複雑・ファジー小説
- Re: チュリーロゼッタ、可愛い君は ( No.16 )
- 日時: 2018/08/30 19:15
- 名前: 流聖 (ID: Hh73DxLo)
本の告白は秘密
今日も、図書室に行く。それは、彼女との暗黙の約束だ。名も知らない、会ったこともない素敵な彼女との。フィクションの本棚の三段目、一番右端にある本。表紙が茶色い皮でできていて、精緻な刺繍が施されている。擦りきれた本の端々からはかなりの年数を経ていることが伺える。紙の質、本の匂い、くすんだ色。少なくとも本の魅力としては誰もが気にしないところだ。でも僕はそういうところがいいと思う。ひっそりと、ただ静かに佇んでいる。目立つことはなく、手にされることも殆ど無いけれど、皺のついたページや色あせた表紙は、過去に多くの人が手にしたという証。この本は今からして過去の英雄なのだ。
その本に挟まれた白い、白い、純白のしおり。ミルクのようにまろやかで雪のように溶けてしまいそうな彼女のしおり。これは僕と彼女の告白だ。そのしおりが挟まれたページの一番最初の台詞。それが告白になる。今日、挟まれていたページの台詞はこうだ。
「私を、花だと思ってください。きっとそれが、合言葉になりますから。」
花、か。果たしてなんの花だろう。この本に出てくる花の種類はひとつしかない。山吹だ。日本の古来からそう呼ばれ、かのヤマトタケルが死ぬ原因となった鬼の名も山吹鬼という。それくらい有名な花だ。黄色くて小さいけれどたくさん集まると鮮やかな花だ。花言葉は、気品、崇拝…待ちかねる。待ちかねる。頭の中で何度も反芻する。彼女は僕を待っている。会いに来るのを、彼女はずっと期待している。
なんて告白しよう。この本に載っている台詞でなければいけない。パラパラとページをめくりながら彼女へ送る言葉を探す。綺麗な景色でも、心地よい音色でもない。僕が送れるものは本当に小さいけれど。この行為こそ大したものではないから。
ひとつの台詞が目に止まった。物語に出てくる情けない馬の一言だ。
「私は、よくきく嗅覚も、よく聞こえる聴力も、よく見える視力も、よく好かれる容姿も、よく戦える腕力も、よく走る脚力も、よく噛める顎の力も、持っていません。哀れな水が恵まれるのを待っている老馬です。しかし、花が育つのを見守ることは出来ます。」
これにしよう。このページに純白のしおりを挟む。綺麗な一点の穢れもないしおり。朝の冬空のような、幽霊の肌のような、朧気な白さだ。彼女もこのしおりをいとおしく思うのなら、このしおりが例え泥沼に落ちていようと、湖畔に沈もうと、僕は拾いたい。僕はしおりにそっと、口づけた。
***
今日は台風だった。天気予報でも知らされていなかった、突如現れた魔王のような台風。ごろごろと唸り声をあげ、時々稲妻の天罰を下す。きっと、僕が罪を犯したからだ。僕が清純なあのしおりに口づけたから、汚してしまったのかな。傘、持ってきてないんだよなあ。ちらりと横を見ると古典の女性教師がいた。まるでプールから上がったみたいなすっきりとした表情で、灰色の雲を見上げていた。
「あの、傘貸してくれませんか。」
僕がそういうと先生は、僕の方へ振り向いて小さく笑った。先生の瞳は水面のように僕を映して波紋をたてながら震えていた。ああ、泣きそうだ。僕も、先生も。周囲の人間が、言葉が、針に見えて痛いんだ。でも傷つく様は酷く美しい。そういう人だ。僕も、先生も。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」
本来の意味なら、どれだけ華やかに咲かせても実を結ぶことが出来ない山吹の花を悲しんだ唄だ。しかしこの場合、意味は傘が無いことを指している。昔は傘のことを「みの」といった。唄の「実の」と傘の「みの」をかけているのだ。普通は唄を詠まずに、山吹の花を手折って相手に差し出すことで伝える。しかし今は山吹の花がないから唄を詠んだのだろう。さすがは古典の先生だ、そういうことを知っている。
でも、じゃあ、つまり、彼女っていうのは先生なのか。
「先生、貴方が花なのですか?」
「では貴方が私を見守る馬だったのですね。」