複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.6 )
- 日時: 2018/08/14 13:46
- 名前: 凛太 (ID: a0p/ia.h)
振り返ってみれば、ネリーはいつだって特別に焦がれていた。幼い頃から好んでいたおとぎ話のお姫様は、自然と王子様と惹かれ合う。彼女たちは、みんな特別なのだ。だからネリーが花の病を患った時、彼女は幸福そのものだった。神さまに選ばれたのだと。背中に咲いたスノードロップ。奥ゆかしく、楚々とした彼女には、似合いの花だ。
けれど、どうしてだろう。塔に来てからの日々は、鬱蒼としたものだった。ひどく閉鎖的な場所だったからかもしれない。塔の子どもたちは、薄鈍いネリーを馬鹿にする。いじめというほど酷くはないが、揶揄いというには耐え難い。それでもネリーが一途に忍んでいた理由は、王子様に起因していた。夢見がちな彼女は、いつか自分を迎えにくる誰かを、待ち望んでいたのだ。
「ねえ、ネリー。夜分遅くに失礼するよ」
「……どうしたのかしら」
エトは憂鬱な足取りで、ネリーの部屋に入った。彼女の部屋はよく整っており、かすかに柔らかい清涼な匂いを感じる。ネリーはあどけない顔で寝台に腰かけていた。
「私は君のこと、とても良い友達だと思っているんだ」
「ふふ、どうしたの、いきなり」
慎重に、ネリーへ近づく。当の彼女は、あまりに軽やかに微笑んでいた。
「だから、あまり誤解せずに聞いてほしい」
衣嚢からスノードロップを取り出してみせる。ネリーの笑顔が強張った。彼女の視線は、そのたおやかな一輪の花に注がれていた。エトは深呼吸し、慎重に言葉を選ぶ。
「これを置いたのは、君だね」
「知らないわ」
ネリーの顔は、気の毒なくらい青ざめていた。エトは追及の手を緩めない。
「ネリー、どうして私の部屋に置かれたスノードロップが、一輪だけだと知っていたんだ」
「エトの部屋を通りかかる時に見かけたのよ。隣の部屋だもの、おかしくはないでしょう」
「けれど君は、私がこの話を持ちかけた時、知らないふりをしたね。それってつまり、贈り主を当てられてしまったら、困ることがあるみたいだよ」
瞳がこぼれてしまいそうなほど、ネリーは目を見開いてみせた。そうして、ゆっくりと口を開く。
「……だって、仕方ないじゃない」
「どうして」
「エトは、わたくしの王子様なの」
ネリーは立ち上がり、エトの手からスノードロップを奪い取った。
「初めてエトに会った時、男の子だと思ったわ。とても綺麗な男の子。でも、男の子なんかより優しくて、かっこいいの。こんなの、王子様みたいでしょう!」
胸にスノードロップを押し当て、彼女はうつむいて言葉を紡いだ。ゆるやかに感情の波にのまれるように、段々と鈴なりの声が大きくなる。ネリーは、激昂しているのだ。
「ずっと、憧れていたわ。お姫様が幸せになる場面を。だからエトと仲良くなって、そうすれば幸せになれるんじゃないかって。でも、シエルが」
「……シエル?」
「シエルは、いつだってみんなの注目を攫うわ。特別なのよ。そんなの、ずるいわ! 一等神さまに愛されたシエルが、私の王子様に近づくなんて!」
叫声が破裂する。ネリーは大きく肩を上下させた。息を切らしているのだろう。宥めようと近づけば、ネリーの白魚の手で振り払われる。エトは躊躇しながらも、話を試みる。
「けれど何故、こんなことをしたんだ。私は怒ってないよ、こんなの可愛らしい悪戯だとさえ思っていた。でもね、ネリー。死を願われているなら、話は別だ」
「……ちょっとした自己満足で、警告のつもりだったの。わたくしの王子様にならないなら、いっそのこと。でも、すぐに後悔したわ。馬鹿な嫉妬だったの」
ネリーの虚ろな視線が、エトを捉える。いつのまにか、部屋の香りは色濃くなっていた。噎せてしまいそうな甘い匂いに、エトは顔を歪める。
「ごめんなさい、エト。やはり、わたくしは、友達というものがよくわからないの。ごめんなさい……」
ネリーの瞳から、露が零れ落ちる。途端に、あたりはしじまに包まれた。さめざめと泣くネリーに近づき、エトは彼女の細い肩を抱く。甘い匂いは、ネリーに寄るほど、強くなった。懐かしい感覚に襲われる。ややあって、これはスノードロップの匂いなのだと、ようやく気がついた。
「……エト?」
「私は、君の良き友達でありたい。そう願っているんだ。君がお姫様だったとしても、そうじゃなくても構わない。ネリーと、友達になりたいんだよ」
淑女を硝子細工のように、繊細に扱いなさい。それが、紳士の、エトの務めよ。
脳裏で、繰り返しちらつくのは、母の呪いだ。ネリーは王子さまを望んでいる。ならば、そのように振る舞うのが、エトの役目なのだ。この友人に、赦しを与えなくてはならない。エトは柔らかく彼女の背中を撫でた。次第に、ネリーは落ち着きを取り戻した。甘やかな香りも薄らいでいく。
「さあ、夜も遅い。もう、寝よう」
ネリーはエトの肩に顔をうずめていたが、やがては小さく頷いた。
塔の子どもは、まさしく花だ。少しの憂いでさえ、儚くも朽ちてしまう。外から隔たれたこの歪な温室では、健やかな魂を育むなど、とうてい及び難いことのように思われた。