複雑・ファジー小説
- Re: 才能売り ( No.7 )
- 日時: 2018/08/07 10:17
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
〈Case3 七夕綺譚——やさしきいのちのものがたり〉——高梨裕理
私には叶えたい願いがある。でもそれは私では叶えられない。私には今現在、力がないし、大人たちだって叶えられない。それだけ難しい願いがある。
でも、でもだよ、もしも。もしもこの命を対価に、願いを叶えられたのならば。
——私はこの命なんて要らないって、そう、思ったんだ。
◇
才能屋。その話を最初に聞いた時、私は夢かと思った。
そこでは才能が取引の材料にされるという。しかし才能以外も取引の材料として選べるという。
——等価交換。
ならばそこには、私の願いを叶える鍵がある。私が申し出る交換は命と命、ほら、等価でしょう?
私の住んでいる町は戸賀谷。これまでその話を聞くまで、私はそんな店が自分の町にあるなんて知らなかった。地元ではあまり有名ではないのに、外部の人間からすると才能屋は「実在する都市伝説」として結構有名らしい。私にその話を教えてくれた大学医学部のクラスメートも、外部からの転校生だった。新しい環境に慣れぬ彼女に、私が積極的に話しかけたから彼女と私はすぐに仲良くなった。だから私は「委員長」って呼ばれるんだな。真面目だし、優しいし、困っている人を放っておけないし。
「裕ちゃん、知ってる?」
最初はその一言からだった。転校生——南野愛華は、何げない調子で私にそう訊ねてきたのだ。私は「何?」と愛華に返す。すると彼女はこんな話を持ってきた。
「才能屋さんの、話。この町、戸賀谷にあるんだよ。えっ、もしかして知らないの? 自分の町のことなのに、ちょっと意外だなぁ」
愛華は明るい子だった。転校して来た当初は緊張していたみたいだが、今こうして見ると彼女の明るさ、溌剌さに、私の心まで温かくなる。愛華は明るい太陽のような女の子だった。
そんな愛華は、みんなに愛される温かい華は、言うのだ。
「じゃ、説明してあげるね。ちなみに愛華は利用したことないよ。愛華、そこまでの願いなんてないし、代わりに差し出すものも持ってないんだからぁ」
そして愛華は明るい声で、弾むように話してくれたのだ。戸賀谷の駅から歩いて十分ほど、木製の落ち着いた店のことを。そこの店主は自称「悪魔」で、訪れた人の願いを叶え、代わりに訪れた人の持つものの中から、願ったものと同じ程度のものを対価としてその人の中から奪っていく。才能屋、と銘打ってはいるが、実際才能以外のものを交換した客もいたらしい。その仕組みはどうであれ、等価交換なのだ、等価交換。……わたしは現実主義者である。そんな眉唾ものの話、信じたくはないけれど。あまりに現実味のあるその話を、いつしか私は本気で信じ始めていた。
その話を聞いた時から、才能屋、等価交換の二つの言葉が私の頭の中から離れなくなった。私には叶えたい願いがあった。だから医学部に進んだけれど、自分で叶えてやりたいというプライドもあった。まだあの子には時間があったし、だから私は才能屋を想い焦がれつつも、医学部での勉強にひたすら励んだ。
高梨裕斗。私の救いたい子の名前。彼は私、裕理の弟だ。生まれつき病弱でろくに学校に行ったこともないけれど、「将来は物語作家になりたい」という夢を持つ子。私は彼を救いたいから医学部に行った。いつかその病気が治るように、私の手で治せるように。私は彼のために自分の人生をささげたと言っても過言ではないから裕斗はそのことを悩んでいるようだったけれど、これが私の選んだ道なんだ、気にしなくていいのに、優しいあの子は気にしてしまう。私はそんな裕斗が愛おしくてたまらなかった。だから勉強を頑張れるんだ。
愛華にも事情は話した。あの子が元気なときに、あの子の病室に連れていったこともあった。あの子は年がら年中ノートにお話を書いていて、私はそれを読むのが楽しみだった。身内贔屓と言われても構わない、あの子は文才があるよ、絶対。
愛華はその辺りの事情をよく知っている。だから私にその話をした後、軽く釘を刺すように言った。
「裕ちゃん、裕斗くんのことがあるからって、早まって才能屋に駆け込むことはやめてね? 才能屋さんに頼っても、必ずいい結果につながるとは限らないんだから」
そんな愛華にもちろん、と私は答えた。
「才能屋とやらに頼るよりもまず、私は私の手で裕斗の病気を治したい。才能屋に頼るのは最終手段だってば。安心していいよ?」
「愛華はあくまでもゴシップの一つとして話しただけだから」
「わかったってば」
心配げな愛華にそう答えて、私はちらりと時計に目をやった。あ、まずい、授業が始まっちゃう。
「これから五限の授業が始まるから私は行くね。愛華は六限だっけ? じゃあ放課後また会おうよ。じゃあね」
そして私は教科書やら何やらを持って教室へ急ぐ。根を詰めすぎないでねと、愛華の声が追いかけた。
- Re: 才能売り ( No.8 )
- 日時: 2018/08/09 11:06
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
◇
知ってるよ、現実は甘くなんかないんだって。現実というのはいつもほろ苦く、酸っぱく、辛味があって、しょっぱい。現実というのはそういうものだ。白馬の王子様なんていないしネバーランドなんて存在しない。そんなものを信じていられたのは、私が現実というものを知らなかった、幼く無垢で無邪気だった遠い日々だけ。
放課後、愛華と話しながらの帰り道。私の携帯に着信が来た。そこに記されていたのはあの子の病院の番号。私は嫌な予感がした。私の全身から冷や汗が流れおちた。
「愛華、ちょっと待って」
私は愛華にそう言うと、物陰に行ってスマホのボタンを押した。手が震えた。私は何かが怖かった。
「戸賀谷総合病院です。高梨裕理さんで間違いないですか?」
「はい、高梨裕理です!」
「そうですか。裕斗くんのことで非常に残念なお知らせがあります」
「えっ……?」
嫌な予感。それは現実味を伴って、今私の目の前に迫り、
「裕斗くんの余命が、明らかになりました」
私の肩をつかみ、
「容態が悪化しまして、彼の命は持ってこの夏の終わりまでだということがわかりました」
——私の顔を覗き込んだ。
容態の悪化。余命。この夏の終わりまで。
どうして、どうしてあの子が。元気に夢を語っていたあの子が!
まだ時間はあると、私が医学を成功させるまでの時間はあるとどこかで期待し、実際そうなると思っていたのに。
時間なんて、あの子にはなかったんだ。
「裕斗!」
私は真っ青な顔で駆けだした。「裕ちゃん、どうしたの!?」と愛華が追いかけてきたが、私には愛華のことなんて気にする余裕がなかった。病院まで、大学から歩いて三十分。私はその距離を一気に走りぬけようとして、途中で石に蹴躓いて転んだ。膝から血が流れるが気にせずすぐに起き上がって走る。裕斗、裕斗、裕斗! 私の頭はあの子のことでいっぱいになり、それ以外は何も考えられなくなった。そんな私の腕を愛華がつかむ。私はそれを振りほどこうと躍起になった。
「愛華、離して! 離しなさいよ! 離せ!」
髪を振りみだし鬼のような形相で叫ぶ私に愛華は言う。
「落ち着いてよ裕ちゃん! ほら、膝、怪我してるし!」
「落ち着けるか、あの子の容態が急変したんだ! この夏の終わりまでしか……持たない、って……」
私はくずおれた。
どうして、どうしてあの子が。あんなに楽しそうに夢を語っていたあの子が!
感じたのは悲しみと、運命というものに対する為すすべのない怒り。
涙が、溢れた。私は大声をあげて大地に拳を打ちつけた。何度も、何度も。手の皮が破れて血が飛び散ったが、それでも私は大地を打つのをやめなかった。道行く人の奇異の視線なんて気にしない。溢れ返る感情、様々な思い。そうでもしないと、自分が壊れてしまうように思えたから。
やがて私の思いが鎮まり、私は大きく荒く息をついた。膝も手も血まみれだった。それに気がつき、ようやく激しい痛みを感じだした私に、愛華がそっとハンカチを差し出した。赤い花柄のハンカチ。まるで愛華の明るく優しい心みたいな。
傷は四か所、もちろんそれだけで私の傷を何とかできるとは思わないけれど、気持ちは嬉しかったから私はそれを受け取った。愛華は言う。
「近くに公園があったからそこで応急処置をしよう? 病院に行くのならそこでしっかりとした処置を受ければいいけれど、最低限傷口は綺麗にしないと化膿しちゃう」
愛華は優しかった。裕斗の話を聞いて取り乱した私を、恐れずにしっかりと支えてくれて。
どうしてだろう、私の目からまた涙があふれた。私はそれを血まみれの手で、愛華からもらったハンカチで乱暴にぬぐった。
- Re: 才能売り ( No.9 )
- 日時: 2018/08/12 09:59
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
◇
「落ち着いた?」
「……うん」
愛華の優しい声に、私はこくりと頷いた。私の傷は愛華が丁寧に洗い流してくれて血止めまでしてくれて、初めての応急処置にしては相当綺麗なものだと私は思った。
私は思わず呟いた。
「愛華は、優しいんだね」
当然でしょ? と愛華は笑う。
「優しいのは裕ちゃんでしょ。何も知らない愛華に真っ先に声を掛けてくれた。だから愛華と裕ちゃんは友達! で、困っている友達を助けるのは当たり前のことじゃなぁい?」
「……私は、いい友人を持った」
「何を今更。水臭いよ裕ちゃん」
愛華は、笑う。その目に友へのいたわりを込めて。私はそれが嬉しかった。
「病院までは遠いし、裕ちゃん、ひざ怪我してるでしょ? だからタクシー呼ぼっか。運賃は愛華持ち、ただし貸しにしとくからいつか必ず返すこと!」
明るくそんなことを言って、愛華はスマホからタクシー会社に連絡して、タクシーを呼び出した。私はぼうっとしたまま、その様を眺めていた。
しばらくして、タクシーが来た。愛華は運転手さんに「戸賀谷総合病院まで」と行き先を告げると、「行こ行こ」と私の腕を引っ張って一緒にタクシーに乗ってくれた。運転手さんは血まみれの服を着た私の方をちらりと見たが、何も言わずにそのまま車を発進させた。車内には心地よい音楽がゆうらりと流れていた。
それからどれくらい経っただろう、私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。愛華の声に私は起きて、夢うつつのままタクシーを降りた。目の前には「戸賀谷総合病院」の文字。そこに至って私は、ようやく現実に戻った。
「裕斗……」
呟いて、幽鬼のように踏み出した足取り。お金の清算を終えた愛華が追い付いてきて私の手を取り、病院の受付まで二人して歩いた。
「高梨裕理です……」
受付で名乗ると、私はカードを渡されて病室までたどり着いた。病室には高梨裕斗、と達筆な字が書かれている。きっと裕斗自身が書いたのだろう。あの子は字が上手いから。
今、そこのドアのプレートに「面会謝絶」の文字はない。少し容態が安定したようだ。私はそれに安心し、「裕斗、私。入るよ」とドアを軽くノックして中に入った。
白い病室。中には真っ白な病院着を着た、真っ白で病的な肌の裕斗がいた。華奢な、今にも折れそうな細い体格に繊細な線。彼は何度も苦しそうに咳をすると、私たちの方に顔を向けてかすれた声で言葉を放った。
「姉さん……そして、愛華さん……? いらっしゃい……」
裕斗のベッドの近くにはノートが広げられており、その傍にはシャーペンが投げ出されていた。
その姿を見ているといたたまれなくなって、私は思わず裕斗を抱き締めた。抱き締めたその細い身体には薬の臭いが染みついていて、それがとても病的だった。
「……姉さん、苦しい」
裕斗の声に、私ははっとなる。私は慌てて手を離し、リノリウムの床に膝をついて裕斗の顔を覗き込んだ。裕斗も私も何も言わない。しばらく無言の時間が続いた。
やがて裕斗は口にする。
「姉さん、僕の命はもう、長くはないんだ」
それは、
「だから、お願いが、ある」
裕斗の、
「姉さん、僕が死んでも、泣かないで、幸せに生きて」
ささやかな願い。
「僕は生まれつき長くは生きられない身体だったのさ。でもね、それに健康な姉さんまで付き合う必要はないんだよ。医者になりたいんでしょ? なら、なりなよ、なっちゃいな、よ……」
言いながら、裕斗はまた咳をした。私はその背をさすってやった。抱き寄せた裕斗の身体が小刻みに震えている。本当は裕斗も死が怖いのだ。それでも、私に心配をかけないために、無理して、笑って。
でも、裕斗は間違ってる。私が医者になりたかったのは、全て裕斗のためなんだから。裕斗が死んだら意味がない。裕斗が死んだらきっと、私は医者になる夢を諦めるだろう。あの子を救えなかった、そんな後悔を胸に抱いたまま。
だから私は裕斗に言った。
「ごめん、裕斗。私はきっと、お前が死んだら夢を捨てるよ。だって『医者になりたい』って夢も、お前あってこその夢だもの。裕斗が死んだら、私はきっと」
「……ごめん、姉さん」
「どうして裕斗が謝るの? 裕斗は何も悪くないよ! 裕斗に謝られたら、私は立つ瀬がなくなる!」
「ごめん」
「…………」
私は何も言えなかった。裕斗も裕斗なりに罪悪感を感じているのだろう。
それでも、一つだけ、わかりきった事実。
裕斗の命はもう、長くない。この子がいくら「物語作家になりたい」と夢を語っても、それは永遠に夢のまま、叶うはずのない願いに変貌してしまった。
——余命を、告げられたから。
私はこの時ほど医者を憎いと感じたことはないだろう。医者が余命宣告しなければ、まだ希望が持てたのに。それと同時に、私は医者に感謝していた。何も知らずに不意に逝くより、「残りわずか」と知っていれば、覚悟ができる。私は医者を憎めばいいのか、それとも感謝すればいいのか? 私の心は複雑だった。
それから、しばらく。
「姉さん、怪我してる」
目ざとく裕斗が私の怪我に気づいた。
「僕のせい、なのかな。だとしたらごめんね。姉さんが夢を叶えられないっていうのなら、僕は違うことを願うよ。姉さん、僕が死んだら僕のことは忘れて自分の人生を生きてよ。僕のせいでこれまで自分に回せなかった時間を、まだ沢山ある姉さんの時間を、自分のために使ってよ。もう僕はいいよ。僕はもう、死ぬんだから……」
その透徹した黒の瞳には、死への恐怖と一種の覚悟みたいなものがせめぎ合っている。その葛藤は裕斗だけのものだから私が何とかしてやることもできない。
裕斗は、私に言うのだ。
「僕のことは、忘れて」
そんなこと、できるものか。
私はそう思ったけれど、これ以上裕斗を悲しませたくなかったからそれを口にすることはなかった。
裕斗と、私。互いのことを互いに気遣っているがために、すれ違う思い。互いにとっての一番の幸せは、どちらも相手が幸せになること。でもこの状況が、そのどちらからも幸せを奪う。
私は思わず天を仰いだ。神様なんて存在しないけれど、もしも存在するのならば、私は神様とやらに文句を言いたい。
——神様、神様。
あなたはどうして、私たちにこんな不幸を背負わせたのですか——?
◇
面会時間も終わり、私は無言で家へと戻る。手当ては受けなかった。あの子を差し置いて、受けるつもりもなかった。その背を無言で愛華が追いかける。お互い何も言わなかった。お互い何も言えなかった。ただ冷たい死の予感が私と私に関わる者全てを包み込み離さない。私が嗅いだ外の空気は、死の匂いがした。
やがて、家の前に着く。愛華の家は私の家とは逆方向にある。わざわざ付き合ってくれたのかと私は気付き、愛華に謝った。
「ごめん、色々付き合わせちゃったみたいで。ハンカチは洗って返すから」
気にしなくていーよと愛華は笑う。
「言ったでしょ? 困っている友達を助けるのは当たり前のことだって」
その優しさが身にしみた。
「……ありがとう」
「いいって、いいって。それより裕ちゃん、これから大変だと思うけれど頑張ってね? 何かあったらいつでも愛華を呼ぶんだよ? 番号は入っているよね!」
「何から何まで、ごめん」
「そんなに謝られると、愛華、立つ瀬がなくなっちゃうってば」
愛華は有無を言わせない口調で、それじゃまたと私に言って、私の謝罪を受け付けないで颯爽と去って行った。
愛華も、裕斗とはそれなりに話していた。愛華も悲しいはずなのに、私の前では決して悲しみを見せようとはしない。その優しさが、身にしみた。身にしみて、心に沁みて、どこか痛く、悲しかった。
そして私は家へと帰る。
帰った先では父さんと母さんがいて、何も言わずに私を抱き締めてくれた。
両親の胸で、両親の温かい胸で、私は少し泣いた。
- Re: 才能売り ( No.10 )
- 日時: 2018/08/14 10:25
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
◇
才能売りのことを思い出したのは、それから一週間後のことだった。裕斗の死期を知ったあと私はぼんやりすることが多くなって、その日も気が付いたら店の前にいた。
「才能屋 あなたにお好きな才能売ります! 支払いはあなたの才能で」
馬鹿みたいだなと思った。才能は売り買いできるものじゃないんだ、それでも。これが愛華の話していた店だと私はわかり、一縷の望みを抱いて中に入ろうと決意した。
私には夢がない。裕斗あってこその夢だった。その裕斗の命ももうそんなに長くはない。でも裕斗には夢がある。「物語作家になりたい」という夢が。ノートに書かれた数々の物語、私はそれをよく覚えている。そして裕斗の夢は、私がいなくても達成できる類のものだ。
等価交換、という言葉が私の頭の中を行き来する。私の命を裕斗の命に。もしもそんなことが、この非現実的な店でできたのならば、それ以上のことはないと私は思った。私は思い詰めながらも、店の木造りの扉を開けた。チリンチリンという音もハーブの匂いも、今の私は一切気にならなかった。
「ようこそ、才能屋へ——。僕はここの店主、外道坂灯さ。野次馬はノーサンキューだよ。君は何の用でここに来たのかな?」
店の奥、木製のカウンターの後ろに座って笑う穏やかそうな青年。私は彼に、何の前触れもなく声を掛けた。
「命を交換することって、できますか?」
その問いに、才能屋さんは一瞬虚を突かれたような顔をした。それだけおかしな質問だと私は自覚している。それでも、私は本気だった。裕斗の命は残りわずかなんだよ? できることは何でもしておきたかった。たとえそのせいで私が命を失うことになろうとも。
才能屋さんは、ややあっておもむろに切り出した。
「僕は『悪魔』だ、できないことはないけれど……。君、自分の言っていることがわかっているかい? しっかりよく考えたのかい?」
「考える時間なんてない! あの子には時間がないんです!」
私は、叫んでいた。
私は、叫びたかったのだ。
ずっと、ずっと。
「医者もさじを投げたしあの子は余命宣告された。でもこの店の話を友人から聞いて、一縷の望みをかけてここに来た! 考える時間なんてどこにもない! わかったならさっさと、私の命とあの子の命を交換して!」
そんな私に、落ち着きなさいと才能屋さんは言う。
「……なんとなく事情は理解したよ。君は命が尽きそうな大切な人のために、代わりに自分の命を差し出そうというんだね? 命同士、確かに等価交換だ、契約は成立する、けれど……」
才能屋さんは驚きの目で私を見た。
「……君みたいな人は初めてだ」
才能屋さんは、頷いた。
「でもね、いきなり君が死んでも周囲の人は驚くだけだろう。僕は交換を行うときはなるべく、周囲に影響がでないようにしているんだ。だから、君の決意や覚悟はわかったから、」
遺書を書かないかい? と優しく彼は私に提案した。
「これまで僕は依頼人に意地悪なことばかりしてきたけれど、流石に君みたいな人にひどいことはできないなぁ。これは僕からの、君の決意への敬意を表す行為と受け取ってほしい。普通はここまで面倒を見ないんだよ」
言って、彼はカウンターの机の中をごそごそ探り始め、便箋の束と筆記具を私に渡した。
「ん、一人になりたいなら他の部屋を貸すけど、どう? 一応、店の奥には机と椅子があるしそれはお客様用になっているんだけれど……」
私は、その机と椅子で結構ですと答えた。そうかい、と才能屋さんは笑い、
「ならばせいぜい、悔いの残らないように遺書を書いてね」
と笑った。
渡された便箋と筆記具。
才能屋さんは本当に奇跡を起こせるのだろうか?
わからないけれど、渡されたそれらからはどこか、死の匂いがした。
裕斗の死期を知らされたときに嗅いだ、あの日と同じ匂いが。
- Re: 才能売り ( No.11 )
- 日時: 2018/08/16 09:53
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
◇
【愛華へ。せっかく友達になれたのにごめん。私は才能屋さんに行って、自分の命と裕斗の命を交換します。自分には夢がないけれど裕斗には夢がある。だから、私は裕斗に自分の命をあげるんです。
裕斗へ。勝手に死んじゃってごめん。本当は裕斗が死ぬべきだったのに、私はそれが許せなかったんだ。私は私の命を裕斗にあげました。だから裕斗は今、生きていられるんです。私の命と裕斗の命、私からすれば裕斗の命の方が重いし大切だと思ったから。
母さんへ。せっかく産んでくれたのに……】
私は無言で遺書を書いていく。愛華に裕斗に母に父に。それ以外の人へは書かない。それ以外の人は関係ない。
でもいざ書き出すと溢れ出す思いが止まらなくて、気が付いたら夕方になっていた。私が出来を見て満足して書き上がったそれらを持ってカウンターに行くと、カウンターには相変わらず才能屋さんが座っていて、明かりをつけて本を読んでいた。彼は私の足音に気がつくと、本から顔をあげずに一言放った。
「書き終わったのかい」
「はい」
私が答えると、才能屋さんは読んでいた本から顔をあげて栞を挟み、私に向き直って、
「今日は七夕だね」
「はいぃ?」
唐突に、そんなことを言った。
才能屋さんは朗らかに笑う。
「七夕の日は願いが叶うんだっけ? ははっ、丁度いいよ、最高の日だ」
才能屋さんは、優しく笑って、囁いた。
「絶対に叶えるよ、君の願い」
でもその代わりに、私は死ぬ。
私は願いが叶った先の世界に、存在しないのだ——。
わかっている、わかっているけれど、無性に悲しくなって泣けてきた。
そんな私の頭を、カウンター越しに手を伸ばして撫でながらも才能屋さんは店の奥に声を掛ける。
「ウツロ、来てくれないかい。話は聞いただろう? 僕はうまく歩けないからさぁ、代わりに君が行ってくれると助かるんだけど」
すると店の奥から、「了解した」と低い男の声がして、
髪も瞳も夜の闇みたいに漆黒をしていて、褐色の肌を持つ全身黒づくめの男が現れた。男は、名乗る。
「外道坂 虚(げどうざか うつろ)だ。聞いただろうが灯は歩けない。だから代わりに俺が付き添うが……灯、俺の留守のうちにまた、何かに巻き込まれるなよ?」
そんな男に、才能屋さんは笑って返した。
「大丈夫だってば。僕は『悪魔』だよ?」
「自分の身も自分で守れない奴がそれを言うか」
「虚は心配性すぎるんだよ」
「……やはり心配だ、よし、決めた」
二人だけでやりとりをすると、虚、と紹介された男はカウンターの後ろに回って、有無を言わさず灯さんを背負いあげた。
「わわっ、何するんだい」
「安全策」
虚さんは短くそう言うと、灯さんを背負ったまま、私を見た。
「で、行くんだろ」
「は、はい……。で、あなたたちは具体的に、どうするんですか」
病院に忍び込む、と虚さんはこともなげに言った。
「大丈夫だ、俺たちは人であり人ならざる存在だからお前以外は見えないようにした。『交換』するには対象の額に触れる必要がある、という厄介な制限付きなんだよ。で、『交換』が終わったらお前は脳卒中やら心臓麻痺やらで死ぬことになる。でも代わりにお前が本来生きる分まで、お前の大切な人は生きながらえるだろう。契約内容はそれでオーケーか?」
私は、頷いた。
私が本来生きる分まで裕斗が生きる。私の命で裕斗が生きる。
それは、私の本望なのに。
どうしてだろう、涙がこぼれていた。
そんな私を虚さんは感情のない瞳で見つめて、一言。
「行くぞ」
こうして私は死出の旅に、出向くことになったのだった。
- Re: 才能売り ( No.12 )
- 日時: 2018/08/18 07:55
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
◇
私は、死ぬ。裕斗の代わりに。裕斗にこの命、捧げて死ぬ。
死ぬまでにあと何回、私のこの心臓は脈打つのだろう? 死ぬまでにあと何回、私はこの肺で息をするのだろう?
死の予感。それは病院へ向かえば向かうほどに鮮明に感じられてきて。
「怖いか?」
からかうように、灯さんを背負った虚さんが私に問いかけた。ち、違うもんと私はムキになって返す。
「いや、確かに死ぬのは怖い、けれど……」
私は歩きながらも、ふと空を見上げた。
夕暮の空、黄昏の空に、きらり、堕ちた流れ星。
それは科学の発展した現在では宇宙のゴミが大気圏で摩擦されて発光しているだけだとわかっているけれど、今の私には自分の死を暗示しているようにも見えた。
私の頭の中に裕斗の顔が浮かぶ。諦め、少し達観したような顔、本当にうれしそうな心からの笑顔、いつも大人ぶっているくせに、子供っぽく拗ねた怒り顔……どれもが愛しい、それらが浮かんだ、から。
怖くは、ないよ。
「あの子が助かるなら、怖くは、ない!」
一言ひとこと、噛み締めるように言って虚さんを見た。そうかと虚さんは頷き、「着いたぞ」と私に知らせてくれる。
戸賀谷総合病院。裕斗の眠る病室のある所。
気が付いたら日はすっかり暮れて、夜の帳が辺りを包み込んでいた。
七夕の夜、星降る夜、年に一度の再会の、約束の夜。
そうだよ、こんな日には奇跡の一つや二つ、起こってもおかしくはない!
私は大きく息を吸い込んで、病院の扉を開けた。
「高梨裕理です。高梨裕斗の、弟のお見舞いに来ました!」
受付でそう名乗ると、カードみたいなのを渡されて病室への道筋を教えてもらう。私はそれに従って、通い慣れた病室へ向かった。
「裕斗、私だよ、入るよ」
軽くノックをして中に入れば。そこには身体のあちこちをチューブでつながれた、やつれ果てた裕斗の姿があった。前にお見舞いに行った時はこんなことなかったのに。裕斗の命は危機的状況にあるんだなと、私はそういったことを改めて理解した。それでも集中治療室にいないのは、症状の進行が緩やかだからなのだろうか? 何にせよ、医学を学び始めたばかりの私にはわからなかった。
裕斗は眠っていた。その白い顔には疲労と、時折苦痛が垣間見える。その胸はしっかり上下していたけれど、たまに動きが不規則になって細い喉から喘鳴が漏れた。そんな裕斗を見ているのが、私は辛かった。
知らず裕斗の手を握った私に、虚さんが声を掛けた。
「この子に命を捧げるので、合っているか?」
ええ、と私は頷いた。頷いたら涙がこぼれた。そうだよ、私はもう二度と、生きたままで、目覚めたままで、この子と再会するときはないのだ! それがどうしようもなく悲しくて、苦しくて、辛くて、こらえようとしても溢れ出した涙はとどまることを知らなかった。
そんな私に、灯さんは優しく声を掛ける。
「大丈夫だよ、この子の命は、僕らが絶対に救うから」
その時だった、その瞬間だった、裕斗が夢うつつのままに「姉さん……」と苦しげに呟いた。私はますますこの子が愛おしくなって、悲しみや何かもあったけれど、救いたいという思いが一層強くなった。
私は言った。
「やるなら早くやって! この思いが揺らがぬうちに、早く!」
灯さんは頷いて、虚さんに言った。
「虚、下ろして」
「了解」
虚さんが慎重に灯さんを下ろすと、灯さんは裕斗のベッドにつかまりながらも慎重に立った。その身体を、横から寄り添うようにして虚さんが支え、「ありがとう」と灯さんが笑えば「気にするな」と短く虚さんが返す。仲の良い二人。それはまるで、私と裕斗を見ているような気がした。二人の間に流れる空気はいたわりに満ちていて、温かかった。
「じゃ、始めるよ……」
虚さんに支えられた灯さんは、私の額に右手を当てて、裕斗の額に左手を乗せた。——始まる。
「最後に、何か言いたいことはあるかい?」
灯さんが優しく私にそう訊ねた。私は少し考えてから、泣き笑いのような表情を浮かべて言った。
「裕斗……今まで、ありがとう。
そして才能屋さん。あなたは私にとって、七夕の日の奇跡だよ、神様だよ。私は短冊に『あの子の命を延ばして』って書いたんだ。それを叶えてくれて……ありが、とう……!」
「どういたしまして」
灯さんは、笑った。最高に、綺麗な笑顔で。
そして灯さんは、目を閉じた。何かが、始まる。
私の額の中から何かが抜けていくような感覚がした。私の全身から力が抜けていき、身体が急速に冷えていく。不思議と苦痛はなかった。ただ、眠かった。それが死へと誘う眠りだとわかっていても、私はぁ……それに……さから、え、なぁい……ふあぁ……。
——死ぬって、こんなことなの?
唐突な眠気の中で、私はそう思った。
ならば死は、そこまで怖いものじゃ……なかった、んだ……。
私は、消えた。
◇
弟の手を握ったままくずおれる少女の身体。それはもう息をしていない。しかし手を握られた弟の顔には血色が戻り、身体に取り付けられた機器の全ての数値が正常な値を示していた。それは、少女の命が少年に譲られたのだという事実を、残酷なほど明確に示していた。少女は死んだ、もう戻らない。しかし少年は生き返ったのだ、己を蝕む死の淵から、帰ってきたのだ来れたのだ、少女の、かけがえのない命の犠牲によって。
その様を見ながら、
「……終わったね」灯が言えば、
「終わったな」と虚が返す。
灯の表情はとても悲しげだった。
「悲しい、交換だった。二人を見ていると……僕らを、思い出す」
「その『僕ら』に俺は入らないな? ああ、あいつのことか。……こんな例は初めてだな、ああ。この俺でも少しは感傷的になる」
灯は、物言わぬ骸となった少女の身体を見て、呟いた。
「……僕は神様なんかじゃないよ、高梨裕理」
少女は、答えない。
灯は、どこか泣き笑いのような表情を浮かべていた。
「僕は『悪魔』さ、神様なんかじゃあ、ない」
まあそれでも、と、彼は窓の外に目をやった。
七夕の日。病院のあちこちに飾られた笹と短冊、そしてたまに空をよぎる流れ星。
それはどこか物悲しく、美しい光景。
「……でも、たまにはいい人になったって、いいだろう、なぁ」
悲しいけれど、とても美しい絆だったよと灯は呟いた。
灯と虚は二人して、しばらくずっと病室にたたずんでいたがやがて、不意にその姿を消した。
残されたのは、少女の遺体と、
——彼女が書いた、四通の遺書のみ。
- Re: 才能売り ( No.13 )
- 日時: 2018/08/19 01:11
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
◇
どうして、僕は生きているのだろう。先程までは死にそうなほど苦しかったのに。
僕はぼんやりと、僕の手を握ったまま眠っているような姉さんを見た。明るい朝の光の中、その手はなぜか氷のように冷たくて、姉さんの全身からは死の匂いがした。
「……姉さん?」
お見舞いに来てくれて、そのまま眠ってしまったのだろうか。僕は姉さんに声を掛ける。でも、声を掛けても掛けても姉さんは目覚めない。死人の肌のような感触が、握られた手からした。僕は姉さんを注意深く観察してみた。そして、気付いたんだ。
——姉さんは、息をしていない。
姉さんは死んでいる!
どうして、と疑問が僕の中を吹き荒れた。どうして、どうして、僕が死なずに姉さんが死ぬの。病気の僕はどうして生きていて、健康な姉さんが死んでいるの。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……
溢れ返る「どうして」に押し潰されそうになったとき、僕は床に置いてある四通の手紙に気が付いた。僕はそれを拾うためにそっと姉さんの手を僕の手から離し、その中に「裕斗へ」と当てられた一通を見つけ出して、それを読んでみた。
そして僕は真実を知った。
真実を、知って。流れたのは、涙。
「どうして……?」
僕は再び同じ疑問を口にする。
姉さんは、まだ生きていられたのに、どうして、僕なんかに命を譲ったの。姉さんにはまだ未来があったのに、どうして僕なんかの未来を優先させたの。
僕がこんな病気である以上、二人で一緒にいられる時間はもうそんなに長くはないと知っていたけれど。
逝くならば僕が先だと思っていた。なのにどうして、姉さんが先に逝ってしまったの。
僕は、思う。才能屋さんとやらは悪魔なのか、神様なのかと。そのどちらにせよ人智を超えた存在だということは理解した。才能屋さんのしたことは確かに姉さんの願いを叶えたのかもしれない。でも、僕は? 父さん母さん、そしてあんなに仲の良かった愛華さんは? 残された人はどうなるの?
七夕の日は過ぎた。奇跡の一夜は終わった。だからもう奇跡は起きないのだろう。でも、僕は「どうして」と疑問を抱かずにはいられなかった。
——ねぇ、神様、悪魔様、才能屋様。
あなたはどうして、姉さんの願いを叶えたんですか?
依頼人の願いだから叶えるのだ、と言われても、どうしてあなたは姉さんを止めなかったの。それとも、止められないほど姉さんの意思は強かったの?
わからない、何一つわからない。死人に口なし、冷たい姉さんの身体は何も答えてはくれない。
病気が、治って。驚くほど軽くなった僕の身体。でもその代償は姉さんの死。
喜べばいいのか悲しめばいいのかわからなかったから、僕は泣き笑いのような表情を浮かべて顔をくしゃっとゆがめた。
◇
それから一週間後のこと。
手紙をそれぞれ受け取って、退院した僕のもとにみんなが集った。僕と父さんと母さんと、そして姉さんの一番の親友だった愛華さん。愛華さんは家に皆で集まるなり、いきなり地面に額をこすりつけて土下座した。
「——ごめんなさいっ!」
……愛華さんは、泣いていた。
呆気にとられた僕らの前、愛華さんは自分の罪を訥々と語る。
「愛華が、愛華がぁ! 才能屋さんの話さえしなければ裕ちゃんは死ななかったんだよね! 裕ちゃんは何も知らないから、こんなことにはならなかったんだよね!」
「でも才能屋さんの奇跡がなければ、裕理の心は壊れていただろう」
そう答えたのは父さん——高梨相馬。
父さんは、言うのだ。
「裕理はね、あの子はね、裕斗のことを心から愛していたんだよ。裕斗の死期を知った後のあの子はどうなった? ただぼんやりとして、何も手につかなかったじゃないか。つまりだね、愛華さん。悲しいことに、こんな結末にならなかったとしたら、裕理の心は確実に壊れていた。裕斗が死んだら裕理は廃人になっていた。だから愛華さん、あなたが裕理の壊れる前にそんな結末へ導くための噂話をしてくれたことは、そこまで責めるようなことではないんだよ」
そうか、と僕は思った。
僕が死んだらあの姉さんは、きっと壊れる、壊れてしまう。
医者になりたいという夢も、僕のためなんだと姉さんは言った。だから僕が死んだらその夢も捨てて、一生にニートかフリーターか。僕の死をずっと抱えたまま、きっと碌な人生を歩まない。
対して、今のこの状態。姉さんは死んだけれど僕は生きている。そして僕ならきっと、潰れたりしない、壊れたりしない。姉さんの死を、きっときっと乗り越えられる。
奇跡が起こる前は、僕が死んで姉さんが壊れるはずだった。
奇跡が起こった後は、姉さんこそ死んだけれど、僕は壊れずに生きていける。
このままだったら破滅に向かうだけの僕ら家族。才能屋さんはそれを、ある意味の最良の結末へ持っていってくれたのではないか。僕の心の中に、そんな考えが浮かんだ。
でもでも、と愛華さんは泣きじゃくる。
「愛華が裕ちゃんを死なせたのは事実でしょ!?」
それは、彼女に宿った深い罪の意識のあげた、悲鳴。
「……違うよ、愛華さん」
気が付いたら、知らず、僕は呟いていた。
土下座する愛華さんに、「もうやめなよ」と手を差し出しながらも、僕は言った。
「愛華さんのせいじゃない。愛華さんでは姉さんの心を動かせない」
それは、冷たい言葉だった。でもそれはある意味真実だった。
姉さんは僕しか見ていなかったから。姉さんを動かせるとしたら姉さん自身か、僕しかいない。
「姉さんは自分の意思で動いたんだよ。だからこれは姉さんの選択、愛華さんがどうこう言っても何も始まらないんだ」
「でも愛華がぁ」
「いい加減にしてくれよ」
ずいぶん、大きな声が出た。愛華さんは僕の冷たい大声に、びくっとその身をすくませた。
僕は冷静に愛華さんに言った。
「自分が悪いからって自己憐憫に浸るのはやめてくれる? 愛華さんが言わなくても、その話はいずれ誰かがしていたさ。有名な話なんだろう? だからさ、自分だけが悪いとか自分が罪を被るとか、そういうの気持ち悪いからやめてくれる? そんなに自己憐憫に浸っていても、何も始まらず、何も終わらない」
僕の言葉は冷たかったろう。でもそれは真実だ、ゆえに冷たいのだと僕は信じる。
愛華さんは、涙を拭いて頷いて、ゆうらりと立ち上がった。その背を母さんが優しく抱いてあげると、愛華さんは母さんの胸で子供みたいにわんわんと泣きだした。ようやく愛華さんは泣けたのだ。罪の意識から解き放たれて、ようやく、心から、大声で。
僕はそんな愛華さんを見た、父さんを、母さんを見た。姉さんとつながる全ての人たちの顔を見た。
みんなみんな、同じ痛みを背負っている。みんなみんな、同じ悲しみを背負っている。
七夕の日、星降る夜に、奇跡は起こったのかもしれないけれど。その奇跡は僕らの心に、決して消えない傷を残した。決して癒えない傷を残した。
僕はこの日を忘れない。僕は姉さんを忘れない。
姉さんに譲られたこの命、姉さんが生きていくはずたったこの人生。だから、だからこそ、精一杯、
——生きていくよ。
◇
そしてまた季節は巡って、七夕の日が訪れる。
家の仏壇に置かれているのは、姉さんの遺影。笑っている、心から嬉しそうに、楽しそうに笑っている、姉さんの写真。
僕に何もなければ、僕らに何もなければ、今頃みんなでこの日を祝っていたのだろうか。そう思うとどうしようもなく胸が苦しくなって、悲しくなって、息が詰まる。胸が張り裂けそうな悲しみに襲われる。
言い忘れていたこと。僕の誕生日は七夕なんだよ?
僕は姉さんの遺影に、僕に命を譲ってくれた姉さんの遺影に、呟いた。
「……姉さん、ありがとう。僕は無事、二十歳を迎えられました」
届くだろうか、届かなくてもいい。でも、姉さんのこの犠牲がなければきっと、僕は二十歳を迎えることはなかった。だから、お礼を言いたかったんだ。
ふと窓の外に目をやれば、今度は星は落ちなかった。今度は死の予兆はなかった。
二十歳になった僕、大人になった僕は、短冊に筆ペンの字を走らせる。
願うのは、たったひとつ!
『幸せに、生きて、姉さん』
今度こそ、誰かのためにその命を使ったりしないで、自分の人生を、自分だけの人生を、幸せに生きて、生きて、その生を全うしてほしいんだ。
今僕は、姉さんのおかげで夢へ確実に近づきつつあるから。
僕はあの日を、忘れない。
〈Case3 七夕綺譚——やさしきいのちのものがたり 完〉