複雑・ファジー小説

Re: 飛んでヒに入る夏の虫【8月完結予定】 ( No.9 )
日時: 2020/08/08 18:44
名前: 今際 夜喪 (ID: Whg7i3Yd)

#03 空蝉/ウツセミ

 7日目。

 きっと君はあの日、神様だった。ああ、こんなことを言うと流石に気持ち悪いかもしれない。でも、見間違いでは無かった、直感から確信へ。君は俺の神様だった。
 偶像でも構わない。俺は君を崇拝する信者だ。
 









 でも、神様は今日、壊れた。


 6日目。

「ゼン、起きて」

 肩を揺すられて、重たい瞼をもたげる。早朝の冴えた空気が心地よい時間帯。まだ空は薄明の水色をしている。
 ああ、俺。いつの間にか寝ていたのか。
 目を擦って、辺りを見回す。波の音が近い。そうだ、アキツとふたりで岬に来て、遺書を書きながら語り合って、そうして口数が減った明け方、眠りこけてしまったんだっけ。
 あまりの眠気に、二度寝を決め込もうとする。というか、そのまま少し寝たと思う。何分か経ったらまた、アキツに肩を揺すられた。

「ほら、空を見て。いい朝焼けだね」

 ──ぼく、最後に朝焼けが見たいんだ。
 急に昨日のその台詞を思い出したから、ビクリと体を跳ねさせて、飛び上がるみたいに起き上がった。
 薄明の水色が、嘘みたいなあけぼのに染まっている。薄紅と真珠色を行き来するみたいな、見事な朝焼けだった。

「今年ってさ、平成最後の夏だって言われてるじゃん? これで、本当の意味で最期の夏になるんだなあ」

 アキツが他人事みたいに呟いてから、ゆっくりとフェンスに足をかけた。咄嗟に呼び止めようとしたが、それが野暮なことはわかっている。止めてはいけない。これが、アキツの覚悟なんだから。
 フェンスを1つ挟んで、俺達は向かい合った。なんて声をかけてよいかわからずに、ただ黙って彼の目を見る。

「不思議な感じ。なんだか足元がふわふわしてさ、このまま死ぬなんて、嘘みたいだ」
「アキツ……」

 フェンスから、彼の手が離れる。もう、少しでも重心を後ろに下げれば、俺達はさようならだ。
 向かい合っているのに、何を言えばいいかわからない。別れを告げるのが正しいのだろうか、俺は今、一番なんと伝えたい。
 喉の辺りまでせり上がった言葉がどうにも不適切で、結局はそれを声にできずに飲み下してしまう。別れが惜しいなんて、馬鹿みたいだ。
 アキツは目を細める。なんの未練もないような、その澄んだ瞳が忌々しくさえ思えた。

「ゼン。人生には、死と同じように、避けられないものがある。それはね────」

 彼が言いかけたとき、少しだけ強い潮風が吹いた。それだけのことで、アキツの体は傾げて、真っ逆さまに落ちていく。
 朝焼けに染まった海の底へ、アキツは吸い込まれていった。

 俺は声も出せずに、その一瞬の出来事をただ、見送った。スローモーションになんてならない。人の命が失われるというのに、本当に呆気なく。遠くで水の音が響いたような気がして。
 気がついたらもうそこに、アキツはいなかった。

「……110円、返してくれなかったな」

 自動販売機で買ってやったミネラルウォーター。そんなどうでもいいことを思い出して、ぼやいてみて、風の音しか返ってこなかったから。
 世界に自分だけ、独りになったような気分になった。


 7日目。

 こんな簡単に終わりが来るとは思わなかった。これからずっとずっと、縋っていられると信じていた拠り所が、硝子よりも脆く崩折れて、僕はそれを泣きながら眺めて。
 神様、君は何も悪くない。君が死んで、君の言葉を見た瞬間、僕は生きながらに殺されたのだけど、それは全て僕に非があった。信じたのも期待したのも僕なら、裏切られ、失望するのもまた僕だけでいい。
 僕はもう、君を神様だなんて思ってない。偶像拝はやめたんだ。だけど、まだ、盲信の残渣が僕の中でのたうつのだ。それこそが、君に対する盲目的な愛で、呪いで、嫉妬と恨みと懐古の入り混じった醜い「名前の無い感情」の正体。
 何処までも純粋で純情。だが、何処までも歪み捻じれ、穢らわしい。それが、君に抱く感情。
 君は神様だった。地に堕ちた。僕の中で君は死んだのだ。本当の意味で死んだ。


 6日目。

 俺は岬を離れて、バス停で待ったバスに乗り込んで、住んでいた街に戻っていた。家に帰るわけではない。アキツの最期から、少しでも距離を置きたかったのだ。
 まだ朝早い時間帯だから、一緒に乗り合わせた乗客は皆、なんとなく眠そうな目をしている。目の前で人が1人死ぬところを見た俺は、心臓の熱りが冷めずに、自分だけ場違いなくらいにいきり立っていた。
 命が失われたというのに、世界は普通に時間を流れて、空は色付いて、陽は登る。俺の気持ちなんて置き去りにして、この世は無情だ。
 でもきっと、毎日そんなものなのだろう。誰かが何処かで死ぬのは日常で、些細なことでしかなくて、どんな悲劇が起ころうが、どんな喜劇が起ころうが、世界は追悼も祝福もしない。この大きな喪失感を抱えるのは俺だけなんだ。
 バスの中で、少し皺の寄った書きかけの遺書を開く。完成させなければ。揺れる車内で書くから、字が歪に曲がる。構わなかった。それらしいことが書ければどうでも良くて。

 これは、誰に宛てているのだろう。脳裏に浮かべるのはケイの顔だ。整った顔で薄く笑っている彼女。もう逝ってしまったけれど。
 俺の世界は、ほとんど彼女に対する感情で埋められていたように思う。1年前、一緒に死のうと誓ったその日から、彼女のことばかりが俺の胸を埋めていた。なのに。
 俺は未だにわからないでいる。どうして彼女は先に死んでしまったのか。答えの出ない問いを、問いただし続けたって、不毛なだけだ。でも。なんで。どうして。疑問は止まない。
 ……君のこと、信じていたよ。世界の何よりも。
 そんなものは、俺の一方的な信仰だったらしいけれど。

 窓の外が、少しだけ馴染みのある景色に埋め尽くされ始める頃、俺はバスを降りることにした。
 朝と言えど、真夏の空気は既に暑い。早朝は鳴りを潜めていた蝉たちも合唱を始めている。
 蝉が7日で死ぬというのは嘘で、実は1ヶ月位生きるのだとか聞いたことがある。確か夏休みに入ってから今日で6日経っただろうか。
 俺は、明日死のう。なんとなく、そう決めた。真夜中の時計の針がてっぺんを指す頃、0時丁度。夜の闇に溶けるように、街の中に身を投げるのだ。
 だったら、高いところを探さないといけない。マンションとか、どこかの屋上。蝉みたいに翅を持たない俺は、体を投げ出せば簡単に死ねる。アキツとおなじくらい、呆気なく散るのだろう。

 高い場所を求めて。結局来たのは、ケイが入院していた病院の屋上だった。1年ぶり、とこの場所に挨拶をする。
 あの時と違うのは、ここで待ち続けていたって、俺を止めてくれる声がかかることは無いという部分だ。あの日、あの時。気まぐれにやってきたケイが、俺に話しかけて。一緒に死のうと言ってくれて、だから俺は1年待って。
 屋上のフェンスに指を絡ませながら、振り向いてみる。誰もいない。わかっているのに、あの日の幻想に囚われ続けるみたいだ。

 ねえ、ケイ。どうして君は俺を置いていったの。

 わからない。わかんないんだ。あの日俺を止めたくせに、一緒だって言ってくれたのに、なんで?
 俺には、ケイがいなければ。足を踏み出すこともままならなくなっていた。
 自然と、両目に涙が溜まる。俺は、独りになってしまった。どうしようもなく、この世界に取り残されてしまったみたいに。病院に戻れば人はいる。でも、そういう話ではない。
 この世界で、今俺は誰よりも独りきりだ。