複雑・ファジー小説

Re: 才能売り ( No.1 )
日時: 2018/07/29 00:32
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)

〈Case1 夢喪失ワーカホリック〉——山本雪也

 日本のどこかの県の片隅、戸賀谷とがやという町に「才能屋」と呼ばれる店があるらしい。その店では自分の才能と引き換えに、こっちが望む才能を与えてくれるっていう話だ。例えば料理が上手くなりたいならそれを望めばいいけれど、代わりに自分の持つ他の才能をその店に払わなきゃならないんだってさ。才能だけじゃない、性格や性質、趣味や命すらも担保にできるし買うことができる。例えば「誰かのために自分の命を」みたいなことも可能だってさ。どこのファンタジー世界の話だよ? 眉唾ものとしか思えないよな、そんな話。才能は品物じゃないんだぜ? それなのにその店では、才能がまるで品物のようにして扱われているんだってさ、おっどろき。
 まぁ、そんな訳なんだけど、いざ戸賀谷を訪れてみて、口コミで聞いた話をもとにその店があるという場所に行ってみると、実際にあったんだよ、「才能屋」が。嘘じゃなかったんだなぁ。

「才能屋 あなたにお好きな才能売ります! 支払いはあなたの才能で」

 そんな馬鹿みたいな看板が、町のはずれの、やや大きな木造の建物に掛かっていたんだ。
「実在するんだ……」
 思わずおれがそんな声を上げてしまったのも、仕方ないだろう。だってその話はもう都市伝説みたいになっているんだぜ? でも都市伝説にしてみれば話が妙に正確で、店の正確な住所も調べれば出るし、周知の事実と化しているんだ。だからおれでもたどり着けた。気分は半信半疑だったけれどもな。
 そうそう、おれはただの野次馬なんかじゃないからな? おれにはおれの目的がある。そのためにはどうしても新しい「才能」が必要なんだよ。だからわざわざこんなところに来たんだ。電車で片道一時間ってさぁ、遠くね? いや、もっと遠くから来ている人もいるけれど、ここはおれの家からはそれなりに遠いぜ?
 そんなわけで、おれ、山本雪也はこの店の扉を開いた。木製っていうのが落ち着くよなぁ。
 扉を開けると、そこに鈴か何かついているのかチリンチリンと音がした。その音とともに、優しく穏やかそうな青年の声がおれを迎える。
「ようこそ、才能屋へ——。僕はここの店主、自称『悪魔』の外道坂 灯(げどうざか ともしび)さ。君は何を望み、代わりに何をくれるのかな? ははっ、楽しみだよ」
 店に一歩入ると、何かのハーブみたいな爽やかな香りが鼻をついた。店は全体が木でできていて、正面には木製のカウンターがあってその目の前に椅子があって、そこに一人の青年が座っていた。青年は少し色の薄い黒の髪と同色の黒の瞳をしていて日本人らしい顔立ちをしていたが、その肌は何故かが外人みたいに白かった。白の、左の胸元に鷹だか鷲だかの描かれたパーカーを羽織り、チャックの隙間からはグレーのシャツが見え隠れしている。この位置からズボンは見えないが、こざっぱりした雰囲気の青年だった。その顔には優しそうな表情が浮かんでいた。
 「悪魔」という名乗りとその特異な名字に驚きながらも、ざっと彼を観察し終えたおれはここに来た用件を告げる。
「えーとさぁ、簡単に言うと、おれ、頭が良くなりたいんだけど」
 ば、馬鹿にするなよな? これでもおれは本気なんだっつーの! おれが頭が良くなりたいて思っているのはそう単純な理由じゃないんだよ。おれは現在高校三年生。で、どうしても受からなきゃならない大学があるの。でもでもっ、今のおれの学力じゃあ、逆立ちしても受からないんだってば! だからわざわざこんな店に頼ったんだよ。おれ、努力したよ? あまり遊ばないで努力したよ? それでもE判定っておい……冗談きついぜぇ。
 店主——灯さんはそんなおれの反応を面白いものでも見るかのような顔でじっと見ていた。
「わかった、君の望む才能をあげるよ。じゃあ代わりに君は何をくれるんだい? 君のくれるものが大したものではなかった場合、僕があげる才能も大したものではなくなるけれど」
 それについて、おれはもう決めていた。
「サッカーの才能」
 そうだよ、おれはサッカーが得意なんだ、得意なんだぜ? 小中高とサッカー部に所属していたし県大会にも出た。おれの誇れる唯一の才能、それは「サッカー」なんだ。
 おれは灯さんを見て、はっきりとした声で言った。
「灯さん、おれは県大会レベルのサッカーの才能を持っているんだ。だからさ、おれにそれと同等の学力をおくれよ。おれ、今のまんまじゃ、お先真っ暗なんだってば!」
「……いいよ、わかった。でも選択に後悔はしないようにね」
 灯さんは頷いた。
「契約成立さ。ただし言っておこう。僕はこれから才能の交換をするけれど、その結果については何を言っても無駄だし返品は受け付けない。そのことをよく理解しておいてね。たまに勘違いした人が僕に危害を加えようとしてきて困るんだよ。君は違うと嬉しいなぁ」
 大丈夫だとおれは強く頷いた。才能屋も大変なんだなぁ。
 灯さんは淡く微笑んでおれに言う。
「じゃあ、もっと近くに来てくれないかな。才能の交換には君に触れる必要があるのさ。そしてね……僕は、勘違いした誰かさんに傷つけられて、あまりうまく歩くことができない身体にされてしまったのさ」
 言って、灯さんはカウンターに隠された足を軽く叩いた。
 才能屋。相手の望まぬ結果になってしまった場合は傷つけられることもあるのか。自分で望んで店を訪れ、契約内容をしっかり確認して才能を交換したのに? 理不尽だなとおれは思うが、人間というのは醜いのだ、それくらいあって当然なのだろうか。
 おれは足を踏み出す。「もっと」灯さんの声。おれはさらに近づいていく。「オーケー、そのまま」灯さんの声。彼に指示された位置で、おれは立ち止まった。
「それでは始めるよ……。最後にもう一度確認だ。君が望むのは勉学の才で、代わりに君がくれるのはサッカーの才だね。合ってるかい?」
「ああ、合ってる」
 おれが肯定すると、灯さんは真剣な顔をして、おれの額に手を当てた。おれの身体が硬直すると、「そのまま」と鋭い声が飛ぶ。なんだかよくわからない感覚が全身を吹き荒れ、おれは金縛りにあったみたいに動くことができなくなった。灯さんの顔もとても真剣だった。ああ、とおれは理解した。今この瞬間、平凡な日常では決して体験することができない超常的な何かが起こっているのだと。だってそうでなければ、「才能を交換する」なんてことが説明できるわけがないだろ? 才能っていうのはその人に固有のもので、交換できるような代物じゃあないんだから。
 そして時間が過ぎる。おれにとってこの緊張に満ちた時間はまるで永遠のようにも感じられたが、時間はあまり経っていなかったらしい。
「終わったよ。じゃあ早速質問さ。えーと……7、3、7、3と四則演算子(+−×÷)を使って24を作ってみて?」
 は? そんなわけのわからない難しい問題、このおれに解けるわけがないだろ! おれは内心で憤慨したけれど。
「……え? どうして?」
 気が付いたらおれの頭は、勝手に演算を開始していた。分数を使えばうまくいくか? 単純計算じゃ絶対に無理だ。出されている数字をこう使えば……。
 そしておれは答えを出した。……答えを出せた。
 おれは自分に驚きながらも、導いた答えを口にする。
「……(7分の3+3)×7」
「お見事さん」
 パチパチと、乾いた拍手の音。
 おれは驚いていた。本気で驚いていた。ここに来る前のおれならば絶対に解けていない、解く方法の糸口すらわからなかっただろう難問。それを短時間で解けた、おれ。その事実は、紛れもなく才能の交換が行われたことを示していた。
「じゃ、君の払った代償についても検証しようか」
 そんなことを灯さんが言いだした。灯さんは身体の向きを変えると、店の奥に「ウツロ、検証。サッカーボール持ってきて」と声を掛けた。そのすぐ後に、店の奥からサッカーボールが飛んでくる。動けない灯さんはそれを捕まえられないから、おれは自分の方に転がってきたサッカーボールを拾い上げた。灯さんは店の奥に文句を言った。
「ウツロ? あのさ、僕が上手く動けないの知ってるよね!?」
 店の奥に反応はない。おれは苦笑しつつも、拾い上げたサッカーボールをまじまじと見つめた。
 そしておれはさらなる驚きに包まれる。
「サッカーボールが、重い、だって?」
 これまでは、風のように軽く感じていたサッカーボール。しかし今おれが持っている、どう見てもサッカーボールとしか思えないこれは、何故か重く感じられたのだ。
「それ、リフティングしてみてくれないかい?」
 灯さんの指示に従い、おれはいつもの練習通りにボールを軽く蹴りあげて頭の上で……

 リフティング、できなかった。

 それ以前。おれの蹴りあげた足は見事に空を切って、バランスを崩したおれはたたらを踏んで大きくよろけた。おれは愕然とした。
 リフティングだぜ? 練習みたいな動きだぜ? できて当然の動きなんだぜ? これでもおれはストライカーだったんだ、リフティングはそれなりにうまかった。
 それなのに、できない。できないどころか大いに空振ってよろけてしまった。
 このストライカーの山本雪也が。
 おれはリフティング以外の動作もやってみようと動いてみた。しかし、慣れた動きを頭の中で思い返すことはできても、身体が動かなかった。おれは固まったまま動けなかった。
 おれはしっかりと理解する。
「……これが、代償か」
「代償というよりは対価だね」
 おれの言葉に灯さんは律義に返す。
「わかったかい? 君は勉学の才を手に入れてサッカーの才を失った。得た才をどのように使うのかは君次第。でも、いくら努力したって失われた才は戻らない。それが才能屋の取引なのさ」
「……わかり、ました」
 おれはしばらく呆けたような顔をしていた。得たものと失ったもの。合格の可能性が見えてきた大学受験、永遠に戻らないストライカー。おれの未来とおれの過去。未来の栄光と過去の栄光。
 得たものの大きさも、失ったものの大きさも同じだと灯さんは言う。それでもどこかで、ストライカーでなくなった自分を惜しいと思っている自分がいた。
「ありがとう、ございました」
 複雑な思い。もやもやした何かを抱えながらもおれは灯さんに礼をして、逃げるように店を去った。
 どうしてだろう、おれの未来は確約されたはずなのに、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような気がして、それがおれの心を鬱にさせた。

Re: 才能売り ( No.2 )
日時: 2018/07/30 09:37
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)

  ◇

「って、ボール置いていかないでよ!? あ、いや、お客様の仕事じゃないけれど、僕はうまく動けないんだから……ッ!」
 少年が出て行った後で、灯は溜め息をつきながらも渋々カウンターの椅子から立ち上がる。立ち上がった瞬間、彼の両足に激痛が走って彼はそのまま椅子から転げ落ちた。
「いたたー……。って、最近ますます歩けなくなってるかも。20代で車椅子は嫌だなぁ、まったく」
 そんなことを呟きながらも、彼は近くに立てかけておいた杖を手に取り、それを支えにして何とか立ち上がろうともがく。すると、彼の前に無骨な褐色の手が差し出された。その手を見て、灯は呆れたような呟きを漏らす。
うつろ、遅いよ」
「済まない」
 申し訳なさそうな顔をした彼は、闇から生まれたような黒い髪と同色の瞳をしており、その肌は褐色で、まるでファンタジーの剣士が着るみたいな漆黒のマントを身につけていた。
「お前がうまく歩けないこと、たまに失念してしまうのだ」
「怪我してもう一年は過ぎるってば。いい加減覚えてよ」
「初めて出会った時のお前はもっと元気だった……」
「それから何年過ぎたと思っているのさ、まったく」
 二人はそんな会話を交わす。もはや日常茶飯事となっているような光景である。
 灯と虚、二人の関係は近しいし虚も灯と同じく「外道坂」を名乗ってはいるが、二人に本当に血縁関係があるのかは謎である。そもそもこの二人、あまりに謎が多すぎるのだ。
「あの少年、馬鹿だと思わないかい、虚」
 不意に灯がそんなことを言い出した。
「才能の量は同じくらいを与えたけれど……彼は本当に大切なものが何か、まるでわかっていなかったんだねぇ」
 でも、なかなかに面白いお客さんだったよと彼は言う。
「ね、選択の果ての結末がどうなるのか見てみたいよ。面白そうじゃないか」

  ◇

 勉学の才は本当に役に立った。お陰でおれは出世街道まっしぐらだ。行きたい大学にも受かってその後は学年順位トップ10になって四年間ずっとその成績をキープし続けた。おれの持っていた、灯さんに対価として差し出したサッカーの才ってそれだけすごいものだったんだな? 正直おれは驚きを隠せない。
 あれ以来おれはサッカーをやめた。練習すらまともにこなせなくなったんだ、続けられるわけがない。おれは所属していたサッカー部に退部届を出して帰宅部になり、空いた時間はひたすら勉学に費やした。勉学に励めばサッカーのことなんて忘れられる、そう思っていたのにどうしてだろうな? それでもたまに、ストライカーだったおれ、山本雪也のことが頭に浮かんでそう簡単には離れてくれないんだ。望んだ道には進めたのに、今こそ人生の中でも相当に幸福な時間のはずなのに、どうしてだ?
 それを考えると頭がおかしくなるような気がしてきたので、おれはあえてそこを考えないようにした。だって信じたくなかったんだよ、勉学の代わりに失ったものの大きさが、思っていたよりもずっとずっと大きかったってことを。
 そしておれはいつしか、大人になった。
 行った大学は東大だ。そこでのトップ10なんだ、十分に誇っていいだろう。それでもおれは、心にぽっかりと空いた空白を無視することはできなかった。おれは満ち足りていたのかもしれないけれど、同時にどこかが欠けていた。おれはサッカー以外の趣味を見つけられなくて、勉学に励み、働くしか能がないワーカホリックになってしまったんだ。
 そんなある日、おれは中学時代からの友人に出会った。

「おい、おい! そこにいるのユキヤだよな? ホントにホントにユキヤだよな? ゆっきーだよな?」
 掛けられた、声。その声の調子と「ゆっきー」というあだ名に、おれの記憶が猛反応する。
 おれは恐る恐るその名を呟いた。
「……アツシ?」
「そーだよそーだよ、あっつんだよ! うっひょお、ゆっきーインテリ系? 変わったなぁ!」
「アツシは、変わってないな、ちっとも」
「そこはアツシじゃなくてあっつんでしょ! あっつんって呼べよゆっきー!」
 言いながら、ばんばんおれの肩を叩いてくるアツシ——あっつん。
 中学時代から明るく騒がしく太陽みたいだったコイツは、ちっとも変わってはいなかった。
 アツシは、あっつんは、言う。
「そーだそーだ、そう言えば、ストライカーさんよぉ、山本雪也さんよぉ。せっかくこうやって再会したんだしさぁ、みんな呼んでサッカーやってみねぇ? おれ、ゆっきーシュート見てみたいわー、また!」
 その言葉を聞いて、おれの身体は固まった。
 サッカー。ストライカー。ゆっきーシュート。暑い夏の芝草の上、駆ける無数のサッカーシューズ。
 その全て、おれの好きだったことすべて、おれは勉学の才と引き換えに捨て去ってしまったんだ。
 おれはアツシに訊いてみた。
「……なぁ、アツ……あっつん。お前、今、何しているんだ?」
 アツシはおれのそんな質問にきょとんとした顔をすると、ああ、と頷いて喋りだす。
「おれさまは今、絶賛フリーター中でっす!」
「……は?」
 アツシは明るく、言うのだ。
「それでも今、たのしーよ。フリーターだけんど、やりたいことはできているんだからなぁ! リアルで充実してまっす! 彼女いないけどおれさまはリア充な!」
 人生は失敗したのかもしれないけれど。
 好きなことを好きなようにやっているアツシは、とてもとても幸せそうに見えた。
 人生は成功したのかもしれないけれど。
 好きなことを見失ってワーカホリックになってしまったおれとは、まるで違う生き方。
 どっちが幸せなのだろうか。貧乏でも、失敗人生でも、好きなことを好きなようにやれるアツシと、成功人生だけれどやりたいことを見失ったおれ。
 大好きだったサッカーを失って、代わりに成功人生を歩み始めたおれは今、最高に不幸せだ。
 大好きだったことを捨てず、代わりに失敗人生を歩んでいるアツシは今、最高に幸せそうなのに。
 そして、おれはついに気づいた。あの日、才能屋でおれが何を対価として払ってしまったのかに。
 おれは東大に受かれなくても、サッカーだけは、ストライカーの山本雪也だけは、捨てるべきではなかったんだ。だってそれこそがおれそのもの、おれがおれである証だったから。愚かだったあの頃では決してわからないことだった。あの頃は成功人生を歩むことしか頭になかった。だが違う! いくら成功人生を歩んだところで、心が貧しければ幸せなんてつかめようはずがない! 一見幸せそうに見えても、心からは幸せにはなれない! だから、だからおれはあの日あのときあの場所で、サッカーだけは、捨てるべきではなかったんだ!
 アツシを見て、おれは自分の中に広がった空白の正体に、ようやく気付いたのだった。夢喪失ワーカホリック。おれは夢を失って、働くことしかできなくなった! おれに趣味や生きがいはなくなったんだ! しかしいくら後悔しても、もう遅い。だからおれは、アツシに言った。
「そっか……それは良かったな、あっつん。でもおれはもうサッカーはやめたんだ。もうサッカーなんてできねぇよ。今のおれはストライカー山本雪也じゃねぇ。……働くことしか能がない、夢失った社畜だよ。夢喪失ワーカホリックだ、よ」
 おれのそんな暗い言葉に、アツシは目を丸くした。
「なんか……ゆっきー、変わったな、マジで」
「だからごめん、斎藤。おれはお前の誘いに乗れない」
 名前でなく、名字で呼んだのはわざとだ。
 おれがあのとき才能屋に来さえしなければ、きっとおれはアツシと、斎藤敦と楽しく笑いあうことができたのだろう。でも、無理なのだ。自分の出世のために自分そのものを捨てたおれには、無理なのだ。だから「あっつん」と呼ばずにあえて「斎藤」と呼んだ。それは訣別の意味を込めた言葉だ。
 アツシは呆気にとられたような顔をしていた。おれはそんなかつての友人に、畳み掛けるように言葉を投げる。
「おれは歩く道を間違えたんだよ。東大に受かったからって、趣味を失って何が幸せなんだよ。……そんなわけで、ごめん」
 謝って、おれは足早にその場を去る。驚いた顔のアツシが残された。
「あっつん……」
 こいつと一緒にいると、胸が苦しくなる。
 こいつはおれが捨てたものを、全て持ったまま幸せに生きているから。
 貧乏でも、フリーターでも、こいつは確かに幸せだった。
 エリートで、金持ちなおれが不幸せなのと対照的に。
 ああ、才能屋よ、今も覚えている外道坂灯よ。あなたはわかっていたんだな? おれがいつかこうなることを。
 「選択に後悔はしないでね」さりげなく言われた言葉は裏返せば、「それは本当に正しい選択?」と念を押す言葉になるのだろう。
 あの日あのときあの場所に、才能屋に訪れさえしなければきっと、おれはこんなことにはならなかったのに。
 でも、おれは才能屋を恨まない。灯さんは確かに、さりげなくだけれど確かに、おれに忠告してくれたんだから。その結果おれのした選択について、あの人に罪はない。——選んだのは、おれなんだ。
 ああ、どうしておれは、あの日あの時の愚かなおれは、短絡的な「成功」に飛びついてしまったのだろう。失うものについて、深く考えなかったのだろう。若気の至りという言葉があるけれど、あれはまさしくそれだった。おれは勉学を望んでも、おれそのものみたいなサッカーだけは、対価として差し出してはならなかったんだ。おれは人生を間違えた!
 あの店の教えてくれる教訓は、きっとこうなんだろう。
「身の丈に合わないものを望むな」
 おれは身の丈に合わないものを望んだから、今、不幸せなんだろう、きっと。
 ストライカー、山本ゆっきーは死んだ。今いるのは夢失ったワーカホリック、山本雪也だ。
 気づいてしまった今、おれはこれからどう生きることになるのかわからない。でも、いくら成功して家庭を持っても、心から満たされることだけは絶対にないのだろう。そしておれはサッカーが嫌いになる。失われたものを思い出させるから。それでいつか働き過ぎて過労死でもするのだろうか。好きなことをなくしたおれは、働かなければ退屈に殺されてしまうんだ。働いても疲労に殺されてしまうんだ。おれはどうすればいいんだ、なあ!
 才能屋が、灯さんが、笑う声が聞こえた気がした。
(それは本当に正しい選択?)
 ああ、おれは間違えた。人生の選択を間違えた。
 最初から、自分で努力すれば良かったんだ。才能屋なんかに頼らずに——。

〈Case1 夢喪失ワーカホリック 完〉