複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.7 )
- 日時: 2018/08/12 14:05
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
【幽霊列車】
夜は冷たく、暗い海の底を連想させた。月は冴え、湖は黒々と口を大きく構えている。エトはかすかな蝋燭の光を頼りに、自室の安楽椅子に腰を下ろした。夏というにはまだ肌寒い。エトは茜色のブランケットを膝にかける。
「……列車だ」
窓の向こう、列車の灯りが夜の帳を縫って遠ざかってゆく。かつてエトを乗せた列車は、時折夜中に動いていることがある。塔の子供たちが、あれは幽霊列車なのだと勝手な推測を飛ばしあっていたのを、よく覚えている。
あの列車に乗れば、外へ出られるのだろうか。エトはぼんやりと考えを巡らす。けれども、外へ出たとて、小さなエトに何ができるのだろう。
夜が明ければ、子どもたちは徐々に活動を始める。エトは制服に着替え、顔を洗い、髪をくくると食堂へ赴いた。何十人の子どもたちが小さな部屋でひしめきあっている。ひときわ、端のテーブルでは喧騒が飛び交っていた。二人の少年、レオとユーゴは額を付き合わせ、何事かを言い争っていたのだ。
「あれは、絶対シエルだったんだ!」
「どうせユーゴの作り話だろ」
ユーゴは必死に弁明をする。鼻の頭に浮いたそばかすは、僅かに赤らんでいた。一方のレオは飄々とした様子で、パンを千切っては口に放り込む。
レオとユーゴは双子の兄弟だ。くすんだ赤毛を掻き乱し、ユーゴはため息をついた。
「おはよう、どうしたんだい」
「おお、エト! 今日も相変わらず見目麗しいね」
「聞いてくれよ、エト!」
助けが来たと言わんばかりに、ユーゴは両手を挙げた。エトは彼の隣に腰掛け、林檎に手をかける。
「エトはこの塔に来てから三月立つな。それなら知っているだろ、幽霊列車の話」
「ああ、もちろん」
「あの列車には誰も乗っていない、無人で走ってるって話だろ。まあ、あんな真夜中に走る列車なんて、聞いたことないな」
エトは興味深そうに、双子の話に耳を傾ける。
「俺、見たんだ! 夜、シエルが塔の外へ出て、あの列車の方へ行く姿」
「あはは、夜中の外出は禁じられているだろう」
エトは晴れやかに笑い声をたてた。しかし本当ならば、シエルは何故夜中に出歩いているのだろう。暗闇の中に混じってしまえば、彼の瞳はどのような色を見せるのか。
「寝ぼけてたんじゃねえのか」
「いいや、絶対違うね。俺の部屋は眺めがいいから、駅がよく見えるんだ」
歯切れ良く言い切るユーゴに、レオは苦笑いする。双子でかくも違うのか、とエトは密かに感心した。どちらかといえば、レオの方が付き合いやすい。物知りで頭の回転が早く、何より面倒見がいいのだ。
「それにしたって、シエルが列車に乗ってどこへ行くっていうんだ」
そういえば、とエトは首をひねる。大抵の子どもたちは、朝陽を浴びるとたちまち食堂へ集う。しかし、シエルの姿はどこにもいないのだ。
「……そういえば、シエルは?」
「あいつ、よくどこかへ消えるからなあ」
ユーゴは不満そうに口を尖らせる。
「ねえ、それなら幽霊列車の噂、確かめないかい」
エトの提案に、双子の兄弟は目を丸くした。彼女は至極楽しそうに、口元を緩めている。
「エト、本気か?」
「最近退屈してたんだ、塔の暮らしは代わり映えしないからね」
「俺、お前のこと優等生のいい子ちゃんだと思ってたぜ」
レオは感心したように、顎を撫でた。
「それに、シエルばかり外に出るなんて、ずるいだろう」
そうだ、彼ばかり卑怯なのだ。どこか浮世離れした彼の秘密ごとを、少しばかり暴いて見せたとしても、大して罰など当たらない。エニシダの娘の心は、不思議と弾んでいた。