複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.17 )
- 日時: 2018/08/24 08:50
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
【逃避行】
シエルにとって、塔はひどく歪な場所だった。恐らく、両親が無神論者だったことに起因するのだろう。彼がクレマチスの花を咲かせた時、両親は幼い彼を掻き抱いて、涙を流した。痣が消えるまで、隠し通さなければならない。そう、彼の父は決心したのだ。
けれども、概して幼子など、癇癪を起こすものだ。その度に、僅かに甘い匂いが香る。人の口に戸は立てられない。彼処の家の子どもは、花の病ではないか。噂が及んでしまえば、あとは時間の問題だった。
季節が巡れば、数々の死が降り積もる。塔に来てから、シエルはいくつもの別離を経た。花の病を克服したもの、あるいは死をもって潰えたもの。シエルがもっとも恐れたのは、子どもたちの、死に対する希薄な観念だった。
だからだろう、エトに興味を持ったのは。信心深い口ぶりをしながら、その実、信仰心などないのだ。彼女はただ、母の教えに従っていたに過ぎない。そこに、エトの意思は介在しなかった。
「私、は……」
言葉が詰まる。これまで、エトは母が望むままに振舞ってきた。塔を出るなんて、そんな背徳めいたこと、許されるはずがない。けれども実際、エトはこの誘いに、蠱惑的ななにかを感じ取っていた。
「無理にとは言わない。ただ、明日の、朝一番の列車で発つ。祭事の翌朝だ、大人たちの目も緩むだろう」
「塔を出たところで、君はどうするんだ」
「眠るロランの顔を、一目見ておきたい。それも終えたら、そうだな。痣が消えるまで、身を隠して暮らす」
齢14の、世間から隔絶された子どもが、果たしてひとりで生きていけるのか。普段のエトなら、甘い考えだと一蹴していたのかもしれない。けれども、眼前の少年の、あまりに切々とした面差しに、何も言えなくなってしまう。もし、このまま彼が塔に残ったのならば、身体より先に心が朽ちてしまうのだろう。
いっそう、エニシダの匂いが濃くなる。
「……深呼吸しろ。気を落ち着かせて、この甘い匂いをどうにかするんだ」
シエルは、けして弱くはない力で、エトの肩を掴んだ。静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。幾度か繰り返したところで、ようやくエトは平静を取り戻した。
甘やかな香が四散すると、シエルは掴んでいた手を離す。そうしてそのまま背を向け、歩き出した。
「シエル!」
思わず、彼の名を叫ぶ。しかし、かける言葉が見つからない。
「……おやすみ」
「ああ、おやすみ」
そうしてようやく吐き出した言葉は、頼りないものだった。
シエルの去りゆく背中を見つめながら、エトは考える。エメ。幼いながら、流行り病で命を落とした、彼女の兄。彼は、大人がまさしく望むような子どもだった。だからこそ、商家の跡取りとして、一等期待を浴びたというのに。
「エメ、どうして君が亡くなったんだ」
そしたら、エメのまがい物などではない、まさしくエトとして振る舞えたのだろうか。しかし、それも今となっては、せんなきことなのだ。