複雑・ファジー小説

Re: 飛んでヒに入る夏の虫 ( No.3 )
日時: 2020/07/10 06:15
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)


 彼から掛かってきた電話を言い訳にしたのか。それとも彼女がぼくに託した紙切れ1枚を理由に逃げたのか。どっちもだったかも。自室の床に転がりながら、首に巻き付けたままだった縄をどうしようかと考えていたら、解くのも億劫になったので、そのままにしておいた。
 薄羽 秋津(ウスバ アキツ)という人間は、そんなやつだ。逃げる理由や辞める理由や諦める理由ばかり探して、そうやって結局、今までなんとなく生命活動を続けてきてしまったのだ。

 ケイとゼンが1年後心中計画を立ててから、その1年が経過していた。ケイが「アキちゃんもどう?」と誘ってくれたので、興味本位で一緒に死ぬことになって、それとは関係なしに日々死ぬ努力をしていたぼくは、今日も首に縄を巻いてみたわけだが、まあ、死ねなかった。

 手元の茶封筒に視線を落として、ぼくは肩を落とした。今思えば、心中計画に誘ったのも、この手紙をぼくに託したのも、ケイなりにぼくを陽の下に連れ出そうとしていたのかも知れない。病院のベッドに縛り付けられたままの彼女としては、元気な体があるくせに家に引き込もるぼくが、気にくわなかったのだろう。
 ぼくだって、好きで外に出ようとしない訳ではなかったのだけど。
 でも、このまま何もしなければケイ、怒るだろうなあ。
 ケイがぼくに託したのは、キッカケだ。逃げる理由を作るのは簡単だが、挑戦のキッカケは自分では作れない。だって、作ることからも逃れようとするから。
 時間の感覚が曖昧になった体が、果たして電子音1つで動けるようになるかは疑問だったが、取り敢えず。取り敢えず、目覚しをセットしてみる。既にデジタル時計が1桁の数字を表示する真夜中。起きられなかったらその時はその時だ。起きられたら、その後の事は、その時の気分次第だ。そういうわけで、布団に潜り、目を閉した。


 4日目。

 蝉の声が煩い。
 ──飛んで陽に入る夏の虫。とでも呼べばいいだろうか。前髪がやたら長い癖毛の歩行型のもやし。何故か首に縄が巻き付いている。そういうファッションなのか。ケイに写真を見せてもらったことはあるが、実物の歩行型もやしを見るのは初めてで、俺は驚きを隠せなかった。
 夏休み4日目の朝、鳴り響くインターホンに反応して戸を開けると、家の前に薄羽 秋津が立っていた。

 長きに渡る引きこもり生活のせいで病的に白く細い四肢は正にもやしで、まだ午前中と言えど30度を越す直射日光の中、こんなのがいると不安になる。顔色は青ざめている気もするし、既に熱中症にでもなっているのではないだろうか。

「……え、よく外出れたな……え? お外出て大丈夫なの、お前」
「何年ぶりに陽の下に出たか、分かんない」

 1歩歩み寄ってきて、アキツは1つの細長い茶封筒を差し出してきた。その足取りが不安定で覚束無いものだったのが気になったけれど、それよりも俺の意識は、差し出された茶封筒の表面に持っていかれる。

「これ、ケイの遺書」

 夏休みが始まると同時に、心中計画の話を持ち出したから、それにあわせて書いたのだろう。ヒョロっとした丸文字でわかりやすく“遺書”と書かれている。

「お前、引きこもりなのによく外出てきたな……。渡したいものってこれだったのか? 俺が今日取りに行こうと思ってたのに。ていうか、なんでお前がケイの遺書を俺に渡すの?」

 よく考えたらおかしい。それに気付いたのは、なんで、とアキツに疑問を投げかけてからだ。
 どうしてコイツがケイの遺書を持っていて、しかも本人に返すのではなく俺に渡したがったのか。それも、何年も引きこもり続けた男が、態々外に出てきてまで。病院までの距離と俺の家までの距離は、そんなに変わらないはずで、この男が外出をするという異常事態を説明する理由が、想像つかない。

 途端に、なんだか気持ち悪くなってくる。蝉の声がやけに煩い。
 説明を求めて見つめたアキツの表情は翳っていて、少しだけ言いづらそうに、モゴモゴと口を開いた。

「一昨日、ケイに、わたしが死んだらゼンにも見せてあげてって言われて。ぼくに渡してきたんだ」

 一昨日というと、夏休み2日目。俺が心中計画の話を切り出した次の日だ。
 アキツは更に言いづらそうにしていたように見えたが、顔を俯かせたまま、静かな声で言う。










「ケイ、昨日死んじゃったんだ」

 蝉時雨が止む。
 酷い目眩がして、一瞬空の青と植木の緑とコンクリートの灰が綯交ぜになって、足元が揺れた。

「は?」
「飛んだんだよ。駅のホームから、線路に。そうやって死ぬつもりなんだって、ケイ、笑ってた」

 吐き気すらした。
 急に、全てのパズルのピースが噛み合ってしまった。昨日のこと全部に、答えが出る。だから彼女は病室に居るはずなんか無くて、だから電車は止まって。昨日盗み聞きした他人の声が脳裏に過る。「めっちゃ血ついてるじゃん」ケイの生命の色が。「こっちの人は轢いた電車の中にいたらしいよ。ゴリゴリゴリって、やばい音したって」ケイの生命の音が。車輪に巻き込まれて、激しく撒き散らして、引き摺られて、ぐちゃぐちゃに、粉々に。磨り潰された。
 立っていることが難しくなって、重心が振れる。

「なんで」

 玄関の壁に手を付いて、倒れそうになるのをなんとか持ち堪える。それから、佇むアキツの顔を睨み付けた。

「なんで止めなかったんだよッ!?」

 感情のやり場がわからなくなって、アキツにぶつける。睨まれたアキツは、ビクリと肩を震わせて、1歩、後退った。
 そうだ。遺書を渡された時点で、アキツにはケイを止めることができたのに。こいつは昨日何もしなかった。ケイが死んだのはこいつのせいだ。ケイは、こいつに殺された。
 アキツは俺と視線が合わないように、顔を俯かせたが、それでも困ったようにボソボソと反論する。

「……止めなかったって。それ、変だよ。どうせケイは病気で、この夏休みが明ける頃まで保たなかったじゃないか。どうせ死ぬじゃないか」

 瞬間、頭に血が登る感じがして、俺はアキツに掴みかかっていた。もやしみたいなアキツは、その衝撃に耐える脚力も無く、後方に俺ごと倒れ込む。触れたアスファルトは陽の光に焼かれて熱かった。

「そうじゃねぇよ! ケイは俺がッ、俺と一緒に死ぬんだ! 俺がケイを殺してケイが俺を殺すはずだったんだ! 一緒に死ぬって約束したんだ! ケイが俺を置いていくわけ無いッ……約束して、1年待って、やっとって思ってたのに、これから一緒に死に方考えたかったのに、なんだよ、電車? そんなものがケイを奪ったのかよ、ケイは俺に殺されたかったんじゃないのかよ、なあ、そうだろ。ケイ。ケイは、俺の……太陽なのに」

 いい年こいて、泣きそうになる。アキツはそんな俺をぼんやりとした表情で見上げていた。

「ゼンには、ケイのことが見えてなかったんだよ」

 俺の体を押し退けて上体を起こしながら、アキツが言う。一瞬何を言われたのかわからなくて、俺はただアキツの横顔を凝視することしかできなかった。

「ケイも、ゼンのこと、見てなかったんだ」
「お前にっ、お前に何がわかんだよ……!?」

 アキツは、覚束ない足取りで立ち上がって、俺を見下ろした。束の間、夏の暑さが分からなくなってしまいそうな程、冷たい目だった。

「知らない。でも君らは同じ方向を見ていただけ。向き合ってないと、見えないものもあるんだよ」

 その声色すらも冷え切っていて。
 地面に落ちたケイの遺書を見る。感情に任せてアキツに掴みかかったとき、落としたらしい。少しシワがよって、砂がついてしまっていたので、そっと手に取ると、軽く払った。

「わかるのは、ケイがもう、死んでることだけだよ」

 すぐ側にジジッと声を上げながら、蝉が落ちてきた。しばらく、また飛び立とうと藻掻いていたが、そのうち動かなくなってしまった。


#01 陽炎/カゲロウ 終