複雑・ファジー小説

Re: 飛んでヒに入る夏の虫 ( No.6 )
日時: 2020/08/22 17:02
名前: 今際 夜喪 (ID: uFFylp.1)

 7日目。

 私は君と出会ってから初めて人生を歩みだしたのです。君が色を与えてくれてから世界を知った。君を愛して初めて喜びを知った。君を恨んで初めて悲しみを知った。ずっと本当は寂しかったのかもしれない。それに気付いたのも、君を知ってからだ。
 君を知らなかったら私は、ずっとずっと、言い様のない、不定形の寂しさを引き連れて今も歩んでいけたのかもしれない。あの日、飛ぶ勇気等、本当はなかったのだから。
 でも、そうはならなかった。君を知り、私は初めて生きた。
 
 この激しくのたうった感情と折り合いを付けて、結果私は死ぬことにした。
 「名前のない感情」に、名前が与えられてしまう前に、私は「名前のない感情」を独り占めするために、逃げ出したかったのだ。
 君に抱いた、君だけに抱いた私の気持ちを、誰にも理解させるものか。君にさえ、理解させたくはない。この苦しみが君だというなら、私は敢えてそれに呑まれてしまおう。そう思ったのだ。
 
 俺は、とても不器用に生きてきた。君と出会う前の無色な人生なんて、否定して無かったことにしたいくらいに、なんにも無かった。
 勿論友達なんかいなかった。いたのは僕の妄想の中だけ。イマジナリーフレンド。君によく似た明るくて優しい女の子がいた。ただ、物心付いたときには消えてしまう。その程度の存在だった。私の妄想なんだ、その程度に決まっている。


 4日目。

 しばらく俺達は黙ってソファに腰掛けていた。高3にもなって泣くことになると思わなかったが、一度思い切り泣くと、なんだか憑き物が落ちたような感覚になる。冷たい麦茶を飲むと、体の奥底から冷やされて、心地よかった。ようやく落ち着いてきたので、ずっと気になっていたことをアキツに訊ねた。

「そういえば、その首に巻いてる縄は何だ?」

 ああこれ、と呟きながらアキツは自分の首元に触れる。そうして縄の両端を軽く摘むと、俺に差し出すように向けてきた。

「自分で死のうとしたら、うまく行かなかった」

 目を剥く俺の様子を窺って、アキツは小さく微笑むと、またあの冷えきった声で言う。

「ねえ。ゼンには、ぼくを殺せる?」

 人を、殺す。考えたこともなかった。だって、殺人は悪いことだから。どんなに恨めしいやつがいたって、生きる上での障害がいたって、殺すことなんて想像つかなかった。
 今、アキツは俺に殺されようとしているのだろう。自分にできるだろうか。死にに行く前に、人1人くらい殺したっていいのかもしれない。俺はアキツの首に巻き付いていた縄の両端を引く。途端に首に縄が食い込んでいって、アキツが顔を歪める。
 潰れた蛙みたいな声を上げたアキツが、俺を突き飛ばしてきた。思ったより強い力で、俺は縄を手放して床に仰向けに転がった。

「ッてぇな!」
「こっちの台詞だよ!」

 怒鳴った俺に、首に巻き付いていた縄を床に叩きつけながら、アキツが言い返してくる。確かに、縄が擦れて痛かったのだろう。でも、そんなこと気にしていたら、死ぬことなんてできやしない。
 俺は口をとがらせながらボヤくように言う。

「お前が殺してくれって」
「別に、言ってない。けど、殺して欲しいとは思ってた」

 首筋に手を当てながら、アキツは床に落ちた縄を景色みたいに眺めていた。

「ぼくは、学校休んで引き篭もってる間、何回か死のうとしたことがあったんだ。でも、全部失敗してる。生きてちゃ駄目なぼくは、死ねばいいのに。世の中上手く行かないことばっかだね」
「……ホントに、そうだな」

 何もかも上手く行っていれば、俺達が死のうとすることなんてなかったのにな。声にせずに言う。
 アキツにはいじめがあって、1年引き篭もってる間、何度も死のうと試した。俺には家庭でのいざこざがあって、1年前に死のうとした。それをケイに止められて、1年待ったのだが。
 普通に、人間関係に恵まれた環境で生きられたなら、死のうなんて考えもしなかっただろうに。生まれた瞬間から、ハズレくじを引かされていたんだ。俺自身の努力じゃどうにもならない不幸の渦中にいて、どう足掻いても逃れられなかった。円満な家族の中で生きているクラスメイトが羨ましかった。友達が沢山いるクラスの中心人物が、羨ましかった。
 俺だって、普通に家に帰ったらおかえり、と言って迎えてほしい。学校に行ったら友達におはようと笑いかけてほしい。そんな当たり前のことが、当たり前に迎えられる彼らが妬ましかった。
 ああ。……なんで、こんなに上手く行かないのだろうな。考えるだけで疲れてきてしまい、溜息を吐く。

「まあ……、上手く行かないのも今日で終わりにしようよ、ゼン。ぼくらで死に場所を探しに行こ? 遠くがいいな。誰も知らないところ。そうだ、夏なんだし海を見てから死にたいな」

 アキツは少し子供っぽい顔で笑いながら、楽しそうにそう言った。

「海か。確かにいいかもな」

 白い砂浜から碧い海に繋がって、水平線と青い空の境界を思い浮かべる。自分がどれだけちっぽけな存在か、痛いほどに突きつけてくる海を見て、ちょっと波打ち際で遊んだりなんかして。夏らしいことをしてから、全部終わりにしよう。

「明日。駅のバス停に集合しよう」
「今日じゃないんだ?」

 俺の提案に、アキツは不思議そうな顔をする。

「だってお前、身辺整理とかしなくていいのか? 死んだら誰かに勝手に見られるんだぞ、全部。変な日記とか捨てておきたいし、遺書とか……は、死ぬ寸前に書きたくなったら、書こうかな」

 アキツはまだ不思議そうな顔をしている。「あ、そうだね」と口で言いはするものの、あまり共感して発した言葉とは思えない。
 どうやら、アキツは死んだあとのこととか、あまり考えてなかったらしい。それもそうだ、死んだらそれまでで、死後のことなんか確かにどうでもいいかもしれない。価値観は人それぞれだ。

「だから、また明日な。今日のうちに全部片付けるからさ。お前、1人で帰れる?」
「平気。わかったよ、また明日」

 そう言って、アキツは俺の家を出ていった。
 アキツが帰ったあとに、首に巻きていた縄を置いていったことに気付いて、そっと拾いあげる。どうするか迷ったあと、それは明日の荷物に入れることにした。当然、ケイの遺書も持っていく。
 それから、自分の遺書を書くための紙とペンも鞄に詰めた。


7日目。

 私は(黒く塗りつぶされている)悪かったから、気にしていないよ。強いて言えば、常識や現実や回避の仕方。私がおかしいってことを教えてくれなかった、両親を恨んだ。
 奴らは私に触れると穢れると言って、私を避けていた。私にとって、奴らはみんな敵だったけれど、本当に淘汰されるべきは私1人だった筈なんだ。周りを恨むことしかできない不器用な私だった。あの頃に、しっかり自分を殺せていたなら。君に出会わずに済んだかもしれないのに。私が人生において後悔していることは、小学生の時、ちゃんと死ななかったことと、君に出会ってしまったことと、生まれてきたことだ。