複雑・ファジー小説

Re: 植物標本 ( No.4 )
日時: 2018/08/09 11:08
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 エトには、見覚えがあった。繊細な茎に垂れ下がる、小ぶりな白い花弁。それが、一輪彼女の部屋の前にぽつねんと置かれている。

「……スノードロップ」

 どうして、ここに。彼女はスノードロップを拾い上げ、鼻に近づけた。品の良い、楚々とした香り。エトは指で白い花びらをもてあそぶ。

「良かったね、それは歓迎の証拠だよ。新入りには、花を贈る風習があるんだ」
「そうそう、だから大切にしないとね」

 二人組の少女が、あどけない笑い声でさえずりながら、エトの後ろを通り過ぎて行く。揶揄われている気がして、良い心情ではない。しかしあまりに無邪気な声だから、エトは呆然と立ち尽くすほかなかった。




「朝起きたら扉の前に、花が飾られてたんだ」
「まあ、そうなの」

 時折、昼下がりにはネリーと二人だって塔の外へ赴くことがある。バスケットと小瓶を抱え、湖のほとりに腰掛けるのだ。湖の周りを深い森が取り囲んでおり、外へ出る手段は古色蒼然とした列車しか残されていなかった。もっとも、子どもたちは勝手に外へ出てはならない。こうして湖のそばに行くまでが、彼女たちに残されたなけなしの自由だった。
 エトは緩やかに腰を下ろし、静謐につつまれた湖面を見つめた。初めて母と塔へ訪れた日を思い出す。もう、はるか昔のことのように思われた。

「スノードロップでさ、花を贈るのがここでの風習なんだって?」
「ううん、わたくし、知らないわ」

 ネリーはきっぱりとそう言い放った。たおやかな動作で、小瓶から紅茶をカップへ注ぎ込む。湯気がふわりと立ち上がった。

「ふうん……。ああ、私は砂糖はいらないよ」
「そうなの、ごめんなさい。でも、不思議よね。スノードロップなんて」
「どこの誰がやったんだろう」

 エトが静かに呟いた。ネリーからティーカップを受け取り、喉元に流し込む。ネリーは戸惑いを隠そうともしなかった。

「犯人探しを、するつもり?」
「まさか、犯人だなんて滅相もない。私を歓迎してくれた証だろうしね」
「そう、そうよね」

 おそらく、彼女は面倒ごとは避けたいのだろう。ネリーは安堵で胸を撫で下ろす。その様子を横目に捉え、エトは苦笑した。犯人探しだなんて、全くなんてネリーは大げさなのだろう。

「私の故郷は、スノードロップで香料を作ってたんだ。もし材料が揃っていたなら、君に香水でもプレゼントしようかな」
「それじゃあ、一輪だと足りないわね」

 おや、と思った。けれどもエトは違和感をうまく飲み込む。ネリーは良き友人だ。男の格好をしたエトを認め、親しくしてくれている。気の弱い彼女のことだ、ここで言及してしまったのなら、顔を曇らせてしまうに違いない。
 代わりに、エトはやわく相槌を打ってみせた。

「……そうだね」

 ネリーにはこれ以上聞くことは見込めないだろう。だとしたら、誰に尋ねれば良い。エトは、宵の眸を持つ少年を思い浮かべた。