複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.18 )
- 日時: 2018/08/24 09:13
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
朝靄を切り裂くよう、列車は走る。塔は遥か彼方、随分遠くまで来たものだと、エトは感慨にふける。二つ隣のコンパートメントに、品の良い老婦人がうつらうつらと舟を漕いでいた。
正直に言ってしまえば、エトは自身の信仰のあり方を、はかりかねていた。それでも、エトはシエルと逃げることを選んだのだ。
ロランの亡骸に会えば、わかるのかもしれない。
信仰を遂げるために死にゆく彼は、どのような顔で最期を迎えたのだろうか。苦痛の果てか、それとも。エトは窓枠に頬杖をつき、思索の海に沈んでいると、向かいの席に座るシエルが口を開く。
「痣が濃くなれば、それだけ効能が高まる。あのまま塔に留まれば、お前も首都へ行かされただろうな」
「首都では、何が行われているの」
「長患いの上流階級に、アロマでも振舞ってやるのさ」
シエルは自嘲気味につぶやいた。その声は、疲弊に満ちている。
「暇だろ、昔話に付き合ってくれよ」
エトは黙したまま頷いた。シエルがこういった話を持ちかけるのは、初めてのことのように思われた。
「なあ、人が死ぬ瞬間を、目の当たりにしたことがあるか」
「いいや」
「俺はある」
シエルは深く息を吐き出した。
「一昨年の冬に死んだやつは、ひどく反りが合わなかった。きっかけは些細な喧嘩だったな。けど、神をことごとく否定したら、ひどく逆上して、そのまま死んでいった」
彼の者は、きっと花の香を纏いながら死んだに違いない。甘やかな警告にも気付かずに、蔦が心臓を搦めとる様を想像する。あまりにも残酷な光景だ、とエトは思った。
「恐ろしい死に顔だった。ああいうのを、憤怒っていうのかもな」
「シエルは、死をどう思ってるの」
「永遠の暗闇だ。現世の行いなんて、きっと関係ない」
腕を組み、はっきりとした語気でそう言い切ってみせたのも束の間、彼は悩ましげにかぶりを振った。
「偉そうに講釈垂れたところで、真実は死者のみぞ知るんだろうな」
「きっと、そうなんだろうね」
つまるところ、確かなものなど、何一つないのだ。
2人がぽつぽつと言葉を交わす間にも、列車は風をきって進みゆく。振り返ったところで、もう塔は姿を消していた。
「もう、塔が見えなくなった」
「寂しいのかい」
「いいや、まさか。ロランがいなければ、名残惜しさもない。けれど、ただ……」
列車は石造りのトンネルに差し掛かった。あと一時間しないうちに、首都へ辿り着く。
「もう一度、お前のピアノをきいておいた方が良かったのかもしれないな」
「私を、買いかぶりすぎだよ」
「どうだろう」
シエルは曖昧に、相槌を打つ。二人の会話は、それきりだった。