複雑・ファジー小説

Re: 宝石の海を探して ( No.1 )
日時: 2018/09/10 16:19
名前: 氷雨 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

 『元は宝石だった』海があると言う。どこにあるか、知る者はいないとされている。しかしその海は必ず在ると言う。矛盾する言葉ではある、しかし宝石の海が存在することは確かだ。
 それは、炎と瘴気とが阻む祠の奥。世界で最も過酷な大地に眠ると言われる、これ以上ない絶景。アメジストが溶けた紫はまるで踊り子の装束のようで、カイヤナイトの涙した雫は夜空が雨粒となって降って来たようだ。サファイアとエメラルドは南国の浜辺よりもずっと煌いており、波飛沫に舞うトパーズの雫は金の花吹雪のよう。時折目に飛び込むアンバーのオレンジは、陽の光と同じように優しく包み込んでくれた。
 そして、燃え盛る炎のような、情熱的なルビーの赤が、視線を捕えて離さない。苛烈な愛と同じ色、血の刺激よりも尚強く、見る者の目を惹き付ける。

「ねえ、お師匠様」

 額縁に飾られた一枚絵を見上げ、幼い少女は問いかけた。ローブの裾の方を小さな手が弱く引っ張る。豊かな顎髭を指先で弄びながら、陽気な声で年老いた男は応じた。

「どうかしたかい、メリル」

 暖炉の中では、ぱちぱち音を立てて薪が爆ぜていた。柔らかな暖色の光が、レンガ造りの壁を照らしていた。よい子はもう寝る時間、お師匠様に呼びかけた女の子も、半目で目元を擦っていたくらいだ。とうとう欠伸までしてしまうくらい、夜はもう更けている。
 しかし、瞼も重くなってきているというのに、壁にかかった一枚の油絵から目が離せない。一面に広がる、七色の顔料の塊。虹をバラバラに千切って、モザイク画のように散りばめたみたいだ。それぞれの顔料は、混ざり合うことなく独立していた。赤は赤、青は青、黄色は黄色。混ざって茶色くなることも無く、それぞれが矜持を失わず共存している。
 毎日見ているというのに、よく飽きないものだ。嬉しいやら、気恥ずかしいやら、筆を執った老人は枯れ枝のような指で頬を掻いた。痩せこけ、落ちくぼんだ頬を指先がなぞる。手元の落ち着かないお師匠様とは違い、瞬きと呼吸以外全て忘れたせいか、像のように固まってしまったメリルは壁を見上げていた。
 その視界の中心には、底なしの黒が座していた。色とりどりの絵の具の海の中に、異物が一匹紛れ込んでいた。虹の池に沈んだ中、尻尾から胴体、そして頭まで使い、地面の上に円を描いていた。
 この絵を真に産み出したのは、思えばこの生き物なのだろう。しかし、幻想的な世界の中において、その作者というのは付属品に過ぎなかった。口から吐くのは万物を焦がす灼熱の息吹。身体を覆うはあらゆる金属より頑強な鱗の鎧。尻尾を薙げば、万象を蝕む瘴気が漂う。まさしく、地上において最強の生物と呼ぶに相応しい。一度羽ばたけば、それだけで小さな村は消し飛んでしまうと言う、神と崇めるに等しい存在。
 しかし、それも生きていればの話。それは確かに龍『だった』。生きとし生ける者全てに等しく、恐怖と絶望、死と破滅をもたらすと謳われた、邪なる龍『だった』。しかし彼の者はと言えば、もうとうの昔に絶命していた。あまりにも穏やかで、寝息さえも聞こえてきそうな死に顔を、今でもありありと思い出せる。
 あれは地獄だった。地獄を抜けた先にあった。幾多の艱難辛苦を乗り越えてようやく辿り着いた。辿り着いた場所は天国よりも美しかった。
 あんなに真黒で、善より悪と呼ぶ方が余程相応しいように思える龍は、あまりに神々しかった。人智が彼の者に追いつく日など、到底来ないような気がしてならない程、雄大にして荘厳、眩い威光を放っているかのよう。死してなお龍は世界を変える。古代から脈々と伝えられてきた言葉の意味を、真に理解できたのはあの時だ。

「また今日も、お話をお願いしてもいいですか?」

 物思いに耽っていたが、思い出したように口を開いた弟子の声に、我を取り戻す。気づけばいつしか、彼女の視線も絵画からお師匠様の髭面へ向き直っていた。

「いいとも」

 ぱちぱちと爆ぜ続ける炉の炎が、聴衆の居ない家屋において男に喝采を送っていた。まばらに、時に激しく、時折手を止め、その影を右へ左へ揺らし続ける。少し前に投げ込んだ薪も、半分近くが白い灰となって崩れ落ちていた。霊木でもある香木が、部屋の中に今日も蠱惑的な香りを充満させる。春に近い日に取れる木の皮は、蜂蜜によく似た匂いがした。
 暖炉にくべた枝もそろそろ燃え尽きるだろう。メリルを寝付けた頃には、丁度よく火も静まっている頃だ。その後赤熱したままの燃え滓を始末して、今日という日にさよならを告げよう。
 それが良い。机の上に置いていた、顔の大きさほどの長さの細枝を手に、短い呪文を唱えた。指揮棒のようにひょいと先端を動かすと、彼専用の揺り椅子が動いた。ぐらりと傾いたかと思えばそのままひょこひょことひとりでに歩き出す。前に後ろにと揺れる反動で、少しずつ前に踏み出す様子はやけに可愛らしい。
 奥の部屋にあるピンク色の、ふかふかのベッドの枕元に辿り着くと、その場でぴたりと動きを止めた。その部屋に灯りは無かったが、窓から差し込む月明かりのおかげで足元もよく見える。十字の木組みの向こう側、窓ガラス越しに上弦の月が浮かんでいた。夜空に青く燃ゆる月は、不死の龍が永遠に空を駆けているとも、単なる岩石が空に浮いているだけとも語られていた。
 眠たさも頂点に達した少女は、ぱたぱたと可愛い足音を立てて、最後にぴょんと寝台へ飛び乗った。柔らかな羽毛がクッションとなり、音も無く彼女の身体はベッドに沈みこむ。反動で上下に揺られながら、掛け布団をめくってその下に潜り込んだ。その日一日の疲れさえも、寝具の中に吸い込まれてしまい、今にも明朝へと旅立とうとしている。
 椅子とメリルとを見送って、その後を追いかけるようにお師匠様も入室した。予め運んでいた揺り椅子に腰かけ、水分の少ない皺だらけの掌で、枕に乗ったメリルの頭を優しく撫でてやった。

「さて、昨日はどこまで話したかいの」
「冬がやってこない常盤の国。とこしえの夏の夢が覚めない、太陽王国の話なのですよ」
「ああ。南大陸の空中錐墓の話だね」

 砂から特別に鋳造したレンガを用いて建設された、四角錐の形をした空に浮かぶ王墓。例え陽が沈もうと、満月が夜いっぱいを使って空を横切ろうと、唯一沈まない王国の象徴。光こそ放たないものの、国の象徴たる王の威光は、地に伏すことなく天空に佇み続ける。例え太陽の神、ソラリスが寝てしまおうとも、王の威光は沈まない。ただ民草の頭上において、その影を王国に伸ばすだけだ。

「ならば今日は、絶対零度の楽園の話をしよう」

 日差しが強く差し込み、太陽の情熱を浴びて生きる大地とは違う。僅かばかりの日照に、仄かな希望を見出す永久凍土の大陸。吹雪の向こうに佇む青白い月光は、まるで月と死の女神が次なる供物を品定めする冷酷な眼光。
 空にたなびくオーロラは、さながらその女神の纏う七色の羽衣だ。悪戯っぽく、不意に現れてはまた、予兆も無く消えていく。余韻は残さない。自分の存在が夢幻に過ぎないと人間に錯覚させるためであろうか。
 その国では、やはり月を恐れている。人々が家を出るのは、短い昼の間だけ。夜空が赤く染まる時、血眼で神様は生贄を探している。夜になればオーロラが現れて、その隙間に人間を隠して連れ帰ってしまうからだ。
 集落はたった一つのみ。氷雪龍の神殿を中心とし、氷の天蓋に覆われたドーム状の村があるだけだ。
 今にも吹雪に巻き上げられ、吹き飛んでしまいそうな寂れた集落だが、ある鉱石のおかげで生計が成り立っている。その土地でのみ取れる石、集落の者のみが加工技術を持つ宝石。集落の名は、レーゼルハイト。宝石の名も、そこから貰っているらしい。

「うーん、でも宝石に興味は無いのですよ……」
「確かにメリルはそうじゃったな」

 ほほっと笑い声をあげ、女の子らしくない感想に走った彼女に、お師匠様も顔を綻ばせた。確かに彼女は、宝石よりもずっと、冒険奇譚の方が胸躍るらしい。

「ならば、胸躍る昔話をしようじゃないか」

 また、窓枠の向こうの月を見上げる。在りし日のことを、老翁は思い返していた。今宵の月と目が合った。レーゼルハイトにおいて、自分を見下ろす月の光は、あんなにも恐ろしかったと言うのに。不思議な事に、大きさも光の強さも色合いも、何一つ変わっていないのに、今こうして自分たちを見下ろしている月の蒼光は、あまりにも穏やかにほほ笑んでいた。

「氷雪龍の神殿はな、そこら中の岩石から、レーゼライトが飛び出していたものじゃ。そのおかげか、まるで洞窟全体がオーロラの塗装をされているようでの。だからこそ、その地の人々は好んで入ろうとはしないんじゃが……」

 今日もまた、夜が更けていく。目を閉じて、お師匠様の言葉に従い、その世界を瞼の裏に思い浮かべる。眠りに落ちる直前の、ふわふわと宙を漂う浮遊感。身体の感覚は次第に無くなって、聴覚と想像力だけが研ぎ澄まされていく。いつしか彼女の意識は、見たことも無い夢の中の土地に落ちていた。それが真に、お師匠様の見た大地なのか彼女には分からない。
 ただ一つ望みがあるとしたら、いつかそこに行ってみたいという強い願望。この目で見なくてはならない、この肌で感じなければならない。その場の空気を大きく吸い込んで、味も匂いも余すことなく確かめねばならない。
 行こう、いつか。まだお師匠様の腰ほども背丈の無い彼女だが、いつか大きくなった時には旅に出ようと決めた。若い時の彼のように。一人だとちょっと寂しいから、『あの子』も連れて行こうかなどと考えたり。
 だから彼女は今日も夢を見る。大きくなった自分が、世界をまたにかけて冒険する夢を。間欠泉のごとく溶岩の噴き出る大地を越えて、結晶が阻む洞窟を抜けて、吹き付ける雪にも負けずに、雷が絶えず天地を繋ぐ荒野にもめげず、全大陸を踏破する。
 その目的はただ一つ。それは、初めて昔話を聞かせてもらった時からずっと変わらない。初めてあの絵に目を奪われた瞬間から、変わりようも無いのだ。


 事実彼女は、十六歳となったあかつきに、生まれ育ったこの島を出ることとなる。
 それは見聞を広げるため、尊敬する師匠の足跡を辿るため。そして何より、彼女自身の恋焦がれた絶景を訪れるため。
 例えそれがどれほど過酷な旅路になろうとも、足を止めるつもりは無かった。
 その海は、かつて魔物の王が生きた大地にあるという。いつしか滅ぼされた魔物の大陸、その最奥に至るは修羅の道。太陽よりも熱い大地に、空気さえも凍てつく平原、足を絡めとられれば二度と抜け出せない底なしの沼に、浴びれば骨まで泡となる酸の湖。
 竜巻の阻む断崖絶壁のそのまた奥、魔獣の犇めく大地を抜けた先、それほど広くない祠がある。それこそが、彼女の歩む意味だ。
 大きな三角帽子を被り、箒に跨った少女は、肩に小さな龍を乗せて、今日もまた空を行くのだろう。

 宝石の海を探して。