複雑・ファジー小説

Re: 攻撃反射の平和主義者です! ( No.45 )
日時: 2019/09/12 09:02
名前: モンブラン博士 (ID: EUHPG/g9)

頭の中が真っ白で、考える気力が沸いてきません。
人は思いもよらない言葉を耳にすると、衝撃で思考が停止すると聞いていましたが、今のわたしはきっとその状態に陥っているのでしょう。
全身が脱力し、瞼が重くなるのがわかります。
段々と会議室の景色やカイザーさん達の姿がぼやけてきて、やがてわたしの視界は真っ暗闇に包まれてしまいました。
そこからどれぐらい時間が経過したのでしょうか、わたしは医務室のベッドに横になっていました。
誰が運んできたのでしょうか?
辺りを見渡しますが、わたしを除いて誰もいないようです。
連れてきてくれた人にぜひお礼を言いたいのですが。
ぐうぅ〜。
突然なったお腹の音で気づいたのですが、昼食前に会議が行われたこともあってか、お昼は何も食べていません。
わずかに吐き気がするのは、きっと空腹のせいです。
時計を見ますと時刻は午後六時。
正午から数えて六時間も絶食しているのですから、お腹が空くのも頷けます。

「ご飯を食べに行った方がいいかもしれませんね」

ベッドから立ち上がり、靴を履いて扉に歩いてみますと、
扉が開いてヨハネスさんが入ってきました。鹿撃ち帽子にインバネスコートの姿は変わらず、右手には何かの入ったカゴを持っています。

「目が覚めたんだね、急に倒れたから驚いたよ」
「もしかして、あなたがわたしをここまで運んできてくれたのですか?」
「そうだよ」
「ありがとうございます。重かったでしょう?」
「軽かったよ。それに、当たり前の事をしただけだから、お礼はいらない。それより、お腹が空いただろう?」

差し出されたカゴの中身は特大サイズのおにぎりが沢山入っていました。一番食べたいものをわざわざ持ってきてくれたヨハネスさんには感謝しかありません。
ベッドに二人並んで腰かけ、おにぎりを食べます。
白い湯気の立ったおにぎりは、口に含みますと柔らかなお米がふわっと消えていき、海苔の香りが鼻をくすぐります。
特大サイズですから一個でも満腹感を得られる作りになっています。わたしは嬉しさのあまり、指についたお米も残さず食べきり、ごちそうさまをした後に訊ねました。

「これってもしかして、ヨハネスさんが作ったのですか」
「僕じゃないよ。カイザーさんが作ったんだ。彼は料理は何でもできるからね。ところで——」
ここでヨハネスさんはわたしの顔を覗き込み、きらりと緑の瞳を輝かせて。
「僕と闘ってみる?」
「どうしてそのような提案をするのです?」
「君が僕の実力を疑っているみたいだからね」
「そんなことは全然——」
「誤魔化さなくてもいいよ。僕は何でも知っているからね」

慌てて手を胸の前で振って否定しますが、わたしの小さな嘘はお見通しのようです。
本人の前では申し訳ないのですが、わたしは確かにこの人の力を疑っています。
カイザーさんや不動さんと比較するとあまりにも華奢で、服装も戦闘向きではありません。
顔立ちは非常に美しいですが、それが戦闘を左右する要因にはなり得ないはずです。
スター流五本の指に入る実力も気にはなりますし、これからチームを組むのですから、相手の戦法を分かっていた方がいざという時の協力プレイも可能になります。

「ヨハネスさんの力を少し見せてください」
「その返事を待っていたよ。それから、僕は男だからね」
「えっ!?」

ヨハネスさんが男子という事実が、この日最大の驚きでした。
さらりとした髪に小さな顔、大きな瞳——顔立ちは美少女のそれですから、性別を間違えられるのも無理はありません。
本人がそう言っているのですから真実なのでしょうが、頭では分かっていても心では納得できないわたしがいます。

「着いたよ」

考え事をして歩いていたからでしょうか、地下六階の特訓施設にあっという間に到着してしまいました。彼は爽やかに笑うと、コンクリの地面を一飛びして舞い上がりますと、そこから華麗な宙返りを決めてリングの中央に着地します。
わたしも彼の後にコーナーポストから飛んで、リングインをします。ムースさんの試合時とは違い、観客はいません。
文字通り二人きりの試合です。
練習試合と言っても手を抜けば彼に失礼ですし、負けてしまうことだってあるかもしれません。
真剣勝負になるのは明らかです。

「試合の鐘は鳴らさないのですか?」
「鳴らす人がいないからね」

口元には穏やかな笑みが貼り付いていますが、彼の瞳には闘志の炎が燃え盛っています。もっとも、わたしも同じ目つきをしているのかもしれませんが。

「ヨハネスさん、あなたの実力を見せてください」
「君の期待に応えてあげるよ」

彼は本当に人間なのでしょうか。
試合が進むにつれて、わたしはヨハネスさんに疑念を抱くようになりました。
なぜなら、彼はわたしの攻撃を一切躱そうとしないのです。
拳も蹴りも無防備のままで食らい続けています。
数百、いえ、数千は放ったでしょうか。
わたしのパンチは並ではなく、一撃でコンクリートの壁くらいは難なく粉砕できます。
普通の人がわたしのパンチを受けてしまったら、それこそ首から上が消し飛んでしまうでしょう。
ですが、幾度となく撃ち込んでも彼は倒れるどころか後退さえしていません。トレードマークの鹿撃ち帽子やコートは拳や蹴りに摩擦で発生する熱により、所々ダメージを受けています。ですが、本人はニコニコと笑顔のままなのです。
「どうしたの。もっと打ってきなよ」
先ほどは後ろに組んでいた手を、前に持ってきますと、それをダラリと下げました。完全なるノーガードです。
防御の欠片すら見当たらないこの姿勢に、わたしは彼の小さな顎を狙って、アッパーを決めました。
ヨハネスさんの頭は上を向きますが、すぐに頭は元の位置に戻ってしまいます。
あれだけ殴られているのですから、通常は顔が痛々しいほどに腫れ上がるはずですが、彼は殴られる前も後も何の変化もありません。

「僕よりも君の手の方がずっとダメージは深刻のようだね」

指摘されて、自分の掌を見て驚きました。
何と、指が赤い血で染まっているのです。
ヨハネスさんのものではありません。
わたしの血なのです。
それはつまり、度重なる打撃によりこちらの手の皮が裂けたことを意味します。片手だけならまだよかったのですが、悪いことに両手が血染めになっているのです。
殴る方が痛いというあべこべな話は聞いたことがありませんが、これは事実なのです。
少なくともこれまでの攻防で彼に打撃が通用しないことがわかりました。
そうなると飛び技や関節技しか選択肢はありません。
この試合にルールは無いのですから、武器を使用しても良いのですが、武を学ぶ者として武器に頼るようではいけないと思うのです。
もっとも、そんなことを言ったらムースさんに笑われてしまうのでしょうが。
正直な話、わたしはそこまで飛び技を得意としません。
ですが彼に勝利するためには、あらゆる引き出しを開かなければ勝機を見出せないのです。
「いきます!」
嘗て不動さんが見せたように、相手と反対方向にコーナーポストに勢いをつけて走り、一気に最上段まで昇ります。
コーナーポストからヨハネスさんのいるリング中央までは意外と距離があります。
わたしの足のバネでどこまで跳べるかはわかりませんが、やってみないことには何もはじまらないのです。

「はああああッ!」

気合を入れて叫び、蹴りを見舞ったまでは良かったのですが、全体重を乗せたわたしの蹴りは、彼に到達する前に墜落してしまいました。
お尻が酷く痛むのは、きっとそこから落ちたからでしょう。

「アハハハハハハハハハハハハハ!君のキックは黒色のパンツを見せるしか能がないようだねえ」

指をさして大口を開けて高笑いするヨハネスさん。
彼の言葉にわたしの頭の中で何かがブチッと切れる音がしました。
女子のパンツを見ただけならまだしも、それを口に出すなど男子としては最低の行い、大衆の前なら大恥をかいていたところですから、見過ごすことはできません。
深呼吸をして怒りに飲み込まれないように注意を払いながら、そのエネルギーを身体の隅々にまで放出します。

「参ります」

攻撃を仕掛けてこないのですから反射能力は使えず、両手は出血によりボロボロ、打撃は効果がありません。
どんどんと攻め手を封じられていく辛さというのは、今までの闘いで味わったことがありません。
ですが、それでもわたしはこの人に勝たなければならないのです。男子にとっては些細なことで怒るなと一笑にするかもしれません。
真剣勝負に下らない理由で挑むとムードが崩れると文句を言われることもあるでしょう。
ですが、女子にとっては大変な屈辱なのです。
この悔しさを闘志に変えて、必ずや彼を倒します。

「ヨハネスさん、お覚悟はよろしいですか」