複雑・ファジー小説

Re: 植物標本 ( No.11 )
日時: 2018/08/16 20:57
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 絡みつくような、粘り気のある甘い香りに、ロランは辟易していた。古びた紙の匂いと綯交ぜになり、むかつきを催してしまう。せっかくの早朝の清浄な空気が台無しだと言わんばかりに、ロランは鼻をつまんでみせた。

「原因は、痴情の縺れってやつだって」
「色欲に溺れたか」

 シエルは書庫の張り出し窓に、いつものようにもたれ掛け、乾いた羊皮紙のページをめくった。一度として痞えることなく、なめらかに掠れた文字を追いかける。
 ロランはあたりに林立した書棚の背表紙を順々に眺めては、暇を持て余しているようだった。

「それにしても、僕はこの匂い、嫌いだなあ。彼女、なんて花だっけ」
「二ネットの花は薔薇だろ」
「道理で。甘ったるいや」

 シエルは同窓の姿を懐う。二ネットは気丈で、明るい娘だった。ほっそりとした手足は長く、塔を訪う前は、劇団に入り生計を立てていたという。深く言葉を交わした覚えはない。ただ、人好きのする娘だったという印象だけが、シエルの心中に刻まれていた。

「ああ、それにしても、よりによって二ネットが亡くなるなんて。神さまの特別だったのに」

 天に嘆くロランを、横目で盗み見る。彼は二ネットの死を悼んでいるのではない。ただひたすらに、哀れんでいるのだ。塔では、いつもこうだ。薄い膜を隔てて、死が隣り合わせに佇んであるというのに、誰も嘆くことはしない。
 ふと外を見遣れば、折良く棺桶が対の塔へ運ばれてゆく。喪服に身を包んだ大人たちが列を連ねて、そのあとを追った。

「となると、彼女の代わりに、また誰かが選ばれるのかな。なあ、シエルは誰だと思う」
「……エト」

 エニシダの娘の名を零せば、ロランがにやりと口角を上げる。

「随分あの子を気に入ってるね」
「あいつのピアノの音が好きなんだ。なんていうか、不安定で歪だけど、それが絶妙なところで保っている感じ。綺麗だろ」
「よくわかんないな。髪の長いところは好きだけど、あれじゃあ少年のようだ」

 シエラ自身、何故こうも彼女のピアノに魅かれるのか、上手く説明がつかずにいた。彼女が紡ぐ音に、純粋なうつくしさを見出したのだ。ただ、それだけに過ぎない。

「今夜、また塔を発つのか」
「ああ、楽しみだ」

 ロランが誇らしげに胸をそらす。シエルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「君が、何故この大役を嫌っているのかわからないよ」
「これこそが天命なんて、馬鹿げてる」
「この話題になると、僕らは気が合わないなあ」

 段々と苛立つシエルを、ロランが宥める。こういう時、彼は身軽に話を変え、シエルの機嫌を取るのだ。ロランにとって、一つ下の少年は弟のようでもあった。

「首都へ行くついでだ、何か欲しいものはある?」
「上等な葡萄酒なんかあれば、豊穣の餐を退屈せずに済みそうだ」
「できる限りの努力はするよ」

 そう言い終えると、ロランは弾けたように咳き込んだ。シエルは素早く友人の元へ駆けつけ、背中を叩いてやる。しばらくして落ち着いたのか、ロランは数度肩を大きく上下に揺らす。

「とにかく、気をつけろよ」
「わかってるって」

 この時、シエルは得体の知れぬ不安に取り憑かれていた。豊穣の餐は凶事のあらわれ。二ネットの死が、その前触れだとすると。いいや、馬鹿馬鹿しいと首を振り、シエルはふたたび対の塔へ視線をやった。