複雑・ファジー小説

Re: 植物標本 ( No.3 )
日時: 2018/08/08 10:02
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

【スノードロップ】

 神さまが愛するのは、それは大層うつくしいものなのだという。真白のレース、朝靄にかすむ蝶々、そして無垢な子供たち。神さまは一等、汚れのないものを好んだ。花の病は神さまの寵愛。だから、清らかな子どもの間のみ、花の病は宿るのだ。




 教壇に立つ老人は、熱心に言葉を紡ぎ続ける。これこそが自分の天命なのだと、高らかに宣言しているようだった。

「ですから、貴方達の本分はこうして物事を学び、教養を身につけ、健やかな魂を育むことなのです。そうして人々に慰めを施して……」

 彼の言葉が途切れたのは、講義の終わりを告げる鐘が鳴ったからだ。眉を顰め、教科書を閉じると、やおらな動作で教室を去る。子どもたちは退屈な時間から息を吹き返し、一斉におしゃべりを始めた。
 塔での過ごし方は、厳粛な規律に則って決められている。太陽が真上に登る刻まで、勉学に励まなければならない。古めかしい決まりごとの一つだ。

「健やかな魂って、なんだろう」

 遠ざかる老人の萎んだ背中を見つめ、エトは呟いた。健やかな魂。塔で暮らして一月余り立つエトでさえ、この言葉を何度聞いただろう。あまりに漠然とした言い方は、エトの胸にささやかな小石を投じた。一体、何をもって健やかと呼べるのだろう。
 中々机を離れないエトの側に、隣部屋のネリーが近づく。彼女は丁寧に編まれたおさげを揺らし、エトの顔を覗き込んだ。

「エトは難しいことばかり、考えるのね」
「ねえ、ネリーは自分が健やかだって思うかい?」

 そう問われて、ネリーは面食らった顔をする。そうして、うつむきがちにしばらく考えこんだ。

「わたくしは、そうね、花の病ということを除いては、とても丈夫だと思うの。でも、心のことになると、あまり自信がないわ。よく皆から鈍臭いってからかわれるし……」

 あまりに辿々しく、弱々しい物言いだった。自分のことが不甲斐なくなったのだろう、ネリーは途中ではっとしたように顔を上げる。滑らかなビロードの肌は、羞恥心のためか僅かに紅潮していた。

「それよりも、はやく次の講義室へ行きましょう」

 ネリーはぎこちない笑顔を作り、立ち上がるように促す。エトはこの弱気な友人を、一層憐れに感じた。

「そうだね、ごめん、変なことを聞いてしまって」
「ううん、大丈夫」

 エトは教科書を手に取り立ち上がる。その拍子に、教室の入り口近くに佇む少年と目があったことに気づく。シエルだ。真っ直ぐとした視線がかち合う。シエルの瞳は、例えるならば冬の夜空だ。果てなく透き通った、とこしえの藍。神さまが彼に花の病を与えたのは、きっとその星空に魅入られたからに違いない。エトは息を飲む。ふと、シエルの目が細められ、そうして顔を背けた。まるで、何事もなかったかのように、彼は隣の少年に話しかけていた。

「……もしかして、シエルと仲良し?」

 その始終を隣で見ていたネリーは、こわごわとたずねる。

「一度だけ、話したことがあるけど」
「だめ!」

 ネリーが珍しく声を張り上げる。ネリー自身、大きな声を上げたことに驚いた様子をみせた。唇はわななき、その顔色はどこか仄暗い。

「あの人、よくない噂ばかり聞くの」

 エトに詰め寄り、声を落として囁く。エトはもう一度、脳裏にシエルの姿を思い浮かべた。確かに、彼は近寄りがたい雰囲気がある。

「陰口は好まないな」
「本当よ! シエルこそ、健やかな魂とはほど遠い人だわ。あの人は自ら、堕落しようとしてる。一昨年のことだってそう……」

 ネリーの鬼気迫る様子に、エトは思わず後ずさる。

「……一昨年?」
「ううん、何でもない。ごめんね、忘れて」
「……ネリーがそういうなら、わかったよ」

 さあ行こうと、エトは友人の背中に手をかける。ネリーはもう落ち着いたようだった。
 しかし、彼女の言葉が耳について離れない。シエルが、堕落しようとしている。エトは純粋に勿体ない、と思った。神さまに手ずから選ばれたというのに、それをどうして裏切る真似をするのか。

 私だったら、絶対に手放してなるものか。

 精巧に磨き上げられた、宵の双眸を持つ少年。神さまに愛されたのだから、こちらも尊崇を持って愛を返せばいいのだ。たとえ、蜜時がいつ終わると知れずとも。