複雑・ファジー小説
- Re: 夜を統べる君よ ( No.3 )
- 日時: 2018/09/15 20:36
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
【木漏れ日の街】
モーンガータの朝は、一等晴れやかな風を運びゆく。屋敷の部屋で、イチカは目を覚ました。寝台のそばに拵えられた窓を開ければ、朝のまどろみが頬を撫でる。丘陵地帯の麓、モーンガータの街並みが見渡せた。この屋敷に来てから、まだ一月にも満たない。けれども、イチカはこのモーンガータを気に入っていた。
イチカは手早く、朝支度を整える。そうして部屋を出れば、心地よい朝食の匂いがした。日が昇ると同時に、この屋敷の女中は働き始めるのだ。
「あら先生、お早いこと。サバヒ・カリメラ」
食堂へ行くと、もう既に朝食の準備は終わっていた。清潔なテーブルクロスに飾られた机の上に、パンや果物が並んでいる。この屋敷のただ一人の女中、アキヒはホットミルクの小瓶を携えて、花開くよう微笑んだ。ふくよかで、白髪交じりの髪を丁寧に編み結わいたアキヒの姿は、たおやかな気品がにじみ出ていた。
聞き慣れない言葉に、イチカは首を傾げる。
「サバヒ・カリメラ?」
「この地方で遥か昔に使われていた言葉ですよ。今でも、ちょっとした挨拶の時に言うんです」
イチカは口元を綻ばせ、興味深そうに耳を傾けた。長らく王都にいたイチカには、新鮮なことのように思われたのだ。席に着いて、マグカップになみなみと注がれた、蜂蜜入りのミルクに手を伸ばす。優しい味がした。
「どんな意味があるんですか?」
「光の朝よ、という意味を持ちます」
「ふふ、素敵な言葉ですね」
焼きたてのベーコンを口に運んだところで、ふと、イチカは辺りを見回す。二人きりの食堂は、大きさに見合わず物寂しい。
「カフネと、キリグさんは?」
「坊ちゃんはきっと、中庭ですよ。キリグさんは……どうでしょうね」
「こんな美味しい朝食をとらないなんて、もったいないなあ」
「まあ、ありがとう。でも、そろそろ来る頃でしょうかね」
折良く、扉が開く音がした。カフネとキリグが連れ立って顔を出す。カフネは常と変わらぬ、不機嫌を剥き出しにした表情を浮かべていた。
「おはようございます、坊ちゃん、キリグさん」
「サバヒ・カリメラ、カフネ。今日は課外授業をしましょう」
カフネはイチカを睨めつけた。ぶっきらぼうな仕草で椅子に腰掛けると、アキヒが注ぎたてのホットミルクを差し出す。
「だから、僕は歌守りになんてならないって」
「ああ、そっか、そうでした……」
イチカはしばし考え込む。そうして、名案だとばかりに、両手を合わせてみせた。
「じゃあ、友人としてお願いしましょう。このモーンガータの街を、案内してください」
皿に手を伸ばす、カフネの手が止まる。助けを乞おうとしてアキヒを見遣るが、無駄だった。
「でしたら、もうパイの材料を切らしていて……。坊ちゃん、買いに行ってくださいますか?」
「アキヒ!」
「じゃあ、朝食をたっぷりととったら、行きましょうね」
後に残るのは、同じ歌守りを生業とする、キリグばかりだ。最後の望み追い縋れば、青年は表情一つ変えず、ただ肩をすくめて見せた。
「……仕方ない。俺も、行く」
目に見える形で、カフネは落胆した。一方のイチカは、もう次の話に飛び乗っては、アキヒと談笑を交わしている。キリグは、未だにイチカを信用などしてはいなかった。カフネの母、先代歌守りから家庭教師の任を言付かったのは本当だろう。しかし、この脆く歪な少年は、ひとたび采を間違えてしまえば、朽ちてしまう。カフネを扱う力量が、イチカにあるのか。キリグの本心は、そこにあった。
モーンガータの街並みは見事だ。家々は漆喰の白い壁で統一されており、丘陵地帯から見下ろしたならば、白いさざ波がいくつも立っているように見えるだろう。加えて、紺碧の海と白い壁は良く映える。丘陵地帯の麓に面しているため、高低差があり、階段がなだらかに入り組んではいるが、ことさら趣を漂わせるものとなっていた。
イチカは目を輝かせ、モーンガータの商業区を眺めていた。活気がある通りは、いくつもの店が並んでいる。あいも変わらず白い装束に身を包んだキリグと、次代の歌守りのカフネを連れ歩いているのだ。行き交う人々は一行の姿を目に留めるたびに、軽やかな挨拶を投げかける。
「やはり、すごくいい街ですね」
「僕は嫌になるほど、見飽きてるけどな」
カフネはつまらなそうに、通りを悠々と歩く猫を目で追った。13年という年月を、この地で過ごしたのだ。今更、モーンガータに美しさを見出すことなどない。
「それにしても、キリグ、暑くないのか」
隣に佇む青年は、モーンガータの照りつける日差しにも構わずに、手首をも覆う装束を身に纏う。けれども、彼は涼しい顔をしていた。
「慣れているから」
「……ふうん」
本来ならば隣の領に住まう青年を横目で見ながら、カフネは考える。この真白の衣に慣れるなど、何年の月日が掛かるのだろう。聞き及んだ話では、キリグが歌守りになったのは、彼が19の砌だ。それから6年経ち、いわばよそ者でありながらにして、モーンガータの土を堂々と踏む。少年のカフネには、この年月は気が遠くなるくらい長いものに思われた。
「カフネ、案内して下さるんでしょう、はやくはやく!」
群衆に溶け込んでいたイチカは、いつのまにか二人の元へ帰っていた。幼子のようなまばゆいばかりの声を立てて、カフネの服の裾を掴んだ。
「ああ、わかったから引っ張るんじゃない!」
「だって、今日という日は限りありますから。ほら、あそこのお店から焼き菓子の匂い!」
カフネの抵抗も虚しく、イチカは彼の手をとって駆け出した。キリグは二人の背中をぼんやりと眺めては、緩慢な動作で歩き出す。イチカを咎めるべきだろうかと思案して、密かにかぶりを振った。もしかしたら、歌守りではないからこそ、導くものもあるだろう。