複雑・ファジー小説

Re: 植物標本 ( No.12 )
日時: 2018/08/18 12:33
名前: 凛太 (ID: /48JlrDe)

 その朝、塔はしめやかな好奇心に包まれていた。秘密の目配せを交わし、声をひそめ、時には忍笑いを漏らす。薔薇のあの子が、遠つ国へ旅立った。子どもたちは、無邪気に隣人へ、そう口伝える。

「今日の講義は休講だって、臨時休暇だ」

 講義室へ向かうエトを引き止めたのは、双子の兄弟だった。廊下中に甘やかな匂いが満ち、エトは顔を歪めてしまいそうになるのをこらえる。

「何かあったのか」

 そう問えば、兄弟は顔を見合わせ、目を丸くする。そうしていい話相手ができたと、もったいぶって口を開いた。

「何かあったも何も……」
「知らないのか、エト! 塔の中はこの話で持ちきりだぞ」

 ユーゴは鼻を膨らまし、意気揚々と喋った。
 そういえば、とエトは思う。すれ違う子どもたちは、一様にしてどこか浮き足立っていた。

「二ネットが亡くなったんだ」

 レオの声色は、あまりにも平静を保っていたものだから、エトはうまく彼の言葉を咀嚼することができなかった。エトは、二ネットをよく見知っていた。最後に話したのだって、おとついの晩のことだ。

「そうか、エトは初めてか」
「講義で習ったろう」

 肢体に彩られた花の痣は、子どもたちを蝕んでゆく。子どもたちが激しい感情にその身をせき立てられた時、病の種子は発芽するのだ。薄い皮膚の下に這う蔦は、1日かけて四肢を巡り、やがては心臓を刺す。甘い匂いは警告だ。これ以上、感情を高ぶらせてはならない。激情の波にのまれるほど、花は芳香を増す。エトは、ネリーが激昂した夜を振り返る。今にして思えば、彼女は死の瀬戸際にいたのだ。

「……それにしても、胸焼けしそうな匂いだね」
「噂では恋人に振られたから、らしいぜ」
「……恋人?」

 エトが聞き返すと、レオが意地悪く笑う。

「これも知らないのか、案外エトは鈍感だな」
「二ネットは年上の、ジョゼと付き合っていたんだ」

 名前に聞き覚えはあった。エトが記憶を掘り返している傍で、レトとユーゴは軽口を叩きあい、勝手な憶測を飛ばす。ジョゼは女癖がひどいとか、二ネットは故郷に恋人を残していたとか、そのような根も葉もない噂の類。誰もが心のうちに、大方作りごとめいた話なのだと理解している。だけれども興を削がないために、噂に飛び乗っては、どれが本当のことかを吟味するのだ。

「いつか、ああなると思ってたぜ」
「それより、せっかくの休暇なんだ。外で遊びに行こう」
「ああ、湿っぽい話はまっぴらだ」
「この匂いから逃れたいしな」

 レオとユーゴはぐっと伸びをすると、廊下を駆け出した。結局のところ、彼らにとっては二ネットの死など、どうでもよいのだ。
 彼らは走りながら、声高く詩の一節を諳んじる。

「汝、健やかなる魂を育めよ」

 感情にのまれず、激することもない魂が、健やかなる魂とでも呼べるのだろうか。
 いつまでも動かないエトに痺れを切らし、ユーゴが声をかける。

「おおい、エトも行くぞ!」

 その時、視界に捉えたのは、うつむきがちにこちらへ歩み寄る少年の姿だった。彼が気になったのは、エトの勘だ。どこまでも死に希薄な塔の中で、あの少年だけは異質に感じたのだ。

「……ごめん、先に行ってて!」

 声を張り上げると、双子の兄弟たちの背中は小さくなっていった。彼がジョゼだという確信めいたものが、エトにはあった。