複雑・ファジー小説
- Re: 夜を統べる君よ ( No.4 )
- 日時: 2018/09/22 21:23
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
黒くこんがりと焼かれた、釣鐘型の焼き菓子を口いっぱい頬張る。砂糖とラム酒の濃厚な味わいが広がり、イチカは頬を緩める。その後ろに続くカフネもまた、ひそやかに焼き菓子の甘みを噛み締めていた。
賑わいのある商業区とは打って変わり、居住区はひっそりとした平穏に包まれていた。子どもが立てるはしゃぎ声や、主婦達の熱心な世間話。全てが綯い交ぜになって、やがてはひだまりへ溶ける。イチカの先導によって、いつのまにか居住区の方へ迷い込んでいたのだ。
「王都とは違って、ここはなんだかゆったりとしてますね」
イチカが呟いた。青と白に染め上げられた街を愛おしむように、褐色の瞳を細める。
「王都は、どんな所なんだ」
最後の一欠片を飲み込むと、珍しくカフネから声をかけてみせた。彼にとって王都とは、お伽話に伝わる国の一つに過ぎない。イチカは一つ伸びをして、はるか遠くの地へ思いを馳せた。
「あまり、良いところじゃないですよ。ごちゃごちゃしてるし、人は忙しないし」
「でも、お前の故郷なんだろう」
それは無意識に、口からこぼれ落ちたというようだった。カフネはばつが悪そうに、頸のあたりを掻いた。イチカは一拍置いて、そうして淡く笑む。
「そうですね。たった一つしかない、私の故郷ですもの」
そう、イチカがしまいこむように呟くと、こちらへ駆け寄る足音が響いた。
「あの、カフネ様でいらっしゃいますか」
不意に声をかけたのは、まだ年端もいかない少女だった。たどたどしい唇で、必死に言葉を紡ぐ。その顔は、どこか切迫していた。
カフネを腕で制して、キリグが前に立つ。
「代わりに、俺が話を聞く」
少女はキリグに驚いたようだったが、白い装束に歌守りと認めて、恐々と言葉を紡ぎ出す。
「お爺ちゃんの花畑を、どうか助けてください」
ひたむきなまでの少女の望みを受けて、キリグは真っ直ぐに頷いた。そして、彼女の頭を撫でる。
「大丈夫。俺は、歌守りだから」
その言葉は少女を、モーンガータの民を、かくも鮮やかに掬い上げるのだ。
少女の祖父の花畑は、袋小路になった路地裏にあった。花畑というにはささやかで、いつくかの鉢植えに季節の花が並んでいるに過ぎない。しかし、今はその花々も萎れてしまっている。そればかりではない。昏く澱んだ、肌がひりつくような空気と腐臭。瘴気だ。
「まだ、そこまで酷くない」
キリグは静かにつぶやく。
「イチカはその子を連れて、下がっていて」
「……はい、わかりました」
キリグに命じられ、イチカは少女の背に手を置いて、瘴気から遠ざかるように促す。カフネは縫い付けられたかのように、身動き一つ取ることができなかった。瘴気。歌守りが対峙しなければならないもの。本来ならば、モーンガータが歌守りたるカフネの務めだ。しかし、現に歌守りの装束を纏いて、瘴気を退けるのは、コンムオーベレ領のキリグだった。
「……カフネ、よく見ていて」
そう告げると、キリグは深く息を吸った。はじまりは、低い旋律だった。あまり抑揚のない、けれども慈雨が土に沁み入るかの声。遠い昔の言葉で奏でられた歌は、次第に独特の世界を形作る。澱みは宙にほどけ、腐臭は散り散りに、首をもたげた花々は生命の灯火を取り戻す。キリグが一節を歌い終えると、あとに残されたのはただの路地裏だ。同時に少女が歓声をあげて、キリグの元へ寄る。
「ありがとうございます!」
「これが、務めだから」
「そして、カフネ様も」
少女はカフネの方へ向き直り、深々と頭を下げた。歌守りの少年は呆気に取られる。何故、礼を言われるのだろう。花畑を守ったのはキリグで、この地の歌守りは何一つしていない。カフネは嫌悪感で溺れそうになっていた。
「どうして、お礼なんて」
「いいえ、カフネ様のお姿を拝見するだけでも、私たちは救われているんです。この言葉、お爺ちゃんの受け売りだけど」
少女はついでとばかりにイチカにも礼を述べて、弾む足取りで帰路へついた。カフネは物言わない。黙したまま、彼女が去った方を見つめるだけだ。そうっと、イチカが彼の隣に寄り添う。
「そろそろ、私たちも行きましょう。アキヒさんのおつかいも済ませなきゃ」
カフネの顔を覗き込みながら、イチカは言った。
「夜のモーンガータも、美しいですね」
屋敷へ続く石段を登りながら、モーンガータの街並みを眺める。白の街は夜色に飲み込まれ、星のきらめきのように家々に灯がともる。そのようなモーンガータの街を一望できるのは、丘陵地帯に屋敷を構えるからだろう。
「この景色は、先代がすくいあげた、尊いものです」
階段を一段飛ばしで登りながら、イチカが呟いた。カフネもまた、夜のモーンガータに魅入っていた。モーンガータ領はいたく小さな地だ。領土とするのは眼下に広がる街と、なだらかな丘陵ばかりだ。それでも、先代歌守りが、カフネの母が愛おしんだ土地。
「だから、今は歌守りになるかどうかは置いておいて、もっと自分を誇らしく思ったっていいんですよ。この地を守ったのは、僕の母さんなんだぞ、なんて」
歌守りを厭わしく思ったのは、その言葉の重さからだ。血をもってして受け継がれる、歌守り。たったひとりで、モーンガータを黄昏から遠ざけなければならぬ重圧は、いかほどだろう。なによりも、カフネを射抜く次代歌守りとしての期待、それに躊躇する自らへの罪悪感。カフネはひどく、色々なものに縛られすぎていた。
しかし、カフネの瞳に映る景色はどうだろう。今日という日を、あの街で過ごした。活気のある商業地区や、焼き菓子の味、少女の笑顔。こんなにも美しく、まばゆいのか。カフネは張り詰めた糸が、ふと緩むのを感じた。
「ヌイ・シュクリア」
古くからの言葉を、カフネは遊ぶように口ずさむ。
「なんて言ったんですか?」
「……教えない!」
カフネは思い切り階段を駆け上がり、二人を置き去りにしてしまう。イチカはキリグに目で問いかける。
「感謝を告げる時の言葉、だと思う」
イチカは目を瞬かせ、そうしてゆるやかに笑んだ。
「かわいいところ、あるじゃないですか」
「からかうのはほどほどに」
「はあい、わかってますよ」
間延びした返事に、キリグは苦笑する。見極めるには、まだ早計だ。この少女は、どこか捉えどころがない。しかし、イチカがモーンガータに訪れてからというものの、カフネが変わっているのは、違うことなき事実なのだ。