複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.8 )
- 日時: 2018/08/16 20:52
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
ネリーは頬に手を当て、眼前の友人を見つめた。彼女はいつものように、飄々とした笑みを携えている。
「その、本当に大丈夫なの」
「ネリーは心配性だね」
「だって、規律に違反するでしょう」
とうに陽が落ちた談話室は、エトとネリーを除いて誰もいない。黄昏色のソファーに深く座り込み、ネリーはかけるべき言葉を探していた。
ネリーが激昂した夜から、彼女は憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。時折、エトへの罪悪感を顔に出すものの、ネリーの心は穏やかだった。恐らくは、エトに認められたのだという自尊心が、惨めな嫉妬を封じ込めたのだろう。
「それなら、シエルだってそうだよ」
「そうだけど……」
これ以上、何を言っても拉致があかないと察したのだろう。ネリーはそれきり押し黙ってしまった。
「それに、ネリーだって幽霊列車の謎が気にならないの?」
「わたくし、貴女にあんなことをした手前、あまり信用がないかもしれないけれど。エトに何かあったらと思うと、心配なのよ」
「大丈夫だよ、ああ、もうすぐユーゴたちとの待ち合わせだ」
時計を見遣れば、門限は過ぎていた。
「じゃあ、もし何かあったら、先生方によろしく」
「エト! ……もう」
ネリーは頬を小さく膨らまし、駆けゆくエトの背中を見送った。それにしても、彼女は、少年特有の澄み渡る清らかさを持ち合わせている。ネリーは友人を、まばゆく感じた。
「やあ、待たせたかな」
「いいや。カンテラは持ってきたか?」
「ああ、談話室からくすねて来たよ」
落ち合う場所は、一階のエントランスと決めていた。昼間に見せる雰囲気とは違い、暗闇の広間はどこか物寂しい。神さまを象った彫刻や、壁に飾られた絵画は、たわやかな闇に溶けていた。
エトはカンテラを掲げてみせる。年代物だが、使えなくはないだろう。ユーゴは満足そうに口角を上げた。
「よし、なら行こう。どうせ玄関は閉まっているだろ。俺、とっておきを知っているんだ」
「とっておき?」
「ああ、そうさ」
ユーゴがそう言うなり、彼を先頭にして暗闇を進んでいく。ささやかなカンテラの明かりは、少し風が吹けば消えてしまいそうだった。
足音を忍ばせ、うねるような廊下を右に左に歩んでいくと、たどり着いたのはすすけた物置部屋の前だった。普段ならば、あまり人が来ないようなところだ。いつのまにか、ユーゴの右手には鍵束が握られている。彼は手慣れた仕草で鍵を開けると、中に入るように促した。
「中は暗いから気をつけろよ」
物置部屋の中は予想通りと言うべきか、木箱や家具が散乱し、酷い有様だった。けれど、エトの注意を引いたのは、それらではない。部屋の奥、地下へ繋がる階段があったからだ。
「この道は、古くから伝わる、秘密の地下通路なんだ。俺も上級生から鍵をもらってさ。今日まですっかり、忘れてた」
淀みない足取りで、ユーゴは階段を降りてゆく。その後ろ、レオとユーゴが連れ立って、彼の背中を追いかけた。
地下はそこまで深くないのだろう。やがてすぐに最後の一段を下りると、狭く細い廊下が、3人を手招くように待ち構えていた。しんしんとした静寂に、彼らの靴音が散っていく。
「君たちは、どれくらい塔で過ごしているんだ」
「5歳の頃に来たから、7年目くらいだな」
せめてもの暇つぶしにと、エトが問えば、レオが指折り答えた。乳飲み子を終えて、たった数年余りの子が、親と引き離される。彼らの両親は、何を思ったのだろう。
「来たばかりの頃は、寂しかったろう」
「そうでもないさ、ユーゴがいたし、それに」
レオの、ひそやかな息遣いが聞こえてくる。
「花の病は光栄なことだからな」
それは彼らの、いいや、花に病める子どもたちの誇示だ。親元を離されようとも、故郷に立ち入ることが許されなくとも、神さまに愛されたというだけで、充分なのだ。彼らの母は、花の痣をいただいた時、悲嘆に暮れたのだろうか。それとも。
「ああ、もうすぐ地下を抜けるぞ」
ユーゴの声に、エトははっとする。これ以上は、関係のないことだ。エトは自身にそう言い聞かせ、考えるのをやめた。