複雑・ファジー小説

Re: 飛んでヒに入る夏の虫【8月完結予定】 ( No.10 )
日時: 2020/08/12 11:52
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

 1日目。

 今日から夏休みが始まった。明らかに浮かれているクラスメイト達や、それを注意する教師たちを横目に見て、俺には関係ないって帰り道を1人で歩いた。そうして、学校の帰りにケイの病室に寄る。
 ベッドの中にお行儀よく収まっている彼女の姿は、どこか頼りなくて、顔色も一層悪く見えた。見てわかるほどに、日に日に衰えている。だから、今しかないって思ったんだ。

「ケイの体、良くないんだろう」

 病室に入って第一声がそれだった。少し気分を悪くしただろうか。ケイの様子を窺うと、その大きな瞳を更に見開いて、俺を見ていた。
 驚いた様子だったけれど、ケイは口元を綻ばせて、どこか諦めたみたいに笑う。「まあ、ね」と短い返事をして、残り少ない自分の命の期限について思考する。考えたって変えられるわけじゃない。どう足掻いたって、きっとこの夏休みの終わりに、ケイはいないだろう。
 だから、決めたのだ。

「じゃあ、この夏にしよう」

 1年前に彼女は俺に言った。一緒に死のう、と。彼女との心中を支えに、俺はこんな人生に耐えてきた。君と死ねることだけが、俺を支えていたと言っても過言ではない。ただそれだけを夢に見続けていた。

「今年ってさ、平成最後の夏って言われてるんだよ。だから、本当の意味で最期の夏にしようよ」

 最高の終わりを、共に迎えよう。
 そうやって、ケイに右手を差し出した。彼女はそれを風景みたいに眺めて、もっと何処か遠くを視線を漂わせる。
 俺の手を、取ってはくれなかった。

「……考えておくね」
「考えておく、て。そんな悠長なこと言ってられないんじゃないのか」
「大丈夫。わたしの体だよ、どれくらい保つかくらい、わかってる」

 もうどれだけ時間が残されていないかも、理解していると。暗にそう言っていた。
 ケイには時間がなかった。それは俺の想像よりずっと追い詰められていたのかもしれない。こうして普通に言葉をかわし合うことすらも、苦しかったのかもしれない。ケイはそれを悟らせないように、気丈に振る舞っていて。
 だから、俺は置いて行かれてしまったのだろうか。

「わかってるから。ちょっとだけ準備の時間をちょうだい」

 君の弱々しい微笑みを、そのときは信用した。本当に終わるときは、俺達一緒になれるのだろうと、信じて疑わなかった。約束が破られるものだなんて、裏切られたその瞬間くらいにしか気付けないだろう。

「うん。一緒に死ねる日、楽しみにしてるからさ」

 なあ、どうして。ケイは俺を裏切ったんだよ。


 6日目。

 病院の屋上で、ひたすら夜を待っていた。食欲なんてなかったから、今日は何も食べてないし、そういえば何も飲まなかった。体が本当の意味で空っぽになっている気がする。俺には元々何も詰まってないけれど。
 スマホの時間を確認すると、23時を過ぎていた。余命は1時間を切った。ほんの少しだけ、緊張しているのがわかる。怖い、というよりは、もっとふわふわした感じ。大舞台に立つ前の高揚感とか、大事な試合でのサーブをする瞬間とか、そんなものに似ているかもしれない。
 まるで、これから偉大なことを成し遂げようとしているような、そんな面持ちだった。
 死ぬ、というのはそんなにだいそれたことではないかもしれない。でも、俺の一生の中で、一番輝く瞬間。何より瞬く恒星になる、運命の一瞬なのだ。

 俺は鞄の中に仕舞い込んでいた三つ折りにした遺書を取り出す。夜風に攫われて仕舞わぬように、大切に持って。
 自分で見返してみると、何だか気恥ずかしい。初めは自分ではない誰かになりきったつもりで書こうとしたから、一人称が所々ぐちゃぐちゃになった、支離滅裂な文章。独白なのか、告白なのか、何を伝えたいのかもわからない散文。誰に何を伝えたいのかも不鮮明で、遺書というにはあまりにも抽象的な世界観がある。
 読み返して、何だこれと笑う。俺は何を残したかったのだろう。本当に全部を伝えたかった人はもういないから、ここに書き殴った感情の全てが無意味に散らばっている感じがする。

 スマホで時間を確認する。23時56分。そろそろだ。
 遺書が風で飛んでしまわないよう、鞄の下に敷いて、それから靴を脱いだ。いつもは揃えもしない靴を、その時ばかりはきっちりとかかとを合わせて、屋上の隅に置く。
 裸の足でフェンスを踏みつけると、ちょっと尖った部分が当たって痛かった。
 よじ登って、少し視線の高くなったところから地上を見下ろす。夜の街灯が煌めいていた。空の星には劣る光だが、最期に見るには悪くないなんて思う。

「…………、……」

 心臓が高鳴った。ここから見える風景の中に飛び込んで、全部が無に還る。そのための一歩が、どうにも重たい。泥濘から俺の足を引っ張ってるみたいに。
 アキツはもっと簡単そうに落ちてみせたのに。なんでかな。
 息を吸い込む。心臓を飲み込むみたいに、落ち着けようと必死になる。

 ……そのとき、急にアキツが最期に口にした言葉を思い出した。

「人生には、死と同じように避けられないものがある。それは生きることだよ」

 あの瞬間。生きることから逃げ出したのは、そっちの方なのに。俺には逃げるななんて、身勝手なことを言ったのだ。
 なんであんなことを言った。まるで俺にだけは、死んでほしくないみたいに。俺だけ生きたって、仕方ないじゃないか。もう、取り残さないでくれよ。なあ。
 嫌だ、俺は死にたいんだ。ケイに逢いに逝くのだ。アキツと同じところに逝くのだ。

 死んでやるって、決めたのに。
 死ねば楽になるって、わかるのに。
 ああ。なのに。

 なのにどうして。

 足が、竦むんだろう。