複雑・ファジー小説
- Re: 植物標本 ( No.9 )
- 日時: 2018/08/14 09:30
- 名前: 凛太 (ID: a0p/ia.h)
地下通路の果ては、塔の外に拵えられた、煉瓦造りの納屋へ繋がっていた。納屋の心もとない扉を押しやれば、直ぐそこには夜の世界が待ち構えている。青草の匂いが鼻をかすめた。透き通る、藍色の空気がほほを撫でる。
「夜の空気なんて、初めてかもしれない」
「さすがに寒いなあ」
双子の兄弟は、口々に感想を漏らしながら、清涼な空気で肺を満たした。彼らは5つで塔に来たのだから、夜の何とも知れぬ、はりつめた心地はさぞかし新鮮だろう。
駅へ行くには、塔と湖を囲う森を、少しばかり抜けなければならない。道は舗装されているものの、鬱蒼とした影を濃く落とす木々は、不気味な静けさをたたえている。3人は慎重に、森の中を進んでゆく。
「それより、本当に今日、幽霊列車は来るのかい」
「本当だとも。あれは不規則に見えるようで、ちゃんと法則があるんだ」
「ふうん……」
エトが小さく呟く。兄弟たちは、ひそやかな熱気に包まれていた。
「なあ、ユーゴ、本当に幽霊列車が来たらどうする」
「そうだな、取り敢えず、首都へ行って、お菓子や玩具をたんまり買い込むのもありかもな。ああ、でもそれだと神さまに背くことになる」
彼らのやり取りを、エトは一番後ろで眺めていた。その姿に、微笑ましいとさえ感じる。彼らはまだ、齢12の子どもなのだ。ささやかな冒険譚は、彼らの小さな胸を満たすには、充分すぎるほどだ。
エトが彼らのやり取りに加わろうと口を開いた時、誰かに腕を引っ張られ、茂みの中へ引き込まれてゆく。この暗闇の中だ、ましてや後方にいたエトの異変に気付くものはいない。カンテラは、先頭のユーゴに託してしまったのだ。エトが自身に絡みつく、何かを振り払おうともがいた時だった。聴き馴染んだ声が、耳をくすぐる。
「落ち着けよ」
「……シエル」
じんわりと目が闇に慣れていく。シエルは掴んでいたエトの左腕を離し、そうして人差し指を口元へ遣る。目と鼻の先に並んだ宵の眸は、暗闇の中でさえ、ひときわ輝いているように思われた。エトは暫し少年の瞳に見惚れ、そうして、やっとのことで立ち上がる。既に、ユーゴとレオの背中はなかった。
「どうして君がここに」
「それはこっちの台詞だ」
シエルは呆れたように顔を顰める。彼のしなやかな指先の間には、白い紙巻き煙草が挟まれていた。
「どのみち、あいつらはこのまま駅に向かえば、見張りの大人たちに捕まるだろうな」
「……煙草。こんな嗜好品、どこで手に入れたんだい」
「列車に乗って、首都まで行けば腐る程ある」
そうして緩慢な動作で煙草をくゆらせるシエルは、ひどく円熟して見えた。エトは眉間に皺を寄せ、咎めるような視線を送る。
「君、本当に幽霊列車に乗っているのか?」
「幽霊列車だって。馬鹿馬鹿しい」
堪えきれず、シエルが盛大に噴き出した。ひとしきり笑い終えると、彼は煙草をエトに突きつけた。鈍い月明かりの下、仄青い煙がゆらりと立ち上ってゆく。
「いいか、そんなものありはしない」
「じゃあ、どうしてシエルは……」
「なあ、どうしてここの子どもたちはら塔に閉じ込められなきゃいけない?」
その言葉の先を紡げなかったのは、シエルが遮ったからだ。身を清め、信仰を高めるためだと。つぶさに、そう言い切ることができないことに、自身に腹が立った。
「……煙草は良くない。背徳的だ」
「俺は神さまなんて信じてない」
シエルは大仰に肩を竦める。月を背負うように佇む彼の姿は、何か神聖なもののように思えた。
「物事には、全て理由があるんだ」
「なら、ご教授願いたいね」
「時期にわかるさ。それより、塔へ戻ろう。大人たちがくる」
「レオとユーゴはどうなるんだ」
毅然としたエトの態度に、シエルは僅かに驚いてみせた。そうしてお手上げだ、とも言いたげに、両手を軽くあげる。
「大人たちに見つかるだろうが、レオは模範的だ。反省文の一枚で済むだろうな。むしろ、その方が安全だろ」
そう言いながら、彼はエトの手を掴むと、早足で帰路へ着く。幽霊列車は、シエルを首都まで連れてゆくためのもの。そして、大人たちが関係していることは、間違いない。エトは一つ一つのことを吟味し、咀嚼して、頭の中にしまい込む。とにかく今は、双子の兄弟の無事を祈るほかなかった。
「あの後、大変だったんだぜ。見回りの先生に見つかってさ」
「一晩中、反省文を書かされたよ。俺たちは悪い子です、ってな」
翌朝、エトは双子の兄弟に会うやいなや、その後の顛末を聞かされた。彼らの無事に、安堵の息をつく。
「そういや、どうしてエトは途中で消えたんだ?」
「ああ……靴紐が解けてしまってね。それを結んでるうちに、置いてかれたんだよ」
何故だか、昨晩のことは胸にとどめて置かなければいけない気がした。二人は納得したのだろう、寝惚け眼を擦りながら、昨晩の脱走劇がいかに素晴らしかったかを、誇張気味に語っている。
どうして、子どもたちは塔へ閉じ込められなくては行けないのだろう。
その問いかけに、エトは未だに答えられそうになかった。