複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.5 )
- 日時: 2018/08/10 16:10
- 名前: 凛太 (ID: KG6j5ysh)
彼の友人曰く、シエルは本の虫だという。書庫の張り出し窓、そこがシエルの定位置だった。彼は頬杖をつき、退屈そうに本を読んでいた。ページをめくるたびに、紙と紙が擦れ合う音がひびく。
「シエル、ご機嫌はどうだい」
「……エニシダ」
努めて鮮やかに挨拶をすれば、返ってきたのは無骨な一瞥のみだった。エトは怯みも臆しもしない。むしろ、彼の瞳を眺めたいとさえ思った。
「私にはちゃんと、エトって名前があるよ」
「誰からここのことを聞いた」
「ロランからだよ」
シエルは額に手を置き、束の間ため息をつく。窓枠に寄りかかり、悩ましげな顔をする彼の面差しは、一種の絵画を連想させた。
シエルはエトに向き直り、不機嫌そうに口を開く。
「それで、何の用だ」
「君、ここの塔の慣習を知ってるかい。新入りに花を贈るっていう」
「……ああ」
「私の部屋にスノードロップが置かれてたのだけれど、何か知っていることはないか?」
瞬きほどの間、シエルは訝しげに眉をひそめた。そうしてその後、何か思いついたように、口角を上げる。悪戯めいた彼の笑みを、エトは物珍しそうに見つめた。
「どうして俺に」
「まだ、ネリーくらいしか親しい人はいないから。その彼女も、そんな慣習は知らないって言うしね」
シエルは値踏みするような視線をエトに向けた。胸の内側がひりつく感覚を覚える。
「知ってる」
「本当に!」
「でも、ただで教える気はない」
その言葉に、エトは身構えた。けれども、その必要などなかったと気付くのは、数秒後。彼の望みは、本当にたわいのないものだったのだ。
「そうだな、ピアノ……。もう一度、ピアノを弾いてくれたら、教えてやるよ」
彼の目は、たしかにきらめいていた。
ここに来たのは、初日以来だ。出入りは無いようで、荒れたままに楽器の類が放って置かれている。かつては、音楽室として使われていたのだろう。
エトは真ん中に据えられたピアノを前に座っていた。重厚な蓋を開け、鍵盤に指を置く。不思議と、このピアノだけは手入れされているようだった。鍵盤を叩けば、気持ちの良い音がこだまする。
「恥ずかしいな、あまり人前でピアノを弾く機会なんてなかったから」
「誰から教わったんだ」
「エメ……私の兄に教わったよ」
エトは自らの兄の顔を思い出そうとしたが、それは徒労に終わった。ただ兄が死に招かれた日の、冴えた空気の感触だけが、妙に生々しく残っているのだ。冬の日、星が天幕を覆い、母は兄の亡骸に縋り泣いた。
それらを振りほどきたくて、エトは首を横に振った。
「それにしても、君が音楽に造詣があるとは意外だな」
「知り合いのせいでね」
シエルが肩を竦める。
「ふうん、良い知り合いだね」
エトは鍵盤に目を落とし、指を滑らせた。彼女が知っているのは、兄が弾いていた曲だけだ。それでも、完璧に覚えているわけではない。もしかしたら、数年の時を経て、全く違う曲になっているのかもしれない。だが、それでよかった。エトにとってのピアノとは、自分を映す鏡なのだ。
「さて、始めようか。けれど、本当に私のピアノでいいのかな」
「お前のピアノが、好きだから」
「そういうこと、他の女の子に言ったら素敵だと思うけどね」
扉の前に花を飾るのは、歓待を示すものではない。元々は、密かな文通の役割を果たしていた。恋う者に、相応の花言葉を添える。それが転じて、子どもたちの悪戯の道具として使われるようになったのだ。
スノードロップの花言葉は、友を求める。じゃあ、他の意味は?
シエルの皮肉めいた笑みを憶う。スノードロップは希望の象徴だ。けれどももう一つ。あのしとやかな花は、死の象徴なのだ。
では、どうしてネリーは知っていたのだろう。エトの部屋に飾られていたスノードロップは、一輪だけということを。