複雑・ファジー小説

Re: 夜を統べる君よ ( No.5 )
日時: 2018/10/13 11:57
名前: りんた (ID: aruie.9C)

【歌を口ずさめば】

 ヒュグリグは領主の娘だ。モーンガータを慈しみ、誰よりも誇り高くあろうとする。だから先代の歌守りが亡くなった時、ひときわ祈りを捧げたのはヒュグリグだった。領主は歌守りに従うことはなく、歌守りとて領主にまつろわぬ。共に手を取り合って、領地を守るのだ。
 何度、性を呪ったろう。男児として生まれたならば、家督を継いだというのに。双子の弟が羨ましくてたまらない。しかし、嘆くばかりでは何も為さないのだ。けして、この地が潰えてはならぬ。ヒュグリグは日が昇るたび、自らに言い聞かせた。



「カフネ様、いい加減にしてくださいませ!」

 ヒュグリグは薄い唇をわななかせ、勢いよく立ち上がった。この地方に多く見られる、亜麻色の髪が揺れる。深窓の令嬢を思わせる顔は、今はひたすらに怒りをたたえていた。
 彼女は、僅かばかりの侍女を伴って、歌守りの屋敷を訪った。そうして通された部屋で、ヒュグリグはひどく憤慨していたのだ。

「キリグ様とて、守るべき地が他にありますゆえ、貴方様がしっかりなさらないと!」
「僕だって、そんなことはわかってる!」
「ならば、どうして!」

 視線が交錯する。ヒュグリグは譲らない。彼女には、矜恃があるからだ。先に逸らしたのは、カフネの方だった。見計らって、キリグが間に割って入る。

「落ち着いて、ヒュグリグ」

 ヒュグリグはキリグを一瞥すると、小さな声で謝った。数度、深呼吸する。頭に血が上っていた。平静を努めて、ヒュグリグは口を開いた。

「とにかく、カフネ様にはやって頂かねばなりません。どうか、歌守りがお力をお貸しください」

 彼女は深く、こうべを垂れた。いくらモーンガータが小さな領とはいえ、ヒュグリグは公女だ。容易く人に頭を下げるべき立場ではないことは、世俗に疎いカフネでさえも理解している。

「……わかった」

 カフネは額に手を置いて、絞り出すようにそう告げた。キリグが気遣わしげな視線を遣る。

「カフネ、無理をするな」
「いいんだ。いずれは、僕がやらなきゃいけない」

 ヒュグリグに言われたことは、全て正しい。キリグはいずれ、コンムオーベレ領に帰らねばならない。その時、モーンガータ領を守ることができるのは、カフネしかいない。

「早速、行くぞ」

 弾けたように立ち上がり、カフネは足早に部屋を出る。半ば、意固地になっていたのかもしれない。カフネは真っ直ぐに、書斎へと向かった。勢いよく扉を開ければ、飛び込んでくるのは驚いたんだイチカの顔だ。彼女は慌てて、すすけた皮表紙の本を閉じる。

「お話、終わったんですか?」
「これから、歌守りの務めを果たす。お前も、来い」

 カフネの声は、僅かに震えていた。



 瘴気というものは厄介だ。いかに肥沃な大地であろうとも、一瞬にして死に伏してしまう。歌守りは、瘴気を鎮めねばならぬ。そうして、人々を安寧に導くのだ。
 ヒュグリグの話では、今朝方モーンガータの漁師たちが瘴気を見つけたと聞く。とっぷりとした波が寄せては返し、秘密めいたさざめきを紡ぎあげる入り海。そこに、瘴気が蔓延っているのだという。あたりを絶壁で覆われているため、入り海を訪うには、船でゆかねばならない。青い帆をはった船は、歌守りたちを呪われた地へと運びゆく。

「イチカさん、少々、よろしいでしょうか」

 船上、イチカが少しずつ遠ざかるモーンガータの街を眺めていると、不意にヒュグリグに話しかけられた。男爵の娘という身分だというのに、侍女の制止をも振り切って、彼女はここにいた。
 ヒュグリグはかすかに惑い、されども決意はかたく、薄紅の唇を開いた。

「カフネ様は、まだ子どもです。母を亡くし、すぐに跡を継げというのは酷でしょう。けれども、私はモーンガータを……」
「ええ、わかっていますよ」

 萎みゆくヒュグリグの言葉に、イチカははっきりと頷いた。同時に、心根の優しい娘だとも思う。領地に住まう民に心を砕き、そして歌守りの少年の行く末をも案じる。

「この地にまつろわぬ貴女だからこそ、見えるものもあると、私は考えているのです。ですからどうか……カフネ様にお力添えを」

 そう告げるヒュグリグの眸は、ひとすじにイチカへと注がれていた。なんと真っ直ぐで、透いた眼差しか。

「身勝手なお願いを、お許しくださいますよう」
「身勝手だなんて、そんな」
「……ほら、彼処をご覧くださいな。あれが、入江です」

 ヒュグリグが指す方へ顔を向ければ、見えてくるのは瘴気に膿んだ入り海だ。岩壁の下、ひとつの生き物のように、黒い靄が砂浜を這っていた。此処からでも、悍ましい臭気がただよう。
 いたく狭い入り海だ。船が停泊できる場所はない。すなわち、カフネは船上で歌わねばならぬ。

「では、カフネ様。そのお力、モーンガータにお示しになって」

 ヒュグリグから離れたところにいたカフネはそうっと、目を瞑る。白い装束に身をおとした彼は、銀杖を握りしめて、古めかしい子守唄を歌うのだ。
 思い出せ。母の旋律を。あの日、キリグはいかにして花畑をすくいあげたか。カフネは自らに問いただす。ひとたび銀杖を振り上げれば、それが合図となる。カフネは歌う。イチカがいつかにも聞いた、あの声で。