複雑・ファジー小説
- Re: 夜を統べる君よ ( No.2 )
- 日時: 2018/09/10 16:59
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
屋敷の中庭は、朗らかな静けさを秘めていた。緑の蔦が壁を這い、地には野花が滴る。カフネは、そこに居た。彼がなだらかな旋律を口ずさめば、野花や木々はふたたび、ともしびを宿す。
「カフネ」
キリグが声をかけると、少年はゆっくりと振り向いた。そうして、僅かに開かれていた口を閉じる。目の色や髪の色は、キリグと瓜二つだ。あどけなさを残してはいるが、二つ並んだ、挑戦的なまなこが印象的だ。
「はじめまして、カフネ。私はイチカ、貴方のお母様から言付かり、次期歌守りの家庭教師としてやって来ました」
イチカは一歩前へ踏み出す。カフネは灰色の眸を数度瞬かせ、そうして眉をひそめた。陰りが宿る。
「……聞いてないんだけど。おい、キリグ!」
カフネは声を荒げる。挑戦的な視線がキリグを射抜いた。いつものことなのだろう、キリグはため息をついてみせた。そうして、イチカに密かに耳打ちする。
「申し訳ない、カフネは先代を亡くしてから、気性が荒い」
かつて溌剌としていた少年に影を濃く落としたのは、母の死がきっかけだったのだろう。そうして、次期歌守りの重圧さえも、脆弱な背に負っていたのだ。
「家庭教師なんて、いらないだろう」
吐き捨てるように言ったカフネは、いたく大人びてみえた。けれども、イチカは一歩も引くことを知らない。それどころか、正面からカフネを見据えるのだ。二人の視線がかち合って、張り詰める。思わず、カフネは息を飲んだ。
「……それに、歌守りなんてなるつもりは、ない」
「でも、そうしたらこの美しいモーンガータの地は」
「うるさい、僕の知ったことか!」
カフネの叫び声が弾ける。中庭に轟いた声に、カフネ自身さえも驚いてみせた。怒りのせいか、彼の肌は淡く紅潮していた。風が吹く。穏やか昼下がりは、とうに泡となった。
イチカは黙したまま、かぶりを振った。カフネに近づき、僅かに屈む。灰色の双眸は、目と鼻の先だ。
「ならば、こうしましょう」
思いがけない言葉に、カフネの時が止まる。壁に背を預け、終始を眺めていたキリグさえも、呆気にとられていた。
「私は、次期歌守りの家庭教師になるために来ました。でも、君はなりたくないと言う。それならば単純に、カフネの友人として、一緒にいたい。どうでしょう」
「……無理に決まってるだろう、大人しく帰れ!」
「困ったことに、私、王都の家を引き払ってしまって、行くところないんです」
快活に、イチカは笑う。底のない、無垢な笑みだ。それに気圧されて、カフネが声を荒げることはなくなった。
「お前は、馬鹿か」
「一応、学は修めていますよ」
カフネが反論しようとして、口を開いたが、またすぐに閉じてしまった。キリグが側に寄ったからだ。彼は冷徹な眼差しをカフネに注ぐ。居心地が悪そうに、カフネは顔を逸らした。
「カフネ、いい加減にしろ。それ以上怒鳴ったら、喉を痛める」
それきり、カフネは何も言わずにその場を駆け出した。小さな背を見送って、後に残された二人は、互いに顔を見合わせた。そうして、キリグは軽く頭を下げる。
「イチカ、ありがとう」
「私は、何にもしてませんよ。怒らせてしまったくらいだもの」
「俺も、ここへ来て日が浅いけれど。カフネは長らく屋敷に引きこもっていたから、友達がいない」
一人きりの寂しさというのは、気づかぬうちにしんしんと降り積もり、やがては身を沈めてしまう。本来ならば、この屋敷は、カフネとその女中のみしか住まわない。この屋敷の空白を埋めるには、二人だけでは広すぎる。
「でも、あいつだってわかってる。歌守りの責任と、重圧を」
カフネは、いつだって母の傍らで歌守りの務めを見てきた。先代歌守りに座したカフネの母は、儚くも病で旅立たれた。モーンガータの民は、歌守りに縋らねばならない。この紺碧の地を、カフネの小さな身に引き受けているのだ。