複雑・ファジー小説

Re: 夜を統べる君よ ( No.6 )
日時: 2018/11/01 22:24
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 滑り出したカフネの音吐は、かすかにぎこちない。緊張のせいだ。日頃、野花綻ぶ中庭で口ずさむのとは、わけが違う。焦り、舌がもつれてしまうようだった。

「もう少し、ゆっくりと。……そう、その調子」

 かたわらで、キリグは次代歌守りへ語りかける。そのことに、カフネは胸中で安堵した。彼の歌は、キリグのように落ち着いた深みのあるものではない。少年の清かさと、青年のうっすらとした逞しさ。どちらも併せ持つカフネだから、こんなにも不安定なのだ。
 さりとて、彼は歌守りとしての素質を備えている。不均衡ゆえに、彼の声は魔性めいていた。ふたたび、銀杖を空に掲げては地に打ち付ける。陽炎のように、瘴気がゆらめいた。

「見事でしょう。カフネ様は、先代歌守りのへゼリヒ様の資質を、確かに継いでいます」

 ヒュグリグが、イチカに耳打ちする。カフネに才があるからこそ、歯痒い想いも強いのだ。
 上手く、立ち回れているだろうか。一節を終えたところで、カフネは目を開ける。入り海を覆う瘴気は、半分になっていた。しかし、瞳に瘴気を映すことは、すなわち魔のものと正対することだ。誰よりも瘴気と深くえにしを結ぶ歌守りは、その影響を色濃く落とす。未熟なカフネには、その恐ろしさがわかっていなかった。

「……カフネ!」

 異変に際して、キリグが声を上げる。かろうじて、切れ切れの歌を紡ぎ続けるカフネの顔色は、痛ましいほどに青ざめていた。人ならざるものへの畏怖。それが、カフネの脳裏に焼き付いていた。視界が揺らぐ。銀杖がカフネの手から離れた。気がつけば、小さな歌守りの全身から力が抜けた。キリグが彼の細い体躯を受け止める。そうして、銀杖を拾い上げた。

「キリグ、まだ、終わってない……。僕が、僕がやらなきゃ」

 カフネの切々とした願いに、キリグは顔を横に振った。

「あとは任せて。イチカ、カフネをお願い」

 カフネをイチカへ預けると、彼は息を吸い込んだ。ひとり、禍に祈りをこめるために。



 屋敷へ戻る頃には、日はとうに暮れていた。カフネを絡め取るのは、疲弊や気怠さだけではない、鬱々とした澱だ。ひとたびならず、またしても、キリグの力に依ってしまった。いくら口では歌守りを拒もうとも、カフネは知っている。いつか、歌守りの座につかねばならぬ日が来ることを。だからこそ、今日の失態は、彼にとっていたく忌まわしかったのだ。
 カフネは居間の安楽椅子に身をおさめ、宙を見つめていた。

「カフネ、今日は疲れたでしょう」

 イチカから差し出されたのは、煮立てられたミルクが注がれたカップだった。チョコレートがひとかけら落とし込まれたホットミルクから、甘やかな匂いが広がる。両手で受け取り、戸惑いがちに口をつける。

「僕は何もしてないんだ。疲れてなんか、いない」
「またそんなこと言って。今のカフネに必要なのは、たっぷりの良質な眠りと、ちょっとの甘味です。さあ、これを飲んだら部屋へ戻りましょう」
「歌守りじゃないくせに、何がわかる」

 カフネの放つ言葉は、あまりにもささくれ立っていた。けれどもイチカはらけして咎めることをせず、ただ曖昧に微笑んだだけだった。

「そう言われると、困っちゃいますがね、カフネ。私は友として、人生の師として、言っているんです。はじめての経験は、得てして緊張するもの。そうでしょ?」
「わかったような口をきいて」
「ふふ、私はカフネのええと……7年長く、生きていますから」
「たった7年だ」

 たった7年というには、辿々しい足取りの幼子が、果敢な少年へと転じるには、十分すぎる歳月なのだろう。
 カフネはそう吐き捨てると、うつらとしたまなこを手で擦る。

「ほら、今にも船をこき出しそうな顔」

 イチカがからかえば、カフネは顔をしかめてみせた。そうして、おもむろにイチカの方へと視線を遣る。

「明日、キリグに教えを乞う。その、歌守りとして」

 イチカはかすかに目を見開いて、こくりと頷いた。きっとこうして、少年というものは、ひとりでにうつろいゆくものなのだ。