複雑・ファジー小説

Re: アンサイズニア ( No.2 )
日時: 2018/07/27 22:32
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)

#1 I think this way

 甘い花の香りが、そよ風に乗ってやって来た。日差しがずっと強く、雨も降らず暑くて仕方の無い乾季が終わり、雨季がやって来る前触れ。本来どんな土地にでも咲くはずのリルチェの花の香を嗅ぐのは、今年が三度目の事であった。その事実に、今の世の中は平和になったものだと男は前髪をかきあげながら空を見た。

 もう空に、紫色の雲は浮かんでいない。降り注ぐ雨には酸も瘴気も溶けておらず、ろ過せずとも、聖属性魔法で浄化せずとも、口に含むことができる。二年前まではそのような事は夢物語に過ぎなかったというのに。

 リルチェの花が咲いたということは、もうすぐその果実も実ることであろう。瑞々しい果肉が持つ強い甘みと爽やかな酸味を想像する。記憶の中の甘露が蘇り、おのずと彼の口の中に涎が溢れた。能天気な妄想に、我ながら何を考えているのかと苦笑を隠し切れない。やれやれと、若い男は首を横に振った。

 二年前まで、この花はある南方の町でしか見ることができなかった。本来、寒い土地から暑く雨が多い地域でも育つ、特別強い草木であるのにだ。ただし、一つだけ厄介なことに、痩せた土地では芽を出さない。それが問題であった。

 二年前、勇者一行と呼ばれる一団が魔王を討ち倒すまで、魔王軍の魔法により人間の住む大地には土地が痩せ、水が穢れ、大気が侵される呪いをかけられていた。それゆえ魔物たちの住む大地、オスカレード近縁の北方の大地ほど影響が強く、最南端のフローリアでのみリルチェの草花は毎年芽を出し、蕾を付け、花開き、果肉を抱え込んだ。

 花弁も、燃えさかる炎のような鮮やかな紅色をしているのだが、子葉や本葉も朱に染まっている。これは光合成に用いる色素が赤色であるためだと植物学者が解明していた。

 フローリアには確か、リースの復活魔法を習得するために行ったはずだ。机の上に置いたままの、彼女達から来た手紙を見て彼は当時のことを思い返す。魔物との戦いで死にかけ、仮死状態に陥った者を回復し、再び戦えるようにするための魔法。フローリアに寄るのは大きな寄り道になることは理解していたが、そうでもしなければきっと、魔王討伐は無し得なかった。

「本当に、懐かしい話だ」

 あの戦いから二年。もうとっくに、住みよい世界となった。当時の事を思い返す。あの頃は、信じる正義のために、大事な人のために聖剣を振るい続けたものだ。魔王を屠った、その時まで。

 残暑故に開けた窓から差し込む風、それが彼の、聖剣の勇者ラティの金色の髪を揺らして見せた。蜂蜜のように艶めかしく光を受ける柔らかな髪は、風が止むのと同時にぴたりとその動きを止めた。

 ゆらゆらと、使命感という風に揺り動かされていた激動の日々。それが終焉を迎えると同時に、ぴたりとラティの時間も止まったようであった。歳こそ二歳多く取った。かつては十六のひよっこだった自分が、今では十八となり成人した。旅に出ていた頃は、カナテが喉を鳴らしてあおるエールの泡を物欲しげに見つめることしかできなかったが、今ではもう自分で買う事が出来る。

 ただ、思っていたよりも美味しくなかった。村の酒屋から仕入れたエールを勧められた通りに蜂蜜酒などと混ぜ、割って飲んでみたものの、詰まらない。静けさに包まれた食卓は、落ち着いたと言えば聞こえはいい。けれども、魔王軍との戦争を吹き飛ばすためにも、明るく陽気に騒いでいた当時の夕餉を思い返すと、寂寥に押しつぶされてしまいそうになる。美味しい食べ物が、中々喉を通ってくれない。匙を運ぶ腕が、やけに重たくて仕方ないのだ。

 目を閉じて、耳を澄ます。だが、相反するような事ではあるが、耳の穴から入る物音の全てから意識を逸らす。そうでもしないと、思い出したい声は思い出せない。カナテの耳が痛くなるような馬鹿騒ぎに、それを諫めるリース。全くお前たちは子供だなと、小柄な体をふんぞり返らせたパンプ。

 正直なところ、この穏やかな日々は何にも代えがたい。そのため、あの頃に戻りたいとは口が裂けても言えない。何せ自分が魔王を討ったが故に、この暮らしは訪れたのだから。人類が平和に暮らせる世の中を作り上げた彼が、疑心暗鬼になる訳には行かない。人類の救世主は、今の世の中が何よりも大切だと信じて然るべきなのだから。

 けれども、彼はふとした時に考えてしまう。己が今歩いている、この道のことを考えてしまう。果たしてこれは本当に、自分が望んでいた生活だったのか、などと。右腕の付け根、服の裏に隠れた肌が疼いた。まるで、蛇が締め付けてくるように、キリキリと鈍い痛みを伝えてくる。

 平和になった後、自分たちはそれぞれ別れて、自分なりの人生を歩もうと決めた。自分はこの、旅の途中で見つけた東の村へ。パンプは、魔法研究の聖地、ジンジャーガーデンへ。そしてカナテとリースとは、共に手を取り合ってフローリアの一歩手前、故郷である聖都アークバースへ。ずっと四人で連れ添っていた、離れたことなど旅の二年を通して片時も無かった。それなのにいつしか、勇者一行はもはや、一行などではなくなっていた。

 胸に風穴が開いたようで、冷たくて仕方ない。昼夜暑くて仕方の無い乾季でさえ、毛布が恋しく感じる程に。けれども、厚着をしたところで薪を燃やしたところで、温まるはずなど無い。人肌が恋しい心を温められるのは、同じく人の温もりぐらいなのだから。

 それを今までで最も強く感じたのは、丁度去年のこの時期の事だ。ラティは勇者だった頃訪れたフローリアの街で、リルチェの花に心を奪われた。何と迷いなく咲く花であろうかと。何と美しく燃える赤であろうかと。地平線に沈みゆく日の光よりも、噴き出たばかりの血潮よりも、ずっと、ずっと真っ赤だった。

 それゆえ決めた。本来この花がどんな土地でも育つと言うのなら、自分の住む土地に植えてみせようと。その街を離れる際、村長からその種を譲り受けた。魔王を倒したあかつきには、リルチェの花を大陸全土で咲き誇らせてみせると。その足掛かりが、この村であった。

 魔王がいなくなっただけで、人の世は劇的に回復した。魔王軍がずっと圧力をかけてきたせいで、皮肉にも逆境でも生き抜ける、強い生命となっていた。それは何も人間に限った話ではなく、一年どころか一か月も経たない間に、国全域がこれまでにない活気を見せ始めたのだと言う。

 そして念願かなって、乾季を乗り越え、雨季がその顔を見せ始めた頃の事だ。緑色のがくに隠れていた花が一斉に開いたのだ。星型の大ぶりなリルチェの花が、何十本とラティの花壇で咲き誇った。その様子は、かつて見たフローリアの花草園と同じ姿をしていた。流石に、その絢爛ぶりでは劣るものの、目にした際の感動の強さは引けを取らない。

「ねえ皆、見てよ。懐かしくない? 俺たちがフローリアに行ったときに見たあの姿と……」

 そっくりだよ。

 そう、言いたかった。

 けれどもそこには誰もいなかった。勢いよく振り返るのが癖になっていた。勇者一行と呼ばれるようになった頃から、ラティが四人の先頭に立つ事が多くなった。それゆえ、話しかけようと思えば振り向く癖がついていたのだ。

 そして、前でなくて後ろにずっと仲間がいたため、振り返らなければある事に気が付けなかった。今はもう、後ろには誰もいなくて、独りぼっちになってしまったという事を。

 もうずいぶんとそんな仕草をしていなかったものだからなと、自嘲気味に彼は笑った。当時でさえもう、同行していた仲間と別れて、一年も経っていたのに。

「そうだったね」

 当時の彼は、目を伏せながらそう呟いた。誰もいない中呟いたその言葉は、当然自分に言い聞かせるためのものだったのだが、それで簡単に納得できるほど、彼は大人では無かった。

 彼は、今自分が歩んでいる道が、あまりに見通し悪くて仕方なかった。真っ白な靄がかかっているようで、次はどちらに進めばいいのか、どちらに進めば正解なのか、そもそも、今の自分は迷ってはいないだろうか、それら全てが何一つ分からなかった。

 幾通りもある、人生の分岐路。どの道が最も幸せなのか、笑っていられるのか、正しいのか。そんな問いかけがぐるぐると、毎晩毎晩、眠る度に脳裏を駆け巡る。

 その問いの答えは、まだ出そうになかった。

 人間という種族全体を脅かしていた魔王を斬り殺した。それゆえ、誰もが安心して暮らせる世界になった。夜寝る時に、次の朝自分が起きれるのか心配することも無い。飲み水が綺麗か憂慮することも無い。次の瞬間には魔物が襲ってこないかどうか怯えなくてもいい。

 そんな未来を描き出すことができた。それだけで充分幸せで、正しいことだったと言えるのではないか。ただひたすらに、そんな理論に従っている。いや、むしろ縋りついているというべきだろうか。

 己が選び取った道は、進むと決めた分岐は、決して間違ってなどいないのだと。間違いとは忌むべきものだから。避けるべきものであるから。正解の道を選べなければ、何の意味も無いのだから。

 深い深い、ため息を吐き出した。何にこんなに疲れているのか、元勇者自身全く理解できていなかった。永く、実際の年月よりもずっと永く待ち望んでいた邂逅がもうすぐそこまで迫っていると言うのに、心は晴れなかった。体が怠く、何だか肩も腰の荷も重い。

 溜め息が渦巻く部屋に、ふとノックの音が転がった。木の扉の向こうには気配が二つ。よく集中してみると、落ち着いた女性の声と快活な男の声が交互に聞こえてくる。

 どうやら着いたようだ。一月前に手紙を差し出した相手の来訪を知ったラティは、ほんの少し目を輝かせた。先ほどまでの物思いはどこへやら、年頃の青年の真っ直ぐなあどけなさを取り戻している。

 心なしか、ゆっくりと死を待つように弱く波打っていた心臓も、活発に血を送り始めたような気がする。規則正しさに少し欠けるものの、期待と高揚とで活発になった拍動のリズムは、どんな交響合奏よりも自分の弱音を打ち消し、鼓舞してくれる。

 扉を開ければ、懐かしい顔が二つ。それを目にしてようやく、顔の憂いも取れた青年は、輝く満面の笑みを浮かべ、明るい声で呼びかけた。

「久しぶりだね、カナテ。リースも」
「おう、元気だったかラティ」
「うん。睡眠も栄養も足りてるよ」
「睡眠と言えば聞いてよラティ、カナテったら昨日『久しぶりにラティと会える』って子供みたいにはしゃいで寝れなかったのよ。ほんっとパンプの言う通り一番子供みたいよね」
「おいおいリース、そりゃないだろ。お前も昨日はいつもより酔ってたじゃんかよ」
「あら、それは貴方が次々注いでくるから……」
「待って待って、二人とも」

 痴話げんかなんて、胸やけしてしまって見ていられない。懐かしい二人の様子を楽しみながらもラティは二人の言い争いに割って入った。そんな仲裁さえも久しぶりで、あんなに面倒だと思っていたのに、今じゃ心地よく感じてしまった。

 ああ、待ち望んでいたのは、この空気なのだと。

「二人が愛し合ってるのは分かったから、そういう話は中で座ってしよう? お茶、居れるからさ」
「ちょっとラティったら、何言って……」
「お前、二年して少しは言うようになったじゃねえか」

 顔を赤らめるリースに、目線が泳ぐカナテ。ラティのたったの一言で、いくつか年上の二人が翻弄されていた。あの頃にはこんな事も無かったのになと、悪戯っぽい笑みを彼は隠し切れない。

 得意げに、もう子供じゃないんだとラティは二人にはっきりと告げた。

「俺ももう成人したんだよ」
「うわ、『僕』じゃなくて『俺』に変わってやがる」
「似合わないわねえ」
「別に似合わなくもねえさ。ちょっと違和感あるけどな」
「はいはい。そう言うのも中でゆっくり聞くよ。入って」
「おう、邪魔するぜ」
「お邪魔します」

 そして、二人はラティの住む家へと踏み入ったのである。