複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.10 )
- 日時: 2018/08/15 19:16
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
【花と毒】
「あと一月経てば、豊穣の餐があるの」
あらゆるものがまばゆく照らされる夏が終わると、豊満な実りをたたえる秋が訪れる。エトはネリーの部屋の壁にもたれかかり、嬉しそうに話す友人の横顔を眺めていた。彼女は衣装箪笥と銀細工で飾られた姿見の前を、幾度となく往復している。手にはこっくりとした色合いの、真珠色のワンピースを携えていた。
「この日ばかりは、ご馳走が出て、とっておきの服に身を包むの。少しお化粧なんかしたりして、一日中豊穣を祈って、歌や楽器を奏でる。とても楽しいのよ」
「へえ、いいなあ。気分が明るくなりそう」
エトは率直な感想を述べた。祭事など、塔に来てから初めてのことだ。否応無しに、興趣がわく。
ネリーの関心ごとは、服に合う髪飾りに移ったようだ。机に並んだバレッタやリボンを見比べては、首をひねる。
「ああ、でも残念だけど、私は衣装持ちじゃないから、上等な服なんて持ってないよ。ああ、その紫の髪飾り、とても似合うね」
ちょうどネリーが頭に当てていた、ラベンダーのリボンを褒め上げる。彼女の亜麻色の髪に、よく映えていた。ネリーはほほを染め上げ、淡くはにかんでみせた。
「ふふ、ありがとう。きっとエトは、ちょっとだけ古典的な、けれどすらりとした、ラウンジスーツが似合うんでしょうね」
「私はとことん、服に疎いから」
「わたくしは、そういうの持ってないし……。でも、リボンなんか変えたら、気分が変わるかも。ほら、この真紅の飾りとか」
ネリーは化粧台の前に座るように、エトを促す。そうしてエトのやわく波打つ金髪をほどき、丁寧に櫛ですく。ネリーは鏡ごしに、髪を下ろしたエトを認め、感嘆の声をあげた。常は男装の麗人のように振る舞う彼女だけれど、こうしてリボンを解いて見せれば、まろやかな可愛らしさを纏う娘へ転じる。
「エトが髪を下ろすの、初めて見た気がするわ。括っているとキリッとしているけれど、下ろしていると……」
「恥ずかしいな。あまり、似合ってないだろう。母にもよく言われていたよ」
ネリーは思い切りかぶりを振る。
「そんなことない。その、印象が変わるの。まるで綺麗な女の子みたい、ううん、変な意味じゃないのよ。元々、エトは女の子だし」
「はは、お褒めに預かり光栄だよ」
そうだと両手を合わせ、ネリーは衣装箪笥から、繊細な白藍色のワンピースを持ち出した。裾のあたりにかけて控えめなレースが広がり、胸元には蝶々飾りがとまっている。
「もしかしたら、この服なんて、エトに似合うかもしれないわ」
「なんだか、気恥ずかしいな」
ワンピースをエトに差し出せば、彼女は戸惑った手つきでそれを迎えた。
「少し、姿見の前で合わせてみて」
エトはぎこちない動作で立ち上がり、姿見の前に立つ。眼前に映る、ワンピースを着た少女。エトは形容しがたい、不思議な気持ちで、鏡を見つめていた。これまで、母が望むままに、少年の格好をしてきた。しかし、母の姿はない。この金髪の娘は、誰だというのだろう。
「ああ、やはり見慣れないね」
「ううん、本当によく似合っているわ。でも、嫌ならいいの。いつもの服装の方が、エトらしくて好きよ」
エトらしい、という台詞を反芻する。彼女は視線を無理やり鏡から逸らし、ネリーの方を振り向いた。
「それにしても、本当に楽しみだね」
「そうね。でも、少し不安なの」
「不安?」
ネリーは頷く。
「豊穣の餐の前には、不吉なことが起きるってジンクスがあるのよ」
「ただの迷信だろう」
「ならいいけれど……」
この塔にまつわる、数々の迷信の一つに過ぎないのだろう。退屈を持て余した子どもたちは、どんなものでも曰く付きに変えてしまう。幽霊列車が、いい例だろう。それでも、ネリーの不安の種は取り除かれないらしい。彼女の声はどこかうかない。
「エト、貴女は少し、危なっかしいところがあるから気をつけてね。ほら、初夏の頃、幽霊列車を確かめに、塔を抜け出したでしょう。もう忘れたつもりなの」
「はは、ごめんってば」
けして、あの晩の出来事を忘れたわけではなかった。今でも、鮮やかにエトは思い出してみせることができる。けれどもあれきり、シエルはおかしな挙動をしてこない。あれは何かのまやかしだったのか、とエトは感じていた。