ アキツ)とかいう、根暗の引き篭もり男の名前が表示されていて、なんとなく腹が立ったので、無視してやることにした。
アキツの事はよく知らないが、ケイの幼馴染らしくて、しょっちゅうケイとも仲良さげにしていて、あまり好きじゃない。悪いやつではないのだろうから、これは俺自身に問題がある。そうはわかっていても、心が認めることを拒むから、アキツを受け入れることは難しかった。
ケイの帰りを待って、スマホで動画でも見ながら時間を潰そうとする。時間を潰すためだけの、本当に下らない内容の動画を眺めて、何が楽しいのかもよくわからない。対して興味の無い、無駄にキラキラした食べ物の紹介動画だった。表情も変えずに画面を眺めていると、動画が突然止まる。
──着信。薄羽 秋津。
変に腹立てて無視したのに、まだ電話をかけてくるなんて、何の用だ。若干の苛立ちを感じつつも、無視するのも面倒になって電話に出た。
『……ゼン、』
「何の用だよ、俺忙しいんだけど?」
『ごめん……』
適当な俺の嘘に対して、電話口から聞こえてくる声は虫の羽音みたいに弱々しかった。それも少し、俺の精神を逆撫でする。でも、用があるからこうして電話をかけてきたのだろうから、とりあえずアキツの要件を聞くことにする。
『……』
「……」
『……えっと』
「いや、早く言えよ」
アキツは電話を掛けてきたくせに、話がまとまってないのか、しばらく切り出せないでいた。もう切ってしまおうかとも思ったが、アキツがまともに喋れないのはいつものことなので、黙って耳を澄ませる。
『僕の家に、来て欲しいんだ。渡したいものが、あるから』
「なんでよ。俺今、ケイの病室にいるから、お前が来たら?」
アキツの家は電車を幾つか乗り継いで、更に駅から15分近く歩かなければならなくて、単純に行くのが面倒で、そういうふうに返した。
電話口の向こうで、息を呑むような微かな呼吸が聞こえた。
『ケイ、いるの?』
少しだけ、震えた声。なんだか、怯えているみたいに聞こえた。それを不思議に思って首を傾げつつ、俺は短く「いないけど」と返答する。
『そう。そっか……』
今度は、雪のように儚く消え入りそうな声。瞬間、何故か胸騒ぎがした。
「なあ、ケイとなんかあったの?」
俺の質問に、アキツは答えなかった。否定さえしないということは、肯定とも捉えることが出来る。渡したい物がどうとか言っていたことと関わりがあるのだろうか。
俺は通話を切って、ベッドから立ち上がった。
渡したい物があるなら、お前が会いに来い。そう、思う気持ちもあるのだが、アキツは高2の夏辺りからずっとひきこもっていて、学校にも顔を出してなかったから、無理もないのかもしれない。春の始業式には来たらしいが、終業式には来なかったし。
御見舞にきたのに、ケイもいないし。仕方なく、俺は病室を後にした。
去り際に一度、ケイのいない病室を一瞥する。真っ白な空間は、何の色彩もなくなって、やけに質素に見えた。