複雑・ファジー小説
- Re: チュリーロゼッタ、可愛い君は ( No.1 )
- 日時: 2018/08/17 22:13
- 名前: 流聖 (ID: m.NeDO8r)
林檎酒
姉は、小さい頃から体が弱かった。治る見込みの無い病を患い、普通の子供のように外で遊んだり、出掛けることも出来なかった。学校に通えず、友達と呼べる存在も出来なかった。そんな姉を、まるで疫病神のように毛嫌いする親族達はろくに看病もせず、あからさまな皮肉や悪口を浴びせた。だから僕がほとんど姉の世話をした。
一日の大半を自室の寝床で過ごしていた姉に、僕は出来るだけ普通の生活をおくってもらいたくて、普通の女の子のように接した。今時の流行を特集した雑誌を買ったり、たくさんの服を与えた。親族達の嫌味が出来るだけ姉の耳に届かないように、極力親族達との接触を避けた。
一番気を使ったのは言葉だった。姉にかける一言一言をよく考え、細心の注意を払いながら言葉を選んだ。病人の気持ちを全て理解出来る訳ではないから、何に傷ついて、何を喜ぶのか分からなかったからだ。
姉の病気が発覚したとき、母は「こんな体に生んでごめんなさい」と泣きながら謝った。母にそのつもりが微塵もないのはわかっている。でも姉は傷ついた。姉はその時初めて自分が「こんな」体なのだと自覚したのだ。母が謝るような体に生まれてしまったと気がついた。もちろん姉は「こんな」体じゃない。母が謝らなければいけない体じゃない。少し普通と違うかもしれないけれど、不幸な体じゃないはずだ。
姉の前で外で遊んだり、友達と交流することもなるべく避けた。姉に外で遊んだり、友達と交流することは出来ないからだ。ラーメンやピザ等の塩分や糖分が多くて姉が食べられないものも食べないようにした。制服もなるべく着ないようにした。そうしなければ普通の僕と少し違う姉の差が浮き彫りになってはっきり感じてしまう。疎外感や嫉妬は抱いてほしくない。自己嫌悪に陥ってほしくない。だから姉と同じように、外で遊ばず、同じものを食べる。天気の良い日も中で読書をして、食事は味の薄い野菜料理を取る。姉が少しでも嫌な気持ちにならないなら苦ではなかった。
そうやって姉の気持ちをいつも気にかけていた僕は、姉の表情や声のトーン、視線等から気持ちを汲み取ることが得意になった。神経を研ぎ澄まして一つ一つの仕草に敏感になることで姉の心情は手に取るようにわかった。しかし、どうしたら姉がどう思うかわかった代わりに、僕への憎悪も感じ取れてしまった。
いくら姉と同じような生活をおくろうとも、やはり健康そのものの体に生まれた僕は、姉にとって嫉妬や憎しみの対象なのだろう。同じ家に生まれて育った人間なのに、明らかに違う周囲の態度、環境。それらは姉が僕を嫌う立派な理由だった。もし僕が一生姉に嫌われる代わりに姉の病気が治るのなら、僕は大いに喜んで嫌われただろう。それくらい、姉のことが好きだった。大人になっても、しわくちゃの年寄りになっても、僕は姉の側にいて支えたい。この生活が少しも苦ではないから。治ると信じているから。
「林檎酒が飲みたい。」
暑くも寒くもないその日、姉は唐突にそう言った。もう姉の命は長くなかった頃だ。
僕は冷蔵庫からサイダーが入ったペットボトルを取り出してコップに注いだ。冷たい飲み物は体に良くないから、飲むにはある程度人肌に温まるまで待たなければいけなかった。僕はお腹にペットボトルを抱えて温めようとした。冷たい物体が肌に当たるのはなんだか言葉にしづらい嫌な感じがある。くすぐったいというか、体がびっくりしているというか。それでも姉が飲みたいと言うのなら僕はやる。使命的なものだった。
「今すぐちょうだい。」
温まるまでに時間が多少かかるのは姉もわかっているのだろうけれど、こういった無茶ぶりはたまにあることだ。僕をからかっているのだろう。僕がどこまで姉の要望に答えられるのか試しているのだ。
しかし、今回ばかりは「今すぐ」という要望に答えられない。ただでさえ病気は悪化の一途を辿っているというのに、体に良くないことは尚更出来ない。ここは素直に出来ないと言うべきだろう。
「出来ない。」
僕がそう言うと、姉はあからさまに嫌な顔をした。まるで僕に失望したような、使えない奴だと思っているような目だ。
そろそろ温まってきたなと判断してコップにサイダーを注ぐと、シュワァと泡をたてた。はいどうぞ、と姉にコップを手渡すとぐいっと一気飲みをしてコップは空になった。喉が乾いていたのだろうか。もっと飲みたそうだな。僕がもっと飲む?と声をかけようとしたとき、姉が言った。
「あんたも飲む?」
意地悪な、女の笑みだった。
僕がまだコクりとも頷いていなければ、はいとも言っていないのに、姉はコップにサイダーを注いだ。するとサイダーを口に含んで不意に姉の顔の仄白さが僕の目の前に迫ってきた。
姉は目を潤ませて僕を見つめ、倒れそうに体を預けてくる。切れ長の目はぼやけてだんだん薄らいだ。唇はとうに見えなかった。僕は姉の肉の落ちた華奢な肩を抱いて温もりに触れた。指に伝わってくる脈の動きさえ、重なりあった唇に収斂されているようだった。姉の微かな花の香りがお互いの気息に充ちている。僕の唇を咬みながら笑みを浮かべて言った。
「病気がうつったら、私を憎んでね。そしたらおあいこ。」