複雑・ファジー小説

Re: 植物標本 ( No.15 )
日時: 2018/08/21 21:09
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 眼前の娘は誰だ。

 エトは問う。白藍のワンピースを着た娘は、甘く微笑んだ。透いた蜂蜜色の髪はなだらかにうねり、背中をつたう。しなやか緩急をつけた肢体が、うすらと青く輝いた。

「誰だ、お前は」
「エト、かわいそうなエト」

 ほっそりとした声色で、娘は嘆く。娘の唇は薔薇色に灯り、眸は煌めきを宿した。

「お前が縋った母さまは、違う依り代を見つけてしまったよ」
「ちがう、うるさい!」
「お前は、エメのようはなれなかった。けれど今更、少女として振舞うこともできない」

 娘の青白い手が、エトの頬をなでた。あまりの冷たさに、エトの身が竦む。されど、逃げてはならない。嗚咽が込み上げた。だめだ、いけない、このままだと感情に奔流されてしまう。

「……エト、開けて大丈夫?」

 隔てられた扉の向こう、ネリーの青ざめた声が聞こえる。そうやって、エトにかけられたまじないは、弾けて消えた。あるべきものは、あるべきところへ還る。エトの目の前にあるのは、ただの姿見だ。白藍のワンピースは、不健康なエトの体躯には、不釣り合いのように思えた。
 返事がないのを心配したのだろう、ネリーが遠慮がちに扉を開ける。蒼白な顔をした友人に、ネリーは驚いた。

「顔色が悪いわ」
「……少し、一人になっていいかな」
「ええ、もちろんよ」

 エトはうつむいたまま、その場を駆け出した。封が切られた母からの便りも、そのままにして。


 そうして辿り着いた先は、あいもかわらない音楽室だった。錆びたドアノブを回す。誰もいませんように。そう祈りながら、エトは扉を開けた。
 けれども、彼女の望みは儚くもついえる。シエルが、宵の眸を持つ少年の姿があったからだ。

「……誰かと思った」

 シエルが、乾いた声でつぶやく。彼は硝子戸に寄りかかり、たゆたう埃を眺めていた

「皆と階下で祝わないのかい」
「あんな祭り事、意味なんてないだろ」
「シエル、泣いてるのか」

 夜空色の双眸が、星を産み落とす。彼がまたたくと、両のまなこから透き通った雫が、つうと零れだした。嗚咽一つあげず、指で露を拭うこともせず、ただただ静寂に浸りながら、彼は泣いていた。
 エトがシエルのかたわらへ寄る。

「……お前、その痣」

 袖から露わになった、エニシダの花。シエルはそれを見つめると、暫くしてから、かすれた声で笑い出した。

「ははは、はは。そうか、やはり、お前が選ばれたんだ。二ネットやロランの代わりに、お前が」

 エトは眉間にしわを寄せた。まるで、その言い方では、ロランがとおつ国に抱かれたようではないか。

「ロランは、どうしたんだい」
「あいつは、今、首都にいるよ。だが、戻ってこない。今晩が峠だろうと、今朝連絡が来た。亡骸さえ、向こうで弔う」
「……どうして、首都に」
「何度も、聞かされただろ。俺たちの本分は、何だ」

 話が見えない。シエルはとつとつと、語りかける。絡まった糸をほどくよう、ひとつひとつ丁寧に答え合せをしてゆく気分だ。かつて、シエルは言った。物事には、全て理由があるのだと。

「物事を学び、教養を身につけ、健やかな魂を育み、そして」

 人々に慰めを施すこと。その先を、エトが紡げなかったのは、シエルが薄い唇に人差し指をあてがったからだ。

「あいつは、信仰のままに、喜んで人々に慰めを与えに行ったんだ。自分の命も顧みず」

 一瞬の、静寂。

「置いてゆかれるのは、もう嫌だ」