複雑・ファジー小説

雨蛙 ( No.20 )
日時: 2021/04/14 23:28
名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: SkGQb50P)

 
 昔からカンの鋭い子どもだった。音感もあったし、察しもよかった。なのにおっちょこちょいだとか抜けてるとか言われるのは、そういう風に振舞っていたから。

「はーー今日もバイトだぁ」

 スマホのカラフルな予定表アプリを見て、私はため息をつく。青は講義、ピンクは遊びの予定、赤はバイトの予定だ。大学生の夏休みは長い。8月の広大な空間は赤とピンクで埋まってしまっていた。
 下着姿のまま私はクローゼットを開いて、着ていく服を探し始める。私は寝るときはパジャマを着ない。寝相が信じられないほどに悪いからだ。
 昔から私はピンクが似合うと言われて育てられてきた。クローゼットの中は様々な色相のピンクで溢れている。私はその中で薄いピンクの、フリルのついたブラウスを手に取った。
 4年生。周囲の人たちはほとんど就職が決まっており、大学院に進学する人たちは既に試験も終わって、みんな残り少なくなった単位をその手から取りこぼさないようにだけ必死だ。私が1年の入学式に着たきりのスーツはクローゼットの奥で既に埃まみれになっている。私は過去の自分を探すことなく、デニムのスカートを取ると静かにクローゼットを閉めた。そう。私は就職活動をしていない。
 上から順に手際よく服を着替えると、私は裸足のまま部屋を出た。無駄にゴツゴツした装飾が手に痛い階段を降りて、向かう先はリビング。私は朝は拭き取り化粧水で済ませるタイプだから。
 ドアを開くと、ニュースキャスターの声と、朝に相応しい陽気な歌が隙間から流れ込んでくる。正確な年齢は聞いたことがないのでわからないけれど、恐らく40代ぐらいの女性がテーブルの隣に静かに佇んでいた。私はその表情が少し失望の方向に傾くのを見逃さなかった。

「おはようございます、花依お嬢さま。今日もバイトですか?」
「おはよう田中さん。うん、そうなの」
「そうですか。頑張ってくださいね」

 大学入学から死ぬほど繰り返された会話。だだっ広いテーブルにはご飯とワカメのお味噌汁、焼鮭ときんぴらごぼうと今日の花。にこにこと笑う田中さんは私が小さい頃からこの家で住み込みの家政婦をしてくれている。流れるように席に着くと、いただきます、と手を合わせた。私が朝ごはんに手をつけるのを見届けた瞬間、田中さんはキッチンへとそそくさと戻っていく。私は生まれてから一度も母がキッチンに立っているのを見たことがなかった。
 田中さんのご飯は機械で作られたみたいに規則的だ。日によって魚の種類は変わるけれど、白ご飯とお味噌汁は固定だ。きんぴらごぼうは昨日の夕飯の残りだろう。冷蔵庫で10時間ぐらい冷やされていたためか、思っていたよりもずっと冷たかった。白ご飯は少し硬めで。味噌汁は濃いめだった。いつも。
 私が結婚したら、これが母親の味になるんだろうか。まあ、お相手方もきっとこんな感じだろう。
 単調な白米の味に飽きてきたのでふりかけでもかけようかと田中さんを呼ぼうとしたとき、リビングのドアが開く。

「……おはよう」
「おはよう、パパ」

 のっそりとした足取りで、50代の男性がテーブルへと歩いてくる。覚束無い歩き方とは裏腹に、服装は既にスーツで、しかし髪の毛は寝癖だらけ。私の父親。この地域一帯の元地主で、現在は会社の社長だった。

「あらあら、おはようございますご主人。今日もお早い出勤ですね」

 田中さんがキッチンからすぐに私と同じメニューを持ってくる。そして最後に、卵のふりかけを添えて、またキッチンに戻っていく。父親は一言ありがとう、と添えて席に着いた。

「パパ、そのふりかけちょうだい」
「いいぞ。持ってけ」

 欠伸を噛み殺しながら、父がふりかけを無造作に渡してくる。この会話も毎日繰り返されているものだ。

「最近どうだ」
「どうって……順調だけど」
「お前は春から俺の会社に勤めることになるんだから、粗相がないようにしっかり社会のことを学ぶんだぞ」
「もう私バイト始めて4年目なんだけど……」

 TVの音をBGMに、私たちは他愛ない会話を交わす。最近のこと、ニュースのこと。どうでもいいことばかり。これもいつものことだ。

「ご馳走様でした」

 先に私が席から立ち上がる。焼鮭は半分以上残っている。父は少し顔を顰めていたけれど、特に何も言わずに味噌汁を啜っただけだった。

「今日は7時間勤務でその後ちょっと出かけるから遅くなると思う」
「お、そうか。あまり遅くなるなよ」
「はーい」

 メイクをする前に牛乳を飲みたくなったので、キッチンへと足を進める。ゴミ出しにでも行っているのか、田中さんがそこにいなかったことに安堵しながら、私はコップを手に取った。

「そうだ、花依」
「ん、なあに?」

 たっぷりと牛乳を注いだガラスのコップをテーブルに置こうとしたとき、丁度食べ終わって私の分まで皿を重ねていた父親が思い出したかのように私に話しかけてくる。

「昨日顔馴染みの警察官に聞いたんだが、この辺りで白骨遺体が出たらしい。遅くなるなら不審者には気をつけた方がいいぞ」
「白骨遺体?」

 物騒な単語だ。残酷に平凡で、過不足なく裕福な私の日常に相応しくない非日常。

「身元も判明したらしい。お前が通っていた高校の女の子だったそうだ。一橋 魚美さんと言うらしいが、知っているか?」

 その瞬間、コップは私の手から重力に従う林檎のように無機質な大理石の床に吸い込まれていった。嗚呼、ニュートン。なんてことなの。私は、その名前を確かに知っていた。6年前、泡となって消えた、私の人魚の名を。
 

Re: ムーンタワー ( No.21 )
日時: 2021/05/24 15:33
名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: SkGQb50P)

 
 言われたことはないけれど、私は嘘をつくのが割と得意だ。嘘を語るとき、少し真実を混ぜた方がいいのは明白で。私の場合、それに少しアレンジを加えることで、完全なる嘘が完成する。だからこそ私は今日、裸でベッドの上に横たわっているのだ。
 彼は今、ベランダで煙草を吸っている。私は吸わない。嘘がバレてしまうから。私は今日、父にバイトに行ってくる、と言ったし、自分にも今日はバイトだ、と思い込ませていたし、スマホの予定表だって赤色にしていた。そうすることで、嘘はより強固なものとなる。そして私がバイトしている店は全席禁煙。紙臭い煙草の匂いなど、まとわりつくはずがないから。
 白いベッドの下、黒いカーペットの上に、ピンク色のブラウスとピンク色の下着が無造作に散らばっている。ニュートンが言っていた法則に従って落ちていったのだ。今朝の牛乳のように。
 苺味のホイップのようにふわふわした頭をどうにかして回転させながら、私は枕元に置いていたピンクのカバーのスマホを手に取る。ショートケーキみたいにふやけた顔をした私。顔認証は優秀だった。
 画面いっぱいに、私の予定表みたいなカラフルなアプリが広がる。このスマホを買った当初は、アプリの種類ごとにキーワードを設定してコンパクトにまとめていたけれど、そんなこと、時が経つうちにしなくなっていった。追加されては消えるアプリ、散らばる知識、増える思い出。いつの間にか、彼女を背景にしていたことを忘れるぐらいに。
 右端にあったLINEアプリを長押しして、次のページに移動させてみる。新しいページに広がっていたのは未来ではなく、6年前の世界だった。

「誰、その子」

 いつの間にかベッドに戻ってきていた彼が、私のスマホを背後から覗き込んで呟く。緑色のアイコンが、液晶の絵画の中にインクを落としたみたいに不快な音を放っている。絵画の正体は人魚だった。伏し目がちに遠くを見つめて淋しそうに微笑む、私だけの人魚の横顔。





──人魚が私と月子の前に現れたのは突然だった。

「**から来ました。一橋 魚美といいます。よろしくお願いします」
 
 微笑みと共にお辞儀をする。豪奢な髪が揺れて、その間からぽてっとした薔薇よりも赤い艶っぽい唇が覗いていた。私は、いやこの狭い水槽の中を泳ぐメダカたちは、彼女から目を離せなかった。
 どこか浮世離れした独特な雰囲気のある彼女は担任が教室から出ていった後も話しかけるような隙がなく、みんな気になってはいるけれど、なかなか近付くことができないようだった。そしてこのときの私の行動が、私が雨蛙と呼ばれたる所以なのだと思う。

『はじめまして、私、雨郷 花依って言うの! で、こっちは内海 月子! よろしくね』

 月子を無理やり席まで引っ張り、快活に見せるように笑うと、何処か緊張気味だった彼女の表情が和らぐ。膨らんだ蕾が、春の雪解けを迎えたかのように花開くかのような微笑みだった。いつだって、「明るくて少し空気の読めないムードメーカー」でいなければいけなかった、私の手の震えが止まるぐらい。

『こちらこそ、よろしくね』

 その瞬間、私は悟った。私はこのときのために、雨蛙としてずっと、泥の中で生きてきたのだと。





「ふーん。可愛いじゃん」
「ふふ、でしょ」

 当たり前だ。なんたって、私の人魚なんだから。

「紹介してよ」
「だーめ」

 スマホから手を離し、彼の方に向き直る。怠惰の残り香をダイレクトに受けてしまい、思わず顔を顰めた。それでも「私の方を見て」と言わんばかりに、私は彼の頬に両手を伸ばした。

「どうして?」
「どうしても何も無いよ。だって、人魚はもういないもん」

 胡乱げな彼の唇を自らのそれで塞ぐと、背中に彼の大きな手が私の背中に回された。首の辺りに、彼の髪が当たってくすぐったい。そうだった。彼の男にしては少し長めの髪は似ているのだ。6年前のあの夜、土の下に埋めた、人魚の髪に。

「誰にも渡さないんだから」
「何か言った?」
「ううん、なんにも」

 そのまま私を押し倒した彼は、枕元に落ちたスマホを無造作に遠くへやった。勢いのままに、美しい絵画は重力に従ってベッドの下へと沈んでいく。私の6年間の足跡が、人魚の顔を踏み潰していったかのように。甘いクリーム色になっていく景色の中、私はそのスローモーションをただただ無感情に見つめていた。