複雑・ファジー小説
- Re: 飛んでヒに入る夏の虫 ( No.5 )
- 日時: 2020/07/23 10:58
- 名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)
4日目。
あの後、アキツが中々立ち上がろうとしなくて、「気持ち悪い、吐きそう」とか言い出すから、取り敢えず俺の家で休ませてやることにした。引きこもり生活が長くて突然炎天下の中出かけたら、そうなっても仕方が無い。
エアコンで冷やされた部屋で、アキツに冷たい麦茶を渡してしばらくしたら、大分顔色も良くなってきたように見えた。
その間、俺はケイの遺書に目を通して、言葉を失っていた。何度も読み返して、息が詰まる感じがして、なんだか海水に溺れているみたいだって思った。水面を見つけられずに、泡に呑まれて、沈んでしまうような錯覚。それもこれも、いつの間にか頬を伝っていた涙の味が原因か。
「ケイじゃない」
こんなのは、ケイじゃない。字体が違うし、ケイはこんな事思わない。彼女は思い通りに動かない自分の体を嫌っていたかも知れないが、誰かを恨んでなんていなかった。人に頼らないと生きられないことに罪悪感や悔しさはあったと思う。それで自己嫌悪に陥って、いつも苦しそうに笑っていた。でも、それだけだ。
彼女が嫌っていたのは自分自身であって、世界ではない。
じゃあ誰がこんな物を書いたのか。
紙を握る手に力が篭って、くしゃりと音を立てた。
「アキツ。コレは誰から受け取った?」
俺の声が、明確な怒気を孕んでいた。
麦茶の入ったグラスを片手に、ソファに腰掛けたままぼんやりしていたアキツを睨みつける。
アキツは緩慢な動作でグラスを口に運び、中身を飲み干してから、短く答えた。
「ケイ」
「嘘だ」
呆れたような視線が俺を射抜く。
「……現実見なよ」
「お前こそ、嘘付くなよ」
アキツは眉を顰めて俺を見つめたまま、小さく溜息をついた。
「うーん。ゼンがぼくを信じたくないなら、それでもいいよ。じゃあ、ゼンの思う真実って何?」
一瞬、俺は視線を下げる。
「お前がこれを書いて、ケイは自殺なんかしてなくて、」
「それはゼンにとって都合良すぎない? 世界は君中心に回ってるわけじゃ無いんだから」
アキツは「烏龍茶ご馳走様」と言いながら、空になったグラスを机に置いた。
「それ、麦茶だし」
「ああ、麦茶か。いや、そんなことはどうでもいいんだよ。とにかくさ、ケイの自殺は、線路に飛び込んだ死体を検死だかなんだかすれば確定するし、ぼくの字はもっと綺麗だし。君の妄想はただの妄想。だからゼンには、ケイのことが見えてなかったんだって」
歯を食いしばって、必死に言い返す言葉を探すが、中身のない暴言ばかりが浮かんで、泡沫のように爆ぜては消える。
やっと声にした言葉は、妙に弱々しく口から零れていった。
「なんだよ、分かったような口聞きやがって。じゃあお前には見えてたのかよ」
「ううん。見ようとも思わなかった。それでも何となく視界に入っちゃう部分だけ、見ていたと思う」
アキツは淡々と言葉を紡ぐ。床に視線を落としたまま、何処か遠い目をしながら。
「ケイは多分、生きたかったんだと思う。じゃなかったら、1年前君が死のうとしたのを止めて、君に一緒に死のう、なんて言わない。ひとりで死ぬのが怖かったから、ゼンに1年待ってって。一緒に死のうって言ったんじゃないかな」
「じゃあなんで、昨日、先に逝っちゃったんだよ!」
「知らない」
口を半開きにしたまま、俺はアキツの顔を凝視した。俺よりもケイのこと理解しています、とでも言いたげに話したくせに。急に突き放すみたいにそう言った。
感情のやり場が分からなくなって、俺は思わずアキツの胸ぐらをつかんでいた。
「馬鹿にしてんのか、」
「それ、やめてよ」
氷のように冷たい声。一瞬、アキツに言われたのだと気付かなかった。アキツは俺の手を払い除けて、睨みつける。
「ゼンって、もしかしたらぼくの嫌いな人種かもしれないね」
俺が掴んだところを守るみたいに自分の手で覆って、アキツは顔を俯かせた。それから低い声で、ボソボソと喋りだす。
「ぼくが外の世界が嫌になっちゃった理由。いじめなんだ。今のゼンみたいに、大きな声で脅してきて、大人数で暴力振ったり。お金を取られたこともあった。ものを壊された事もあった。プールに突き落とされたりもした。カッターで腕を削られたこともあった。ぼくの態度が気に食わなかったんだってさ。馬鹿みたいに毎日、人を玩具みたいに扱って、暴力と罵声で服従させて、ぼくが嫌がるのを見るのが楽しかったんだって、ぼくはただ普通に生きてただけなのに、成績が良かったからムカついたとか下らない事言っててさ、ぼくの生きるのを邪魔して、あいつら、流石にムカツイたからさ、やり返したんだ、殺しても全然死なないでさ、」
「アキツ……」
「ほんっとにしぶとかったよ、ぼくにしたことを同じようにやり返してやってそれだけじゃ足りないから、殺してやろうとしたのに全然死なないの、でもいい気味だったよ、虫けらみたいに藻掻いてさ泣き喚いてね、当然だよ今まで自分を人間だと勘違いしてたんだよあいつら馬鹿みたいだよね、でも」
「アキツ!」
名前を呼びながら肩を掴むと、電池の切れた機械のように、急に静かになった。「ごめん」と口にしたアキツの声はか細く掠れて、辛うじて聞こえた程度のものだった。
「俺の方こそ、なんも知らなかった。俺とは“逆”なんだな」
アキツは少しの間俺の目を見ていた。俺の言葉をどう取ったかは知らないが、ただ、黙ったままだった。
「……ケイのこと、ちゃんと見てあげなよ」
アキツがケイの遺書を押し付けてくる。
受け取った指先が震えた。
「見たく、ない」
このケイの存在を認めてしまえば、俺は何処にもいなくなってしまう。この遺書を肯定すれば、俺が否定されてしまう。
「こんなの、知らない。誰だよ、誰が書いたんだよ。俺の知ってるケイは、何だったんだよ。俺、ケイのために生きてきたのに、なんで、置いて逝くんだよ」
声が震えた。喉の奥がチリチリと熱い。また強く握り締めてしまった遺書がクシャリと歪む。そこにぽつり、水滴が落ちて、文字が滲む。目を瞬かせると、頬をなぞって滴が溢れてゆく。
アキツが少し動揺した様子で声をかけてきた。
「えっと、ゼン……」
顔を上げる。アキツの顔が霞んでいた。
「あの、ほら、一緒に死のう? 大丈夫、魂は49日くらいはまだこの世界に留まってるんだって。だから、大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか。何が悲しくてこんな奴と共に死ななければならないのか。
「一緒にいこう。ケイに会いにいこうよ。ね?」