複雑・ファジー小説

Re: 楽園墓地 ( No.2 )
日時: 2018/10/19 11:49
名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: w.X0wWfN)
参照: ①

  




 楽器ひとつ、身ひとつ。私たちは歌う。一体となったからだで、歌い続けるのだ。アコースティックギターを始めたとき、どの弦をどんな風に押さえて、どんな風に弾けばどんな音が鳴るのかなんて微塵もわからなくって、路頭に迷った。今でもそうだ。音楽をやったことのない人からしたら全く意味がわからないであろう英数字のコードだけが、私の頭の中を駆け巡る。歌い続けて掠れた声が、夜空に溶けてゆく。私の歌声は煙草と同じだ。空に消えては、ただただ残り香だけを残す。ここを通り過ぎていった誰かの1秒間の思い出になって、また1秒後には海の底に沈む。そうして二度と思い出すことはない。
 随分と遠くまで来たものだ。都会から随分と離れたこの場所に、私は電車と新幹線を乗り継いでやってきた。私は自分がどこにいるのか、よくわからずにいる。
 人混みの中、私は恋する女の子の気持ちを歌い上げていた。私は恋なんてしたことがない。誰かを好きになったことなんて1度もない。そりゃあ、架空の登場人物のことを好きになったことはある。トモくん、という彼は、私が中学時代に生み出した、格好よくて優しい、私だけのエア彼氏だった。
 中学生のときにノートに書き溜めたポエムたちは、実家の鍵つきの引き出しの中に仕舞ってある。何度も何度も読み返しては書き殴ったポエムを、私は諳んじてみせることができる。そんなポエムを繋ぎ合わせた今だけの即席ラーメンみたいな3分間の歌は、まとまりのないままに正規ルートから外れ、いきなり住宅街に着地した。女の子は死んだ。着陸失敗大炎上。好きな人に振られ、屋上から飛び降りたのだ。
 ふぅ、とため息をついて私はギターから手を離した。今日はもうこんなところで終わりにしよう。
 ほんの少し小銭の入った缶の中身を見て、こんなものか、なんて思う。私の歌は、私たちの歌は、120円なのか。募金箱と勘違いするかのような百円玉と十円玉を取り出して、指でピン、と弾いた。
 ギターを抱き抱え、今日はどこで眠ろうか、と考える。昨日は公園で寝た。その前は駅前。その前はラブホの広いベッド。その前はアパートの布団。私が一人暮らしのアパートから飛び出して、4日が経っていた。
 アパートから持ち出したお金が少なくなってきて、お金を稼ごうと思って路上で歌ってみたけれど、マイクもアンプも声量もない私の歌に立ち止まってくれるような人は少しだけで、ただただ冷たい風が吹き抜けた。そして集まったのは120円ぽっち。昨日と一昨日の分を合わせても、1000円にも満たない。空は満月だというのに、私の財布と心は満たされやしない。
 中学生の頃から使い続けているギターだけが、私の逃避行のただひとりの相棒だった。少しの下着となけなしのお金で買った古着の詰まった、中学時代からずっと使い続けているスーツケースは、使い込みすぎてチャックが緩くなっている。
 ギターケースを背負って歩き出すと、くたびれたスーツを着たサラリーマンとぶつかった。尻餅をついた私を見て、面倒臭そうに舌打ちをした彼は、そのまま倒れた私のことなんて知らないふりをして、足早にその場を去ってゆく。藍色のスーツが完全に見えなくなった瞬間、唐突に思った。

「決めた。明日死のう」

 今現在、金もない。友だちもいない。才能もない。言ってる間に25歳。死ぬしかない。
 今の私はスマホも持っていないので、楽に死ぬ方法もわからない。ネカフェに行ってパソコンで調べよう、と私は立ち上がる。衝撃で倒れたスーツケースを起き上がらせると、寿命を迎えていたチャックが開き、中から着替えが飛び出していた。ブラジャーじゃなくてよかった、なんてことを思いながら元に戻していると、スーツケースの中にカッターが入っていたことに気づいた。いつ入れたのだろう。少なくとも、逃避行に出る前に、こんなものを入れた覚えはなかった。地面に落ちたそれを拾い上げ、静かに見つめる。
 私がここで首を掻っ切って死ねば、Hinakoも死ぬのかな永遠に。
 そんなことを考えていると、ふいにぐぅぅ、と腹の虫が騒ぎ出した。今から死ぬのに、私のからだはまだ生きたいと望んでいる。人間は死ぬために生きているのに、おかしいな。

「死ぬつもりなら僕のところに来ませんか、お姉さん」

 突如として、爽やかな声が私に話しかけてくる。空腹すぎて天から降ってきた幻聴かと思えば、そこにはDK(男子高校生だんしこうこうせい)。キャラメル色の綺麗な瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
 留まることのない雑踏の中、彼だけが止まっている。1秒間で消えてしまう、誰かの1秒間の私の記憶。誰も私を見ないし、忘れてしまう。そう誰も。けれども、彼はもう10秒間も私を記憶している。何故だかそれが無性に嬉しく思えたんだよ。

Re: 楽園墓地 ( No.3 )
日時: 2018/10/20 01:02
名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: qIZZJKb.)

 
 コンビニに寄っていいかと聞くと、彼は快く頷いてくれた。いつも使っているメーカーで、お泊まり用セットがあったので、それを買った。さすがに男子高校生と同じシャンプーとリンスを使うのはどうかと思ったのだ。
 コンビニから出ると、横断歩道を渡ってすぐ、彼はここです、と言った。私を拾ってくれたのだから、だだっ広い家に住むお金持ちのお坊ちゃんなのかと思えば、彼が指差したのは何の変哲もない古いアパートだった。
 彼は203号室のドアの前で立ち止まり慣れた様子で鍵を開けて、私を先に通してくれた。中は外からイメージできる通りのもので、部屋は散らかっておらず、必要最低限のものしか置いていない、という印象だった。ダイニングにはテーブルが1つと椅子が2つあり、申し訳程度の広さのリビングには、棚がないのか学生らしく教科書が積み上げられた小さな机とソファが置いてある。キッチンから見える食器棚にはお碗やお皿が1セットずつしかなく、どうやら彼はここで一人暮らしをしているようだった。
 もしかしたら、実家は裕福なのかもしれない。けれど、高校生で一人暮らしだなんて素直にすごいと思った。私は第1志望の公立高校に落ちて滑り止めの私立に行き、勉強もあまりしないで一応入学した大学は単位を落としに落としまくって結局は退学した。大学入学を機に地元を飛び出して一人暮らしを始めて今に至るも、アパートはゴミだらけだった。しばらく帰っていないので、アパートの中がどうなっているかあまり想像したくない。

「ご飯を作るので、先にシャワーをしてきてください」

 彼の言葉に、そういえば昨日からお風呂に入っていなかったことを思い出す。アパートを飛び出した当初は銭湯で体を洗っていたのに、お金が減るのが嫌で3日目からやめてしまった。そのことが急に恥ずかしくなってきて、思わずくんくんと匂いを嗅ぐと、料理の準備を始めた男子高校生がくすりと笑った。
 彼の名前は日向 葵、というらしい。私は奈子、とだけ名乗った。玄関の表札には「小田」とあったので、もしかしたら偽名なのかもしれない。でも、そんな嘘をつく理由なんてわからないので、親が離婚したて、といったような複雑な家庭の理由があるのかもしれない。結局のところ、行き場のないところを助けてもらった身なので、そういうことは聞かないでおこうと決めた。
 微笑みを浮かべたままはい、と白いタオルを手渡される。私は軽くお礼を言って、その辺にギターケースを下ろし、スーツケースを持ったまま洗面所に入った。バスルームは私の住んでいるアパートと同じで洗面所と繋がっており、シンプルに狭かった。
 手早く服を脱いでふと前を見ると、鏡に冴えない女が映っていた。色は白いけれど、薄すぎる顔立ちと多すぎるそばかすのせいで、ぱっとしない。以前、マネージャーに言われた言葉を思い出した。日向くんは何故、私のような見栄えのよくない、しかも臭い女を拾ったのだろう。体目当て?だとしたら、お風呂に入ってこい、というのは。
 先程まで死んでしまおう、と思っていたはずなのに、そう考えると急に脚がガクガクと震えだした。そういえば昔、女の子の処女性を神聖視した歌を作ったことを思い出す。私は純血の乙女のままなのだ。あの頃も、今も。
 なかなかシャワーは温まらない。コンビニで買ったシャンプーは、家のものとも銭湯のものとも違った匂いがする。お風呂場に置いてあったボディーソープは私の知らない香りだった。それで身体を洗いながら、あの男子高校生と同じ香りを纏っていると思うと、ほんの少し申し訳なく感じた。公園で自ら切り落とした髪の毛はガタガタで、リンスをするとき、あまりの軽さに戸惑った。少しでも可愛くなれるように、と伸ばし始めて腰ぐらいの長さにまで到達していた髪が、一気に肩より上の短さになったのだ。違和感があるのも当然だった。
 やっと十分に温まったシャワーでリンスを流し、バスルームを出る。日向くんが渡してくれたいい匂いのするタオルで身体を拭き、いつも以上にきっちりと下着をつけた。そして、持ってきていた服の中からできるだけ露出の少ないものを着る。自分でも馬鹿みたいだと苦笑した。
 短すぎる髪はタオルで拭いただけですぐに乾きそうな感じだったので、そのままにして洗面所から出た。ふわーーっと美味しそうな匂いが漂ってくる。それはスパイシーな香りで、ダイニングに行くと予想通り彼がほかほかと湯気の立っているカレーの前に、ジャージ姿で座っていた。
 
「カレー、できてますよ」

 立ち尽くす私に、不思議そうに首を傾げる。黙って前に座ると、彼は静かにスプーンを手渡した。

「日向くんは食べないの」
「僕はもう外で食べてきたので」

 外食だろうか。今の若い子がどんなところで食事をするのか、近々アラサーに突入する私にはよくわからない。私は学生時代は帰宅部のエースを務めていたので、友人と部活帰りに何か食べに行く、という行為とは無縁だった。こんなお綺麗な顔で、ファストフードを食べているのだろうか。世界は不思議だな、と思った。
 スプーンを受け取っていただきます、と手を合わせる。そして1口。

「美味しいですか」
「ごっつ美味しい」

 大学を退学してから1度も地元に戻らず、自炊もできないのでコンビニやスーパーのお惣菜で過ごしてきた私に、手作りのカレーは大層染み渡った。
 久方ぶりのきちんとした食事を堪能していると、彼もまた少し唇の端を上げて私を見つめていることに気づいた。一人暮らしの中で、あまり人に料理を作る機会がなかったのかもしれない。料理が得意なのは誇らしいことだ。誰かに美味しそうに食べてもらえるのは誰だって嬉しいに違いない。
 そのままどちらも口を開くことなく、私は黙々とカレーを食し、彼は私のその浅ましい姿をずっと見つめていた。

「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」

 空っぽになったお皿にスプーンを置く。カン、と音をたてて、スプーンはお皿の坂道を滑り落ちた。私の醜い咀嚼音の消えた部屋に、沈黙が下りる。日向くんはお皿をぼーっ、と見つめたままで何も言わない。何を考えているのだろう。瞬きさえもしない彼はまるで人形のようで、少し怖かった。

「日向くんはどうして、私を拾ってくれたの」

 じっ、とキャラメル色の瞳を見つめる。男の子にしては長い睫毛が、ぱちり、ぱちりとまばたきする度に揺れ動いた。

「どうしてだと思いますか?」

 質問に質問で返してくる。ご飯何がいい、何でも、というのと同じように、そういう答えが1番困るのは、古今東西わかっているだろうに。

「どうして……どうしてって……からだ目当て、とか?」

 だって、それぐらいしか考えつかない。見た目も特別可愛くない私だけど、一応女ではあるわけだし。世間では、そんな節操なしも確かにいることを、私は知っている。
 しかし目の前の純朴そうな男子高校生は、私の蚊の鳴くような声に、目をぱちくりとさせると、次の瞬間、その顔を笑みの形に崩壊させた。

「ははははは、からだって、そんなわけないじゃないですか!」
「えっ、でも、それぐらいしか考えられなくて」

 逆に、それ以外理由があるのか教えてほしい。
 顔を真っ赤にしながら慌てふためく私に、彼はその後も笑い続けた。やっと笑いが収まったかと思うと突然お皿を持ち上げ、洗い物をし始めた。スポンジに洗剤を出してゴシゴシと洗う姿は手慣れていて、私が考えている以上に、彼の一人暮らしは長いのではないか、と思った。

「歌が、好きだったから」
「へ」

 水音に混じって、彼が呟く。

「僕、あの道をいつも通って帰ってるんです。4日くらい前からかな。あなたの歌を聞いた。あの辺はたまにストリートライブをやっている人を見かけるんです。それが日常生活だから、よっぽどの何かがないと、人は立ち止まらない。あなたの歌は、大勢の人を立ち止まらせることはできなかった」

 確かに私があの場所にいたとき、何人かがストリートライブをしているのを見た。人が随分と立ち止まっているところもあれば、誰も立ち止まらないところもある。私は向こう側で群がる人の歌を、素直に羨ましいと思っていた。まだ20代前半で、その瞳は希望と活力に満ち溢れている。夢の先に何があるのかも知らないで、ただひたすらに、真っ直ぐに、がむしゃらに。

「でも、僕はあなたの歌に立ち止まった」

 そうだっただろうか。時々立ち止まってくれた人は何人かいたけれど、こんな男子高校生はいなかった気がする。仕事帰りのサラリーマンが多く、正直そんなオジサンの顔など覚えていない。そういえば、美少女が随分と長く立ち止まって私の歌を聴いてくれていたな、と思い出した。黒髪のツインテールがまるでお人形さんみたいで、少し雛を彷彿とさせた。今頃、彼女は私のことを探してくれているのかもしれない。いや、私のことなんて本当は心底どうでもいいのだから、そんなことしないか。

「奈子さんは2日間も同じ服を着てたし、口元についてたケチャップも取れてなかった。つまり、帰る家がないってことだ」

 思わず口元をゴシゴシと擦る。前の日に食べたハンバーガーのソースだろう。私はずっと、そんな子どもじみたものをつけて歌っていたことになる。顔を顰める私の様子を見て、彼は、さっきお風呂に入ったから大丈夫ですよ、と苦笑した。
 水音が止み、彼は再び私の目の前に座った。テーブルに無造作に置かれた両手の爪に、赤いマニキュアが施されていることに気づく。今どきの男の子もマニキュアを塗るのか。魔女のように伸ばされた何も塗っていない私の長い爪が急に恥ずかしくなって、さっ、と手を膝の上に置いた。

「帰る場所がないのなら、僕のところで寝泊まりしてください。僕は、あなたの夢を応援しています。もっと、あなたの歌を聴きたい」

 何故だかそれは、熱烈な愛の告白のように聞こえた。

Re: 楽園墓地 ( No.4 )
日時: 2018/11/30 20:25
名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)

 
 翌朝目が覚めるとベッドの上だった。隣を見ると男子高校生、なんていう現象はなくて、ただただ空虚な空気が漂っているだけだった。日向くんは、私を抱かなかった。
 家主であるというのにソファで眠る、と言って聞かなかった彼は、ドアの向こうからガチャガチャと物音がするので、すでに目を覚ましているのだろう。時計を確認すると、まだ6時台だった。AM4:00に寝てPM1:00に起きる、という不健康極まりない生活をしていた私は、彼に合わせて昨日はPM11:00に寝た。心なしか、お肌の調子がいいような気がした。
 顔を洗うためにベッドから出てドアを開けると、学ランを着た男子高校生がソファに座ってスマホを操作していた。私がリビングに入ってきたことに気づき、あっと顔を上げた彼は、テーブルの上を指さす。

「こんな早い時間に起こしてしまってすみません。電車通学なんですけど、この辺、本数が少なくって……朝ごはん、ここに置いておくので、好きなときに食べてくださいね」

 それじゃあいってきます、と彼は玄関へと歩いてゆく。思わずいってらっしゃい、と返すと、彼は嬉しそうに頷いて、家を出ていった。
 机に並べられた朝ごはんは、卵焼きとウインナー、サラダだった。部屋中を漂っている匂いから判断して、味噌汁もあるのだろう。冷蔵庫を確認すると、納豆まであった。なんて健康的なんだ。
 顔を洗ってから味噌汁とご飯を手に持って席に着くと、いただきます、と手を合わせ、まずは卵焼きから食べ始める。甘めの味つけだった。うちの家は辛めの味つけだったので、なんだか新鮮に感じられた。もちろん美味しい。
 いってらっしゃいもいただきますも卵焼きも、昨日と今日で久しぶりに口にした気がする。もう7年も一人暮らしをしてきて、家を出るときも何かを食べるときも、何にも感謝を捧げていなかった。そこに誰もいないのに、言う必要なんてなかったから。そして、誰も聴いていないのに歌い続けていた私は愚かだ。
 最後に味噌汁をずずっ、と行儀悪く飲み干すと、途端に暇になった。スマホもないし、何よりこの部屋には本がない。本を読む習慣がないのだろう。若者の読書離れは思っているよりも深刻なのかもしれない。私の学生時代は本に溢れていた。読書するかポエムを書くか息をするか。それら3択しかない青春時代だった。
 本来ならば彼の自室であるはずの部屋はベッドとクローゼットしかなかったので、彼はいつもリビングで過ごしているのだろう。よく考えれば、彼はクローゼットから制服を出して着替えたはずなので、私が寝ている間に部屋に入ってきたことになる。きっとあほ面で寝ていたんだろうな、私。それにしても、全然目が覚めなかった。これでも音には敏感なのに。
 TVでも観ようと思ってリモコンを探すも、エアコンのリモコンだけが置いてあるのを見て、初めてこの部屋にTVがないことに気づいた。家というものは、いつでもTVの音声が溢れているものだと思っていた。これで、先程からあまりにも暇な理由がわかった。音がないのだ。
 沈黙を自覚すると、急に静寂が苦になってきた。昨夜から置きっぱなしにしていたギターを取り出すと、カーペットの上に胡座をかいて座った。
 高校生の頃、こんな風に胡座をかいてストリートライブをしていたとあるアーティストに憧れていた。自分の声とギターのテクニック、作詞作曲のセンス、オーラ。全てを出し切っているようでそうでもなく、繊細なようで無造作で、礼儀正しいようで無法者のような。そんな音楽を纏う彼女に憧れていた。
 私が崇拝していた彼女は人気絶頂期に何故か引退し、数年前に独自でバンドを組んでまた復活したと風の噂で聞いたけれど、芸能界から干されているのか、地上波で全く見ることはない。それでも動画サイトで検索すれば、あの頃の彼女は100万回再生も500万回再生もされている。私と同じように、彼女に恋焦がれ、今なおその歌声と生き方に囚われ続けている人間がいるのだ。
 逃避行にチューナーはない。初めて自分のお小遣いで買ったチューナーが壊れてからは、ずっとスマホにアプリを入れてチューニングをしていたけど、誰に聞かせるわけでもなくなったので、耳で合わせていた。幼い頃からピアノを習ってきたため、音感には自信がある。基本のコードをなぞると、まだほんの少し合っていないような気がしたけど、まあいいや、とそのままがしゃがしゃ鳴らし続けた。特に意味はない。
 鼻歌を歌いながらリズムを取っていると、机の上に新聞があることに気づいた。朝刊だ。チラシが挟まっている。そういえば、私が初めてポエムを書いたのは、不動産屋の黄色いチラシの裏だった。
 ギターから手を離して1枚手に取ると、日向くんが勉強に使っていたらしい机の上のシャーペンで「あ」と書いた。私の字はよく汚い、と言われる。基本走り書きで、高校時代、書道部の部長だった友人には草書が得意そうだね、と言われた。多分、頑張れば筆記体もいけるだろう。bとdの違いがわからない馬鹿だけど。唯一字に関して素直に自慢できるのは、書き順を完璧に覚えていることくらいだった。「あ」の次に来るのは普通なら「い」で、その通りに書いた。そしてその次は「う」だけど、ぶっ飛んで「し」と書く。

『あいしてる』

 昨日の彼の言葉は、音楽の道を志す者にとっては愛の告白に等しいものだ。音楽とは、自分自身。内側も外側も、汚い部分も綺麗な部分も、全部押し出してその凝り固まった醜い固体を沸点まで昇華して気体にするのが音楽というものだ。原材料はいのち。消費が激しく、かつ持続不可能なエネルギー。
 あなたの歌が好き。あなたの歌をもっと聴きたい。それだけで、生きていける気がする。誰にも認められず、すり減ったいのちは、愛によってしか埋めることができない。私はそれを、Hinakoから教えてもらった。

『あいしてると言ったあなたの声

それだけで10日は生きていられるわ』

 ポエムか、とチラシをぐちゃぐちゃにして、ゴミ箱に投げ入れる。もう私はポエムは書かない。4日前までは、四分音符とト音記号と歌詞を書いていた。Hinakoのために。Hinakoは今、何処にいるのだろう。

「何処にもいないよ」

 ぎゅっ、とギターを握りしめる。遠くの方で、私が初めて書いた曲が回っている。Hinakoのためじゃなく、自分自身のために書いた曲。素敵な曲!と無邪気に笑った雛の顔が忘れられない。そうだ。歌うのは私じゃなかった。雛なのだ。彼女の綺麗な顔と綺麗な声、でも才能はない。私の作詞センスと作曲のセンス、でも才能はない。哀れな才能なしは、2人で1人になる、という浅はかな答えを導き出した。
 ふと時計を見ると、10時を過ぎていた。頭から離れない曲の歌詞を新たなチラシに書いていたら、いつの間にか頭の中もチラシも真っ黒になっていた。
 スーツケースから新しい服を取り出し、やっとパジャマから着替えて、気分転換に昼食でも買いに行こうとしたとき、鍵がないことに気づいた。そりゃあそうだろう。家主は鍵を持って学校に行っているのだろうし。というか、こんな怪しい女1人を家に置いて、金銭面のことを気にしていないのだろうか。いや、別に何かを盗ったり、何かを壊したり、という恩知らずではないつもりだけど。
 もしかしたら合鍵があるのではないか、と辺りを見渡すと、観葉植物があることに気づいた。私の実家では、非常時のために庭の植木鉢の下に鍵を置いていた。植物の下というのは、秘密を隠すのに相応しい場所ではないだろうか。秘密を隠すなら薔薇の木の下、なんてことを聞いたことがある。
 恐る恐る観葉植物の下を覗くと、思った通り、鍵が置いてあった。自分の考えが当たっていたことにほっとし、財布だけを持って家を出る。
 アパートの廊下に出ると、隣の隣の部屋の前で40代くらいの男性が煙草を吸っていた。203号室の鍵を閉める私に気づいたようで、私の顔を見て訝しげな顔をした。

「こんにちは〜」
「……どうも」

 こちらから挨拶をすると、若干目線は弱まったけど、その眼光は衰えない。彼は、この203号室の住人が男子高校生の1人だけであることを知っているのだろう。何か聞かれないうちにここを去ってしまおう、と足早に駆けて、階段を下りた。ギシギシ、と錆びた階段の音が響く。もしここで殺人事件があったら、この階段の音から出入りした人の人数がわかるのではないだろうか。以前、そんな刑事ドラマを観た。
 アパートの前の道路を渡るとすぐそこにコンビニがあることは既に知っている。私が大学時代からずっとお世話になってきたコンビニとは違うが、コンビニなんてどこも同じだ。水色か緑かの違いだ。それなりに美味しくて、それなりに生きられたら、それでいい。
 店内に入ると、印象的なベルの音と共に、バイトの「らっしゃいやせー」というやる気のない声。もうすぐ夏なので、おでんも肉まんもない。チキンだけがそこにあった。
 私はどちらかというと肉よりも野菜が好きなので、サラダと昆布のおにぎりを選んだ。無造作に取り出した100円の緑茶のペットボトルはよく冷えていて、外で飲んだら美味しいだろうな、と思った。
 平日の昼間だというのに何故かレジ前が込んでいたので、なんとなく雑誌コーナーに立ち寄る。煌びやかなモデルと服が私の脳を刺激した。こんな雑誌は、似合うやつだけが買うものだ。私のような、冴えない女が手を出すべきじゃない。
 漫画雑誌でも見るか、と奥に行こうとしたとき、「Hinako」という文字が目に飛び込んできて立ち止まる。音楽系の情報雑誌のようで、1冊しかないそれを手に取ると、ウェーブがかった長髪の美少女がこちらを見て笑っていた。

「『今大注目の若手シンガーソングライター』ねぇ……」

 はっ、と笑うと、乱暴に棚に戻した。漫画雑誌の棚に行く気も失せてレジを見ると、店員が2人に増えたようで、客の人数が減っている。財布の中の野口英世を確認しながら、私は最後尾に並んだ。思っていたよりもすぐに順番は回ってきて、少し発音のたどたどしい店員が、バーコードをスキャンしていく。外国人なのか、遅い作業ながら一生懸命なその様子に、少し頬が緩んだ。お札と小銭を差し出すと、百円玉だけが返ってくる。すっきりとした数字は気分がいい。ありがとうございました、と意外に流暢な言葉を聞きながらコンビニを出ると、また歩き始めた。どこで食べるかはもう決めている。アパートの近くに公園があることは確認済みだった。私は1人になれる場所を探すのが得意だ。だから友だちの輪が広がらないんだよ、と書道部の友人に苦笑されたことを思い出す。彼女とも随分長いこと連絡をとっていない。精神的に不安定だったときに、昔の知り合いのLINEはすべてブロックしてしまった。優しい彼女は私にメッセージを送ってきてくれているのかもしれないけど、地元に戻るつもりもない。あんな優しい友だちには二度と出会えないような気がした。
 珍しく三角形の形をした小さな公園は、観覧車の模倣品のような不思議な乗り物とブランコだけが存在していた。ブランコに乗ってぶらぶらしながら昼食を食べるのもいいと思ったけど、どうしてもその奇怪な乗り物が気になり、一気に乗り込んだ。ぐらぐらと足場が揺れる。子ども用に作られたらしいそれは大きなブランコのようで、座るところもあり、まさに観覧車のようだと思った。回転はしないけど。
 子ども二人乗りであろう窮屈なそれに座って、おにぎりのフィルムを剥がしてゆく。昔から手先が不器用で、こういうことは苦手だった。今だって、海苔が破けてしまう。同じことを何度もやらかして、その度に雛に馬鹿にされたことを思い出す。うるさい。あんただってちょうちょ結びができなくて、私に頼ってたじゃんか。
 コンビニのおにぎりは、母が作ってくれたものと違って冷たいし、海苔はパリパリだ。かといって、母の大砲みたいにぎっちぎちのおにぎりの方が好きな訳でもない。好き、と語るには時間が経ちすぎている。もう、あのおにぎりの味を忘れてしまった。
 大量生産品は、大多数の人々が美味しい、と微笑む味でできている。大量生産されたCDが大多数の人々に好き、と言われるように。コンビニのおにぎりはミリオンヒットに似ている。100万枚も売れた曲は多分、みんな知っているし、みんな忘れないし、みんな好きな曲だ。
 学生時代、私は購買のパン屋さんに憧れていた。駅前のパン屋さんとも、近所のスーパーのパン屋さんとも違う明太子フランス。茶道部の友人は、あまり好きじゃない、と言っていた。私は購買の明太子フランスのような存在になりたかった。誰々に似ている、何々に似ている、なんてことを決して言われないような、10万ヒットくらいの人間に。今のCDの売れない世の中では、10万を売り上げるのも大変だ。ちなみに、HinakoのCDで最大の売上は7万だ。笑える。
 Hinakoが表紙を飾っていたあの雑誌の創刊号を、昔見たことがある。そのときもHinakoのことを特集していて、思わず台所で燃やした。LINEを大量にブロックしたのもそのときだ。艶やかな笑みを浮かべるHinakoの顔を見ていると、吐き気がした。
 サラダを膝の上にのせ、割り箸を握りしめる。相変わらず不器用な私は、今日も割り箸を綺麗に割ることができない。

Re: 楽園墓地 ( No.5 )
日時: 2018/12/09 22:42
名前: 小夜 鳴子 ◆1zvsspphqY (ID: 3vsaYrdE)

 
 コンビニの前に戻ってゴミを捨ててから、私はふらりと街を歩き回った。アパートの周辺は都会とは違って人通りが少なく、なんとなく自分の地元を思い出させる。ビルやマンションは遠くの方に見える。あの辺りで、昨日まで私は歌っていた。
 学生の制服の店に入って変な顔をされたりもした。ガラス張りのショーケースの中に、日向くんが着ていた制服はなかった。電車で通学しているようだったので、ここから離れた学校に通っているのかもしれない。私の高校は男女共にブレザーだった。そういえば、学ランを神聖視する曲は書いたことがない。男子高校生の学ランは尊い。彼の細い首筋に真っ黒な学ランは酷く似つかわしかった。
 途中、何度か道に迷いながらも町内をほぼ一周してアパートに帰ってくると、私を不審げに見つめてきたおじさんはいなくなっていた。少しほっとしながらドアを開けると、電気はついていなかった。日向くんはまだ帰ってきていないようだった。部活をしているのだろうか。運動部ではなさそう、なんてことを思った。
 リビングに投げ捨てられていたギターを担ぎ、再び外に出る。家に帰ったって、やることなんて何も無いのだ。19時くらいまでまたあの場所で、誰も聞いてやくれやしないひとりぼっちの楽園で、ギターを弾くことにした。
 アパートからあの場所まではそんなに遠くはなかった。日向くんに連れられて歩いた記憶を逆向きになぞってゆくと、次第に人の通りが多くなり、気づけばそこに辿り着いていた。
 ギターケースを下ろし、ギターを肩に引っ掛ける。ピックを取り出すと、端がわずかに欠けていることに気づいた。なんてこった。オレンジ色で、お気に入りだったのに。替えは私のアパートにしか置いていないので、仕方なくそのまま弦を弾いた。欠陥を意識すると、ギターも私も汚い音色を奏でているような感じがする。そんな、たった数ミリ程度で何かが変わるなんてこと、まああるのかもしれないけれど私にはよくわからなかった。
 数年前に引退した私の大好きだったアーティストの歌を歌い始めると、昨日一昨日と歌っていたときよりも、立ち止まってくれる人が増えた。みんな彼女のことを覚えているのだ。そして私の顔をちらりと見て、一瞬がっかりとした顔をする。ごめんね。こんな奴が美しい彼女の歌を歌っててさ。
 もう秋だ。日が沈むのが早くなってきている。今年の夏は暑かったから、秋が来ると一気に寒くなる。冬に家出をしていたら、あっという間に野垂れ死んでいただろう。
 ふと、マイクがほしいな、と思った。あとアンプも。私の歌に人が集まりにくいのは、音が届かないのが原因の1つなのかもしれない。これが雛なら、誰よりも透き通った声で、たくさんの人の記憶に残るだろうに。私の歌声は雨と同じ周波数をしている。雨が打ちつけるアスファルトの上では、雨音と同化して誰にも届かない。そんなやつの声は、マイクを通しても、ギターとベースとドラムの音にかき消されてしまう。君は歌手に向いていない。だけど、作詞作曲家には向いている。私を採用した社長は、微笑んで私の中の音楽をぶっ壊した。
 明日からはなけなしのお金でマイクやアンプを借りられるところはないか探そう、と考えながらコード進行だけを繰り返していると、私を真っ直ぐに見つめている少女に気づいた。昨日も一昨日も、私のストリートライブを見ていてくれていた美少女だった。長い黒髪を赤いリボンでツインテールにしている。派手な髪型のわりに清楚なワンピースを着た彼女は、私とばっちり目が合っても、決して目を逸らしはしなかった。むしろ、先程以上の意志をもって見つめてきた。黒目がちの瞳が、私を射抜く。もっとお前の音楽を奏でろ、とでも言うように。
 一旦手を休め息を吐くと、私はリクエストに応えて真面目に歌い出した。Hinakoの歌を歌うわけにもいかないので、私が今日、ゴミ箱に捨てた小っ恥ずかしいポエムを題材に歌詞を描いた。メロディは適当。何故か三拍子で。途中、何度かコードの選択をミスりながらもなんとか弾き終える。今度は着陸成功だった。燃料も漏れていない。あ、これ絶対いい曲だった。そんな確かな手応えと共に辺りを見渡すと、ちらほらと拍手が聞こえてきて、最後まで聴いてくれていた人がいたことに気づいた。昨日まではつまらなそうに歌っていたのがいけなかったのだろうか。去ってゆく人たちを見ながら、今までの歌い方を少し反省した。
 美少女も私の歌を聴いてくれたのだろうか。視線を彷徨わせると、また目が合った。彼女もこのまま去ってゆくのだろう。一時の幸せな夢を、どうもありがとう。しかし私の予想に反して彼女は逆に私に走り寄り、私の目の前までやってきた。近くで見ると意外と背が高く、細身でスタイルもいい。私が勝っているのは胸の大きさだけだった。
 美少女は何度か口をパクパクと動かすも、言葉にするのを躊躇っているようだった。しばらく目を彷徨わせると、やっと決心したのか、彼女はふぅ、と息を吐き、音を発する。

「よかったです、今の曲」

 可愛い声を期待していた私が馬鹿だった。いや、確かに綺麗な声ではあったけれど、可愛い、というには低すぎた。しかも、これは女の子が出すような声じゃない。そう、まるで青年のような。恥ずかしげに目を逸らした美少女をまじまじと見つめると、顔のパーツの配置に見覚えがあることに気づいた。頭の中で、マスカラとアイラインを落とし、リップをひっぺがす。顔覚えのいい私のデータベース上に弾き出された顔は、ひとつだった。

「……もしかして、日向くん?」

 ツインテールの美少女はコクコクと頷く。冥王星が地球に衝突してしまったかのような衝撃だった。頭の中で、ひたすらはてなマークが転がり回る。いや、確かに綺麗な男の子ではあったけれど、どうしてこんな女装なんて。いや、似合ってる。超絶似合ってて逆に不思議なくらいなんだけれども。

「大変恐縮なんですけど、ついてきてほしい場所があるんです」

 なにやら深刻そうな表情で美少女が呟くので、ギターケースを担ぎながら「うん、いいよ」と続けて、美少女とならどこへでも、などと発言しようとするも、ばっ、と手を引かれてその行動は中断された。
 男の子にしては低い身長の日向くんだけれど、152センチメートルの私よりかは確実に高いので、歩幅が違うために、必然的に私が少し小走りになる。彼に引っ張られて限界まで伸ばされた私の腕がまるでバネみたいに収縮を繰り返していた。その瞬間に失礼なことを悟る。きっと彼は、今までに彼女ができたことがない。
 美少女に手を引かれる地味な女、という妙な構図からか、周囲からの視線をひたすらに感じた。彼は視線に慣れているのか、まるで気にもせずにアスファルトの上を歩き続けている。と、信号に引っかかった。赤信号の四角い光が月の丸い光と対比していて綺麗だった。

「僕は小さい頃、親を交通事故で亡くして、今は遠縁の親戚の方にお世話になってます。ただその人は色々と特殊な人で、あまり家に帰ってこないし、一人暮らしみたいな状況になっているんですよね」

 彼の部屋の表札が「小田」だったことを思い出した。彼が1人で暮らしている理由と合わせて、両親の離婚ではないかと疑い、口に出さないものの、不倫や隠し子など、実は下衆な勘ぐりをしてしまっていた自分が恥ずかしくなった。もう随分と帰っていない、実家の母親の姿を思い出す。今の私のみっともない姿を見せたくなくて、ずっと会えずじまいの、両親たち。

「その人は、ライブハウスを経営してるんです」

 信号が変わるのと同時に、彼は横断歩道を渡り、右に曲がった。そうして私の手を放し、赤いマニキュアの塗られた綺麗な爪で、一方向を指さした。

「ここです」

 『B★stream』と看板に書かれたそのライブハウスは小さなものだった。ぴかぴかと光り輝くそこに、ちらほらと入っていく人たちは確かにいて、今も私の隣を2人の若者が通り過ぎていった。彼らが白い扉を開けた瞬間、パチンコのドアが開いたときのような爆音が流れ出して、ぴくり、と肩が震える。それは確かに、叫ぶようなボーカルの歌声だった。

「裏口から入りましょうか」

 日向くんは苦笑して、また私の手を引いて少し歩く。今度は信号のない横断歩道を渡って、ライブハウスの裏口に回った。黒い扉にはもちろん鍵がかかっている。インターホンはあるものの、一体どうするのだろう、と思っていると、彼はポケットから小さな鍵を取り出すと、簡単に開けてしまった。この女装といい、彼はここの関係者なのだろうか。後見人がここの経営者らしいし。
 扉を入ってすぐエレベーターがあり、ボタンを押した瞬間に開いたエレベーターに乗り込むと、彼は迷わず2階を押した。このライブハウスは3階建てらしい。恐らく、1階がライブ会場で、2階が控え室、そして3階がスタッフたちの仕事場、といったところだろうか。
 チン、という音と共にエレベーターの扉が開くと、少し黄ばんだ壁と喧騒が飛び込んでくる。自動販売機が並んだ廊下は、お酒の匂いと煙草の匂いがしていて、なんとなくテレビ局を思い出した。前に、雛によくこんなところに来れるね、と言ったことがある。彼女はそわそわと落ち着きなく当たりを見渡す私を見て、不思議そうに笑っていた。
 日向くんはあるドアの前で立ち止まると、また私の手を放し、コンコン、とノックする。はーい、と気の抜けた声が返ってきた。

「僕です」

 名前を言わなきゃ意味なくないか、と思いながらも、彼はそう呟くなり、断りもなくドアを開けた。それじゃあノックした意味は? とまたしても疑問に思ってしまう。部屋の中には数人の男性と1人の女性がいて、その女性は鏡の前で男性の髪を触っていた。真っ赤な髪をした男性は、その女性に向かって、「オダさん、今日もサイコーっすね!」と笑った。オダさん。それじゃあ、この人が。

「あ、やっときた」

 男性から目を離してこちらを見た彼女の髪の毛はなんと緑色で、周りで談笑する男性たちの青やピンク、赤といった派手な中に完全に溶け込んでいた。そしてその緑髪が有無を言わせないほど似合っている。端的に言って、オダさんは美人だった。ああ、この人は生まれつき、雛みたいに華やかさを持っている人間だ。

「ほらあんたたち。全員セットしてあげたんだから、とっとと行っておいで」
「いつもありがとな、オダさん!」
「音楽で返してきな!」

 彼女はかかかっと豪快に笑うと、男性たちに部屋を出てゆくよう促した。彼らの黒いTシャツは、何やらアルファベットで埋め尽くされている。おそらくはバンド名なのだろうが、見覚えはなかった。まだデビューしていないバンド。全体的に大学生のような雰囲気を纏う彼らを見送ると、さて、とオダさんが手を合わせた。

「あんたのいろんなものを拾ってくる癖は知っていたけど、まさかついに人間まで拾ってきてしまうとはね」

 ふぅ、と吐き出されたため息に、私と葵くんは同時に肩をびくりとさせた。私は私で未成年の家に勝手に上がり込み、彼は彼で保護者に黙って人を上げていたのだ。気まずい雰囲気になるのも致し方なかった。しかし、彼女はすぐに表情を明るくすると、挙動不審な私に右手を差し出す。

「とりあえず、初めまして。葵くんの後見人やってる小田 槙と言います。周りからは『オダさん』って呼ばれてるから、そう呼んでくれると嬉しいな」

 奇妙なほどに、先程の男性たちと接するようなフランクな態度の彼女の手をおずおずと握り返し、私は重い口を開いた。

「あ、えっと、私の名前は奈子といいます。あのー、日向くんの家に勝手に上がり込んでしまって……」
「ああ、いいからそういうの。起こってしまったことはもう仕方ないから」

 彼女は私の手を一通りぶんぶんと振り回すとぱっと放し、何も喋らない葵くんに、指で何かを合図する。彼はそれを見ると静かに目を閉じ、神妙に頷いた。