複雑・ファジー小説

Re: 宝石の海を探して ( No.2 )
日時: 2018/09/10 16:36
名前: 氷雨 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

SCENE1 強酸の沼を越えて


 人の腕ほどもある枝が、強い衝撃を受けたせいで易々とへし折れた。嵐の夜に聞いたことがある、強靭な枝が捥げる悲鳴は、まるで実際に人間の骨が折れてしまったかのようだった。枝をへし折り、尚も落ち続ける「それ」の勢いが弱まることは無い。ただただ地面に引っ張られ、一直線に手繰り寄せられる。
 今でこそ新たな木の葉が青々と樹上に芽吹いていたが、以前の秋に落ちた枯葉は、春の間に腐ってふかふかの土となっていた。風を切る音があまりに五月蠅く、流星のように空を駆ける彼女の決死の叫喚はかき消されてしまっていた。
 彼女は黒のローブを身に纏っていた。夜に走る流れ星は、宵の闇を裂くように白く燃ゆるものだ。それゆえ、対照的な真昼の青い空を断つかのような、やはり白とは正反対の黒い矢は、炎天下の流星と呼んで差し支えないように思えた。
 纏ったローブで何とか全身を覆う。薄い生地に身を包んだところで、誰もが気休めに過ぎないと笑う事だろう。あるいは、数秒後には地面と正面衝突してぺしゃんこになってしまう命運を悼むだろうか。
 瞬間、地面が揺れた。ずんっと腹に響く鈍い音がしたかと思えば、茶色い土が飛び散った。空より墜ちた一つの影が、龍の爪のように大地を抉る。黒い布にくるまった少女は、そのままぴくりとも動こうとしなかった。彼女のすぐ傍では、一本の箒が斜めに突き刺さっている。
 その様子を見届けた後に、ずっと上から様子を見守っていた一つの獣が、ぱたぱたと小さな羽音と共に降り立った。流れ星が貫いた林冠の穴からは日差しが差し込んでいた。そこを入り口としてゆっくりと森の中に足を踏み入れた、翼持つ小柄な蜥蜴は、今度は滑空するようにして一気に空を滑り降りた。
 体高は六寸ばかりの、鳥とも蜥蜴とも異なるシルエットの獣が、墜落した少女のすぐ脇に着陸した。勢いよく地面にぶつかるように落っこちた彼女とは違い、自在に空飛べるが故に静かに。
 不思議なことに、高所から一気に墜ちたというのに、その身体は人の姿を保ったままであった。あの勢いで地面にぶつかれば、ひしゃげて飛び散り、ただの肉塊になってもおかしくないと言うのに、である。

「ピーイ、ピィ」

 まるで鳥と同じような鳴き声を上げて、寄り添った獣は少女に呼びかけた。死んでしまった哀悼を捧げているようにはとても思えない。むしろ失態を糾弾するような刺々しい声であった。
 それは、蜥蜴と同じように全身を鱗で覆っていた。まるで貨幣と見紛うかのような、美しい白銀に身を包んでいる。それこそ、古くなって剥がれ落ちた鱗が、そのまま銀として使えそうなほどだ。その口は、それこそ嘴と呼んで相違ないものであるが、鳥とは違い、開けば鰐と同じように鋭い歯がずらりと規則正しく並んでいた。翼には羽毛が無く、凧のような骨格に膜が張られた、蝙蝠に程近い代物。鞭のように細長い、体高ほどもあろう尻尾を、手足のように器用に扱っていた。
 飼い主を前にした犬のように、ひょこひょことその長い尾を左右に揺らし、微動だにしない彼女の様子を眺めている。時に、上嘴にある鼻のような穴を近づけて匂いを嗅いでみたり、全身を眺めてみたり。
 尻尾を振っているのはまさしく犬のように見える。それは確かなのだが、その理由は大きく異なっていることだろう。彼らのように主を前にはしゃいでいるのではない。むしろ、貧乏ゆすりをする人間に近い。手持ち無沙汰故に頬を掻いてしまうようなものだ。
 耳元で呼びかけようとも返事をしない。そんな様子の彼女に呆れて、とうとうその翼持つ蜥蜴は顔色を変えて躊躇するようなことも無く、甘噛みする程度にその頬を啄んだ。

「あ痛たたたたた。何するのさ、ラグナ」

 頬の鋭い刺激に、たちまち顔を歪めて少女は飛び起きた。墜落事故が起きたばかりというのに、傷一つなく溌溂とした様子である。顔に痣が出来たらどうするのさと、涙目で不意の凶行を訴えた。横になったまま動こうともしない自分が悪いのだろう。そう言いたげに、そっぽを向いた銀色の横顔は素知らぬふりをしていた。
 先ほどから少女の周りに座しているその生物は、小さいながらも龍であった。翼の大きく発達した、胴体の細長い姿はドラゴンと呼ぶよりワイバーン、すなわち飛竜と呼んでやる方が良いようにも思われる。尤も、細かな分類などあまり意味を為さず、この世界において龍とはドラゴンであるし、龍種で括ってしまっていいものだった。
 すらりと伸びた胴体に、流線型の端正な顔立ち。人間という異種である少女にも、この相棒である龍が美しい個体であることは明らかだった。龍の名はラグナと言い、幼い日に少女自ら、拾い子の龍に名付けたものだ。
 拾った時には、小指ほどの大きさだった龍だが、十年経った今では掌に辛うじて乗り切らない程度の大きさに育っていた。とはいえまだまだ小柄なのだが、寿命が百年を優に超える龍種にとって、成長が遅いのは仕方のない事なのだろう。千年でようやく成人に達する龍もいると言われるほどだ。ラグナがどんな龍種なのかは未だ明らかになっていないが、将来的に大型に分類されることは間違いない。

「でもさ、仕方ないじゃん。傷は無いけど落っこちた時の衝撃は凄かったんだから」

 流石はお師匠様手製の加護だと、彼女は全身をくまなく観察する。ローブの布を引っ張り、背中の方まで確認するも、破れている様子は無い。少し土で汚れてしまっているが、乾いてから手で叩けば綺麗に落ちてくれるだろう。
 世界中を旅してみたいと彼女がその師匠に正式に宣言したのは、三年前の事であった。彼女と師匠、二人しか住んでいなかった島にはそんなもの無かったが、一般的な国に属する人間は、十三歳となった年に初等学院を卒業し、高等学院に通い始めるらしい。そのため、初等学院を卒業する、子供にとってある意味節目を迎える冬の日に、いつかお師匠様のように旅をしたいと彼女は意志を告げた。
 予知の魔法を使った訳でもないのに、いつかそう言うと思っとったわいと、いつものように口ひげを弄びながら彼は笑っていた。しかし、旅をするにはいくつか心得ておかねばならない事がある。そう言って、後三年はそのための修行をするようにと、お師匠様は彼女に指示したのだった。
 そしてその期間というのは、お師匠様が彼女に持たせてやる道具作りのために、必要な準備期間でもあった。その内の一つが、このローブである。土地全てが業火に覆われどろどろの溶岩が足場を埋め尽くす大地。其処に棲む灼蚕の紡ぐ絹糸に、精霊術と呼ばれる術式による加護を付与しながら織られた特別な布。それを素材に作られたこのローブは、あらゆる厄災、凶事から逃れられる。その効果は、まさに今示された通りだ。

「それにしても、初渡航が墜落に終わるだなんて、出鼻を挫かれたものなのですよ」

 飛び起きた拍子にころりと落ちてしまった三角帽子を拾い上げ、土を手で払った後にまた頭に被る。やや青みがかった紺色の髪の毛が、ローブと同じ色をした帽子の中に隠れてしまった。

「うーん、それで私達は一体……」

 ぐるりと見回したところで、目に見える物と言えば木々ぐらいのものだ。もう少し注意深く見れば分かることは多いだろうが、ここにへたりこんだままでは何も分からない。

「どこに着いたものなのでしょうか」

 まずは立ち上がらねば如何しようもあるまい。そろそろ不時着の余韻も消え失せ、身体の勘も取り戻せてきている。ならば、動けるうちに現状を確認しておくべきだ。
 仄暗い木陰がどこまでも続くように思える、鬱蒼と高木の生い茂る迷いの森。四方を見比べても代わり映えのしない景色の続く、方向感覚も分からなくなりそうな樹海。風にそよぐ木の枝が、遭難へと手招きするかのような底意地の悪い自然の迷路、その踏破こそが彼女の、魔法使いメリルの、初めての冒険であった。