複雑・ファジー小説

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.112 )
日時: 2019/03/16 23:43
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

第三章 邂逅

 ブリタニアへ帰還したシャラは報告のためアルフレドの執務室を訪れていた。

「ご苦労であった、シャラ公女」

 既にデザイト方面軍の指揮権はイスラフィルに返上し、彼らは予定通りルクへの道を急いだ。今のシャラにできる事は、一日も早くデザイトが解放されるのを祈る事だけである。

「いえ、全てはデザイト方面軍の力があったればこそ。私の力など、些細なものです」

 アルフレドは謙遜するな、と笑っていた。
 ただシャラには達成感がなかった。イスラフィルやアルフレドの役に立てたことは素直に嬉しく思っている。だとしても、何かをやり遂げた感覚はなかった。
 いや、なぜそう感じるのかはわかっている。
 ただ戦っているだけに過ぎないからだ。イース同盟にデザイト公国の力が必要不可欠だとしても、ここまで状況が差し迫った今、単純な戦力の積み増しでは単なる時間稼ぎしにかならない。
 もっと何か違う事ができるのではないだろうか。
 シャラの胸を支配するこの思いは、凱旋を果たしたというのに焦りであった。
 不意に、扉がノックされた。
 アルフレドの許可と共に現れた人物は、驚いた事にアムルであった。

「アムル様!?」

 シャラは慌てて壁際に退き跪く。

「アムル様、王妹殿下ともあろう貴女様が、一体このような場所まで何の御用なのですか?」

 アルフレドも驚いて問いかけた。だがアムルは構わず口を開く。

「無駄な前置きは省きます。実は、シャラ公女にお願いがあって参ったのです」

 自分の名が呼ばれ思わず顔を上げると、アムルの美しい翠色の瞳がこちらをまっすぐ見つめていた。

「公女、「イストリア島」にわたくしを連れて行ってください」

 アルフレドは絶句していた。シャラも思わず彼女の顔を凝視する。アムルの気品に満ちた美しい顔は、少しの迷いも浮かんではいなかった。
 アムルの意図はわかる。モルドレッドによって流刑にされたソスランを救出しようというのだろう。

「しかし、あまりに危険です」

 アルフレドはようやく冷静さを取り戻しアムルをいさめた。
 「イストリア島」とは、イース王国の南西部に位置する直轄地であり、政治犯を収容した天然の監獄である。脱走を防ぐために多くの兵が配備されている。だが、この兵達はただの兵ではなく、ならず者のような性格に難がある者達ばかりである。

「例えアムル様であろうと、あのような場所に無断で立ち入れば、どのような目に遭わされるか・・・・・」

 語尾を濁らせたアルフレドだが、アムルはそのような事は覚悟の上だとばかり小さく頷くだけだった。

「だとしてもです! ソスラン様を取り戻さず、同盟に明日はありません!」
「しかし、アムル様まで一緒に行かれるのは……」

 気持ちはわかるだけに、アルフレドの言葉は弱かった。

「いいえ、わたくしがいかなければ、ソスラン様は決してあの場から動こうとされないでしょう。一刻の猶予もないのです。シャラ公女! これはわたくしの使命なのです!」
「……使命?」

 その言葉がシャラの何かを打った。
 シャラのつぶやきを聞き逃さず、アムルはこちらを見て大きく頷いた。

「ええ、そうです。この戦いを終わらせるためには、ただデザイトを取り戻すだけでは足りません」

 強く断言するアムルの気持ちは分かった。もはや人々の心は完全にモルドレッドから離れてしまっている。たとえデザイトを取り戻した所で、モルドレッドではこれを有効に使えないだろう。たとえシャラやアルフレドが誤魔化した所で限りがある。

「おわかりでしょう! シャラ公女、どうかお願いいたします。わたくしをイストリア島へ!」

 使命。アムルはそう言った。そうなのかもしれないと、シャラは考える。この焦りは、果たすべき使命と出会っていないためのもの。
 そしてこの戦争を終わらせるため、今シャラができる事は……

「わかりました。我が騎士団が、アムル様をお連れしましょう!」
「シャラ公女!」
「アルフレド様、アムル様の仰る通りです。ソスラン様は、今のイース同盟に不可欠な方。それがわかっているなら、手をこまねいているわけには参りません」
「私とてそれは……ええい、わかった。船の手配は私に任せよ。その代わり、アムル様とソスラン殿下には傷一つつけずお戻しするのだぞ!」
「は、私の命と名誉にかけて、必ずや」

 その日、シャラは自身の使命と出会ったのだった。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.113 )
日時: 2019/03/17 19:25
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 同時刻、ミタマはクリスを街外れの岬へと呼び出していた。
 その岬は昼間の日差しが当たってか、海が澄んだ青色に輝き水平線を描いている。空も雲一つない真っ青な空で、快晴であった。
 ミタマに連れられてきたクリスはフードを脱ぎ、ミタマを見つめた。

「どうしたんですか、ミタマ。こんな場所に呼び出して……」
「クリスさんにお返ししたいものがありまして」

 ミタマは懐から金色のロケットペンダントを取り出し、クリスの手を取ってペンダントを握らせる。クリスは目を見開き、ペンダントを見つめた。

「これをどこで!?」

 クリスは裏返った声でミタマに尋ねた。

「多分、貴方が慌てて落としていってしまったんでしょうね。私を助けてくれた時に」
「あっ……えーっと……」

 クリスは思わず頭を掻きながら目を逸らす。
 ミタマは以前、弟のウカと対峙し深手を負ったのだが、何者かによって応急処置を施され助かっていた。そして、ペンダントもそこで拾ったのだ。

「まずは、命を救っていただき、ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」

 ミタマはクリスに向かって頭を深々と下げる。クリスが戸惑っていると、ミタマは頭を上げてクリスの瞳を見つめる。

「答え合わせをさせてください。私はそのペンダントの中身を見てしまいましたので、真実を教えてほしいのです」
「……な、何のことか——」
「とぼけても無駄ですよ。貴方は帝国側の人間……そうでしょう?」
「——ッ!!」

 クリスは言葉も出せずミタマを見る。
 そして、ふうっとため息をついて、

「わかりました。貴方はミズチ国の人間……それにシャラザード殿の仲間の方ですし、信用に値します。全てをお話しましょう、ペンダントを預かってくださいましたしね」

 やれやれという感じで笑みを浮かべながら肩をすくめるクリス。
 そして、一息おいてクリスは自身の正体、自身の目的などをミタマに明かす。ミタマは真摯に聞いて、頷いたり反応を見せていた。

「どうかご内密に。帝国側の人間がここにいると知られれば、僕だけじゃない。貴女にもシャラザード殿にもご迷惑がかかってしまいます」
「承知しています。……ですが、この後どうするおつもりなのですか?」

 ミタマの質問に、クリスは笑みを浮かべた。

「約束の時まで、息を潜めています。僕の事を気取られないように、静かに」
「気取られる?」

 ミタマは首を傾げた。気取られるとは、一体誰にだろうか。……考えたくはないが、王国側に帝国軍が潜んでいるのではないか。とミタマは考える。

「いますよ、王国側に。帝国軍の人間が」

 ミタマの考えを見通すかのようにクリスはそう口にする。

「だから、貴女方ミズチ国の方々が動いているのでしょう?」
「スピネル殿とタマヨリヒメ様の事ですか?」
「いいえ、他にもミズチ国から渡ってきた方がいますよ」

 クリスの答えに「えっ」と声を出してしまうミタマ。
 一体誰なのだろうか?

「もうそろそろ、戻りましょう。みんな心配しちゃいますよ」

 クリスはそう笑みを浮かべると、ミタマの手を引いた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.114 )
日時: 2019/03/17 23:20
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 イストリア島に出発したのは、アルフレドの執務室でアムルに依頼してから十日後の事だった。
 その間にアルフレドは少人数で動かせる船の準備と、行って帰ってくる間にシャラ達が必要とする食料や水を用意してくれた。
 この時、既にブリタニアの商業ギルドからの援助もあって、エリエル騎士団の軍勢は五百にまで膨れ上がっている。さすがに五百もの軍が動けばモルドレッドに知られてしまう。また何か他の任務が下る可能性を考えたシャラは、エドワードに大半の軍を任せ、選び抜いた百の兵だけを同行させることにしていた。
 最も困難なのが出航と、向こうでイストリア島の警護隊とまみえた時にこちらの身分が悟られないかどうかである。
 同行させる兵を選ぶ以外、シャラにできる事はなかった。
 いつも通り街の視察に出歩き、兵達の訓練を監督し、定期連絡のため王城へ足を運ぶ。この間、事態がモルドレッドに露見するのではないか、急に物資を集め始めたアルフレドが怪しまれるのではないか、自分が不自然な挙動をとっているのではないか、気が休まる日はなかった。
 生まれてこれまでで、最も長い十日間であった。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.115 )
日時: 2019/03/18 08:44
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 船が港を離れたのは夕刻。
 人々はどこか気忙しく、余計な事を悟られない時間を選んだ。
 シャラは短期間の遠征の手続きをとった。近隣の盗賊団討伐に出撃するというものである。謁見の間では、この期に及んでお人好しなどと嘲笑されたが、申請自体は思った以上に簡単に通った。
 またアムルは、流行り風邪を患ったとして、信用のおける侍女に面会を断ってもらうようにはしていた。ソスラン脱走は、恐らく国を揺るがす事件となるだろう。少なくともソスランはモルドレッドの決定を反逆した事になる、今度見つかったら死罪を免れない。それどことか、モルドレッドは本格的な叛乱——それこそ血の八年間を思い出して取り乱すだろう。
 処罰され、死人が出るかもしれない。それでもシャラは、ソスランを救い出さなければならなかった。

「シャラ公女、風が気持ちいいですね」

 船の甲板に上がると、アムルがたたずんでいた。
 思わず膝を折りかけるシャラを、アムルは柔らかく制する。

「貴女が膝を折っている隙に何者かが襲いかかってきたら、一体誰がわたくしを守るというのです? この先、虚礼は必要ありません。わたくしはただの無力な女。足手まといを承知で無理に同行させてもらっているだけの存在です……貴女には、感謝いたします」

 そういって、アムルはエメラルド色の瞳を細めた。黄昏を背景にして優しく微笑む。それはまるで母親が子を慈しむように、友愛に満ちた微笑みであった。
 風が瞳と同じ色の髪をさらう。アムルは軽く手で押さえ、まだ姿の見えぬイストリア島の方を振り返るのだった。

「必ず救い出しましょう。イース同盟の、希望の光を……」

 彼女の言葉は、彼女が自身を指して無力と言ったのとは明らかに反し、力に満ちていた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.116 )
日時: 2019/03/19 12:35
名前: 燐音 (ID: 9AGFDH0G)

 イストリア島は、王都ブリタニアから一日程船で南下した位置にあった。
 エリエル公国、ディーネ公国、イース王国の内海を進み南下した孤島がイストリア島と呼ばれ、かつてイストリア帝国の民が建てた神殿があったこの島は、イース王国の直轄地となっている。今は陸地からはごく近い距離にありながら政治犯の収容所として使用されていた。
 これは、海底の複雑な地形の関係で周囲の潮流が激しく逃げ出そうにも泳いで逃げる事は出来ず、そして島自体が断崖絶壁の切り立った形をしており、外部から囚人を取り戻そうと現れる人間に対して自然の要塞として働くからである。
 上陸は、島の近くで停泊し、夜を待って行われた。帆を張り、音もなく忍び寄り、そして小舟に分乗して島の北の砂浜に上陸した。
 地図を見ると、島は北と南の二つに分かれており、ソスランが収容されている神殿は南の島——それも切り取った岩山の上に築かれていた。

「公女、準備は整いました」

 シャラ達は小舟から食料など最低限の荷物を降ろすと、杭を打って舟を括りつけ手近な木から枝をとってきてこれにかぶせ隠させていた。
 エドワードからは最も信頼しているという自身の補佐役、アスランを今回の作戦の補佐として推薦された。元々アスランはシャラも信頼しており、鋭い面差しが示す通りその実力と冷静な判断力はエドワードのお墨付きである。

「わかりました。兵達には荷の確認をさせてください。それが終わったら出発しましょう。くれぐれも物音と灯りには注意してください」

 流石に今回の作戦では乗馬を持ってくる事は出来なかった。動きの邪魔にならないように最低限の荷物の中に食料や水、武装の予備を背負わなければならない。兵の足は鈍るが、どんな手段を講じても、夜明けまでには終わらせなければならなかった。

「は!」

 辺りは濃密な夜の闇に閉ざされていた。その中で律儀に敬礼するアスラン。
 今夜の空は濃密な霞がかかり、月はぼんやりと丸い輪郭を天空に晒すのみ。そのシャラ達の頭上を、御気に留めていた船から直接飛び立ったセレスが越えていった。竜は一気に上昇し、すぐに夜の闇に紛れ見えなくなってしまう。

「公女、セレスは一体どうされたのです?」

 セレスは常に単騎で働いている。騎士団の編成で行くとアスランやスコルとハティやヒルダといった騎馬兵が隊列を組んで行動するのに比べ、シャルレーヌやラクシュミ、ナハトなど、ルァシーやスピネル、そしてセレスは遊撃隊としてシャラの直接の指揮下にある。そのためアスランは彼女の動きを把握していないのだ。

「私が命じたんです。遅かれ早かれ我々の襲撃は神殿の警備隊に気取られるだろう。もしかしたらソスラン様に危害が及ぶかもしれません。危険な任務ですが、彼女には一足先に神殿に向かい、万が一ソスラン様に危機が迫るようであれば、我々が到着するまでの間ソスラン様をお守り差し上げるように、と」
「なるほど、了解しました。これで私は、攻めに専念すればよろしいのですね」
「そうです。簡単な任務ではありません。ただ我々に有利なのはここでは警備隊に増援が来ない事です」
「大丈夫です。私にお任せを!」
「お願いします」

 アスランとのやり取りが終わる頃、ヒルダが兵の準備が終わったことを告げに来た。

「よし、全軍進め!」

 隊列を組み、砂浜を進む。念のため船に十名弱を残し、約九十名の陣容である。
 隊の先頭はアスランの騎士隊だ。少し遅れ、ハティとスコルの軽騎士隊が脇を固める。その囲いの中をシャラとルァシーとスピネル、ラクシュミとフィアンナが進んでいた。スピネルは治療の杖を扱える剣士で咄嗟にルァシーを守る事ができるため、ルァシーの護衛として配備する。魔道士は強力な戦力だが、今回の場合は魔法を使った途端にその光や爆発音でこちらの存在が相手に知られてしまうという難点があった。
 シャラ達の左右をヒルダとイグニスの弓騎士隊が固め、殿を重歩兵と傭兵部隊が務めていた。もちろんアムルはシャラの隣を進んでいる。
 皆、息を潜め、やや間隔を取りながら徐々に進んでいく。
 発見されるのは遅い方がいい。それだけソスランやセレスが危険に晒される時間が減るのだから。
 島の空気は湿気を含み蒸し暑かった。いつ敵と出会うかという緊張感のせいもあり、歩き出してしばらくするとじっとりと、肌に張り付くような粘り気のある汗が頬を伝うようになった。
 鼻腔の奥に張り付くような潮の匂いを感じた。
 海に慣れていないシャラにはあまり心地の良いものではない。船の甲板の上で吸い込んだ潮の香りは気持ちよかったのだが、それは海上が涼しかったからだ。
 潮風が余計に不快感を高める。いや、軽装のシャラはまだましだ。アスラン、ハティ、スコルの騎士隊・軽騎士隊は重い槍を携えており、傭兵隊は大きな戦斧や人間ほどの大きさもある大剣を扱う者もある。重歩兵など、全身が鋼鉄の鎧で包まれているのだ。
 誰もが口を開かず、黙々と進み続けた。
 だが当初の予定より、イストリア島での身動きは不便であった。まず地図がない。アルフレドもいろいろ手を回してくれた上、シャラやエレイン、他傭兵や騎士達も協力して調べ回ったのだがどこにも島の地図がなかった。
 これは、それほど大きな島ではない上に、元がイストリア帝国の神殿があった場所でもあるため、積極的に近代的な測量を行う者がいなかったからだ。
 平時で、時間や人の目を気にしなくて良ければ迷うはずもない小さな島も、闇に閉ざされた状況の上、警備兵に気づかれてはならないとあれば、条件は一変する。
 イストリア島の北島は南側が深い森になっており、北側の砂浜は東に向けてずっと続いている。このような場合、森で姿を隠しながら進みたくなりがちだが、森に近づくと奥の方に石造りの灯台が姿を現した。しかもそこには煌々と灯りが点されており、つまりはいくばくかの人員がそこに詰めている事を示している。

「仕方がありません。森沿いを東に進みましょう」

 南下すると、灯台からすぐそこに見える南側の島は、どうやら切り立った断崖であるようだった。これでは、灯台の兵に見つからなくとも南側へ渡れない可能性がある。

「北島が全くの無警戒になっていないと言う事は、どこからか南へと渡れるはずだ」

 問題は夜明けまでの時間と、兵達の緊張感だ。
 シャラが伝令に方向転換を告げていると、傭兵隊にいたはずのシャノンとユミルが闇の中から唐突に顔を出した。

「公女様、あんまりのんびりできそうにないわよ〜」
「まさか、気づかれたのですか?」

 問いかけると、ユミルが頷く。

「いや、そりゃあまだだが、巡回の小隊がいる。まもなく鉢合わせしちまうかもな。俺達の規模を考えりゃ隠れてやり過ごすなんざ難しいだろうさ」

 シャラは一瞬だけ考えて決断を下した。

「……わかりました。こちらから打って出ましょう。巡回の隊なら数もそれほど多くはありません。見つかったなら、一気に攻め込んで神殿を目指しましょう!」

 その判断を歓迎したのは、シャノンとユミルである。

「よっしゃ、目立たずに隠れ回るってのは俺の性に合わなかったところだ。いっちょ派手にやってやろうかシャノン!」
「まっかせて〜! 準備運動にはちょうどいいわねっ♪」

 二人は和気藹々とし、まだ敵の姿も見えていないというのに、携えた大剣や短剣を抜き放ちながら笑っていた。シャラはその姿を頼もしく思いながら、先ほどの命令を取り消し、伝令に新たな命令を伝えた。

「全軍、東に進路をとる。後に敵と遭遇後は各小隊長の判断に任せます。ただし、闇夜故、ヒルダとイグニスの隊が先行。弓兵は先制攻撃を仕掛けた後、後退してアムル様の護衛にあたってください!」

 エリエル騎士団の動きは素早かった。先行していたアスラン、ハティ、スコルの隊を追い抜き、ヒルダとイグニスの弓騎士隊は素早く森の中に待機する。森のすぐ傍を、呑気に明かりを携えて巡回していた十数名の隊に一気に矢を射かけた。
 悲鳴と取り乱した足音が空気を揺らす。
 矢によって割れた物、兵が取り落としたせいで割れた物、目印となる事に気づいて慌てて地面に叩きつけ割った物……森の向こうに見えていた灯りは、どれも一瞬パッと輝いてすぐに消えた。

「神殿と灯台に!」

 敵の怒声が轟く。伝令を出したのだろう。しかしシャラ達にそれを捕まえる術はない。

「よし、素早く片付け増援が駆けつけるまでにこの場から移動する!」

 シャラの号令と共にヒルダとイグニスの隊は素早く後退し、入れ替わりにアスランの隊が先陣を切って突進した。負けじとばかりハティとスコルの隊も続く。
 ほとんど視界が利かぬ中、警備隊とエリエル騎士団の戦いが始まる。静止していてもうっすらとしか見えない状況で激しく動き回れば、視界はほとんど役に立たない。

「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 雄叫びを上げて、アスランが斬りかかる。
 これ以降弓矢による攻撃はない。味方を巻き込むからだ。
 昼間先頭とは違い、このような夜間戦闘ではまず相手が敵か味方か確認しなければならない。昼間先頭では以下に遠い間合いから安全に攻撃するかが肝要だが、夜間戦闘は逆に限界ギリギリまで近づいて、相手より先に攻撃するべきかせざるべきかを判断しなければならない。攻撃力でも間合いでもなく、その判断力の一瞬の差が明暗を分けるのだ。
 慎重にならざるを得ない戦闘で、エリエル騎士団の選択は逆に大胆なものだった。唯一相打ちの心配がない一瞬——つまり最初に両軍がすれ違う瞬間に全力を投じ、初手で敵のほとんどを無力化したのだ。
 結果、すぐそばにあった灯台からの援軍ともう一戦繰り広げはしたが、神殿から警備隊の援軍が到着するまでにはその場から姿を消していた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.117 )
日時: 2019/03/19 00:06
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 セレスはイストリア島の神殿を見上げていた。少し離れた場所に降り、愛竜である「エイルギナ」には大人しくするように命じて単身この場まで忍び込んできていたのだ。
 目の前にしたそれは、この大陸のどこにでもある神殿ともその特徴を異にしている。純白の石材を積み重ねた壁は、イース同盟の国々、あるいはトゥリア帝国が鏡のように磨き込まれた物を好むのに対し、この神殿は地面から切り出したそのままの目の粗い岩石を使っていた。
 柱も違う。セレスが知っている建物は基本的に柱は建物の中にある物だ。だがこの神殿の柱は、ぐるりと神殿の外観を取り囲んでいる。

「これがイストリア人の建築様式なのかしら……? いいえ、今はソスラン殿下をお探しする方が先」

 セレスが神殿の中を窺っていると、中がにわかに騒がしくなっていく。

「侵入者だ!」

 一瞬自分のことかと身を固くする。だが、

「何者だ!?」
「それはまだわからん。とにかく増援を送るのだ!」

 おそらくはシャラ達の事だろう。慌てて柱の陰に身を隠したセレスの存在には気づかず、いくつかの小隊が神殿から出撃していく。
 その喧騒が収まった頃合いを見測り、セレスは神殿へと忍び込むのであった。


 神殿に駐屯している警備隊は、約二百といったところだろうか。噂通り気の荒い兵ばかり揃っているようだが、これまでの激戦を潜り抜けてきたエリエル騎士団ならば負けはしないだろう。
 残る心配は、いよいよ追い詰められた警備隊が神殿に収容されている政治犯を殺害しないかという点である。それを心配したシャラはこうしてセレスを派遣した。もし警備隊がその気になった時、とても一人で囚人を守り抜くことなどできないが、それでも可能な限りシャラの期待に応えたかった。そのためには自分の命を天秤にかける必要があったとしても。

 神殿の中は総石造りになっていた。やはり外見と同じく使われている石材は目が粗く、うっかりしていると凹凸に足を取られかねない。床はブリタニアの街の石畳のように滑らかではないため、気を付けなければ足音がたってしまう。
 しかも中には灯りらしい灯りがなかった。おそらく物資が乏しいために個々人が自分用のランタンを持っているのだろう。
 神殿内は思った以上に簡単な造りをしていた。あまり細かく部屋割りされておらず、一つ一つの部屋が広かったからだ。すぐに探索し終わってしまう。
 あるのはもはや何十年と使われた形跡のない聖堂と水場、内装が取り払われ何のためにあるのかわからない小部屋がいくつかあるだけ。人の気配もない。
 ただ一つ。奥にある階段だけが今でも使われているようであった。
 恐らく、囚人を収容するのに地上部分だけでは解放的すぎるのだろう。
 ぽっかりと口を開けた階段の上から地下の気配を探る。淀んだ空気が流れだしている以外、人の気配はなかった。
 息を吸い込んで——それはまるで息のできない水底に潜る準備のようにして、セレスは静かに階段を下りていった。
 地下一階に降りるまでの十数段。生きた心地がしなかった。すぐそこに敵が息を潜め、無防備に降りてくるセレスに向かって今にも牙を剥くのではないかと、空気中に漂った針のように不安が体を貫く。

「ふぅ……」

 階段から降り、その場で目を閉じ意識を集中して気配を探る。逃げる気配も、近づいてくる気配もない。
 たったこれだけの動きで、セレスの頬に一筋の汗が伝い落ちた。
 セレスは積極的に動き回る事を早々に諦めていた。これでは警備兵と遭遇する可能性が高すぎる。ソスランの身を守るためにやってきたセレスが逆にソスランを危険に晒しかねない。
 闇に目が慣れてくると、ぼんやりとだが辺りの構造が見て取れるようになってきた。通路が三本ある。階段を下りてまっすぐ伸びる通路と、セレスから見て左右に真っ直ぐ伸びる通路。数え方によっては二本ともいえるだろうか。
 流石にこれだけ光源が乏しいと、それ以上は見えない。セレスは足音を忍ばせると目の前にまっすぐ伸びる通路に近づいていく。手探りで壁を伝っていくと、すぐそこに扉があるのが分かった。
 注意深く扉の握りに手を伸ばした。
 最悪の場合、この中に誰かがいてそれで見つかる場合もある。しかしセレスは、ここで表の状況に耳をそばだてながら何か異変が起こった時に飛び出そうと考えていた。
 部屋は小さく、また少し埃っぽかった。どうやらあまり使われていない物置のようだ。素早く扉から中に滑り込むと、微かな隙間を残して扉を静かに閉めていく。
 セレスは大きく息を吐き出しながら床に腰を降ろし、腰から剣を鞘ごと抜いた。下手に物音が起きないようにだ。神殿に持ち込んだのは細身の剣が一本だけである。槍は室内では邪魔になるために他の荷物と一緒にエイルギナの所に置いてきてあった。他に持ってきた物は小さな水筒が一つである。
 水筒から一口水を飲み、壁に背を預けた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.118 )
日時: 2019/03/19 20:27
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 エリエル騎士団は森を抜け出し北島から南島に渡る道を見つけていた。
 イストリア島は北と南に分かれており、これらの間を海水の川が流れている。東の方は浅くなっており、干潮になると地面が現れる様であった。
 今はまだ干潮ではないが、どうにか歩いて渡れるだけの浅瀬になっていた。幅は馬を数頭縦に並べたぐらいだ。
 周辺警戒を分担させて、細心の注意を払いながら浅瀬を渡る。海水の深さはふくらはぎのあたりまでが浸かる程度。足を取られるほどではないが多少流れがあるために、一歩一歩確かめながら次を踏み出さなければならない。自然の地形であるため、どこに深い穴が口を開いているかわからないからだ。問題は、こうしている間に敵の襲撃を受けると渡っている者が無防備になってしまう点である。

「崖の上、左十度!」

 ヒルダが鋭く部下に指示を出しながら、自らも石弓を構え崖の上を射る。
 矢が命中した警備兵は、崖の上から悲鳴を上げて転げ落ちた。
 石弓隊は素早く反応し、ヒルダが射かけた辺りを狙い次々と矢を放つ。

「石弓隊に負けるな!」

 イグニスが檄を飛ばす。
 新たに現れた警備隊は弓兵の部隊のようだ。先ほどの巡回よりも確実に数は多い。こちらの弓兵隊の一斉射を潜り抜け、向こうから放たれた矢のいくつかがシャラの足元へと突き立った。

「慌てなるな! 海水に足を取られますよ!」

 浅瀬を渡っていた騎士団員が浮足立ちかけると見るや、シャラは声を張り上げた。
 既に先頭のアスラン隊は浅瀬を渡り切っている。
 どうやら崖の上にいる敵兵にはそれが分からないらしく、すぐ下にいるアスラン達には無警戒であった。
 アスランがこちらを見ているのに気が付いたシャラは、小さく頷く。
 崖は左右に回り込めるようになっていた。ヒルダの隊とイグニスの隊が気を引いている間に、アスランは崖を登りそして警備隊の弓兵達を一気に制圧した。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.119 )
日時: 2019/03/19 21:34
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 じっと目を閉じ、闇の中の気配に神経を尖らせていたセレスはそっと目を開ける。
 地上から誰かが階段を降りてくる。

「ちくしょ〜、なんて奴らだ」

 シャラ達はどうやら無事に進んでいるようだ。セレスはひとまず安心しながら耳を澄ませた。

「一体、奴らは何者だ?」
「俺が知るかよ」

 足音からすると人数は五。

「ただの叛乱軍じゃないのは確かだ」
「じゃあトゥリア帝国軍かよ!?」
「いや、帝国がこんなちっぽけな島を攻めてどうなる? やはり奴らの目的は政治犯の奪取だ!」

 政治犯に話題が向けられ、セレスは緊張した。

「このままじゃ俺達も皆殺しになっちまう!」

 肩越しに男の狼狽が伝わってくる。

「どうする? あいつらを人質にして逃げるか?」

 それはこちらにとっても好都合である。人質を連れられ延々と逃げられてしまえば面倒だが、船まで逃げた所で人質を解放するように約束させればソスランの安全は逆に保証されたようなもの。しかも彼らの様子からすれば、シャラ達の正体もわかっていないようだ。
 だがセレスの安堵は空振りに終わる。

「構いやしねえよ! 囚人共は全員ぶっ殺してとっとと逃げりゃいい。船は奴らが攻めてきたのとは逆方向にある。神殿の中を探している間に、俺らはトンズラって寸法だ」
「しかし、そんな事がばれたら……」
「ば〜か、心配すんなって。トゥリア帝国との戦争でイース王家は存亡の危機なんだからよ。俺らみたいな小物に関わってる暇なんてねえよ。けけけ、適当に山奥に籠って山賊の真似事でもしてりゃいいんだよ」
「いいな、それ。武器や防具だけはいいモンが揃ってる。これだけあれば……」
「そういう事だ。早い事囚人共を始末してズラかろうぜ!」

 遠のいていく声に、セレスは床に置いていた剣を拾い上げ音もなく扉を開いた。
 セレスが隠れていた物置のすぐ横を通り抜け、男たちは臆へと消えていく。後姿はすでに見えなくなっていたが、彼らが手にしているランタンの光芒が通路の奥へと進んでいた。

「ふぅ」

 もう一度深呼吸をし、ゆっくりと後をつけ始める。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.120 )
日時: 2019/03/19 22:13
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 男達は先ほどの廊下をまっすぐ奥に進み、さらに階段を一つ降りた。
 彼らが次の間へと進んだところで、セレスも後を追って地下二階に降りる。そこは地下一階とは違って壁に据え付け型のランプが備えられていた。
 頼りない灯りに階段の周りが照らし出される。
 階段の周りは小さな部屋になっていて、地下二階だというのに小さな窓が開いていた。そこからは闇の世界と静かな波音が聞こえてくる。どうやら崖の中腹に開けられた窓のようだ。
 相手は最低五人。せめて戦いやすい場所を選びたいところだ。
 素早く次の扉に取りつく。男達はまだ次の間で、さらに次の部屋へと続く扉の鍵を開けるのに手こずっていた。

「てめえ、さっさとしろ!」
「何もたついてやがんだよ!」

 軽歩兵が一人、重歩兵が三人、最後の一人はどうやら弓兵のようだった。
 セレスは覚悟を決めてそっと扉を開けて飛び出す。音もなく剣を抜き放ち、次の間の扉に意識を奪われている五人の背後から、迷うことなく弓兵へと襲いかかった。

「ぎゃ!」

 驚いたような声だけ残して、弓兵は床に崩れ落ちた。
 セレスの手に握られたそれは、長さは長剣よりやや短く、剣身は一件華奢に映るほど限りなく贅肉を落とされている。このような剣は斬るには向いていない。刺突を放ち、一瞬で敵を絶命させるための剣である。単身で神殿に乗り込むに際し、念のためにとシャラから賜った「コンコルディア」と呼ばれる細剣であった。
 セレスは弓兵から剣を引き抜き、一振りすることで血糊を払った。

「残念ですが、この先に進ませることはできません。このまま逃げるなら良し。もし退却を選ばないのであれば私が相手になりましょう」

 最初、セレスがなぜここにいるか理解できなかった男達だったが、侵入者が一人きりしかいない事にはすぐに気が付いたのだろう。それぞれの得物を抜き放ち下卑た笑みを浮かべた。

「へへへ、どうやって忍び込んだかは知らねえが、俺達四人を相手にするつもりか?」

 重歩兵三人は大剣を、軽歩兵は長剣を手にしていた。
 武装に関しては、それほど強力な者はいない。一番恐ろしかったのは弓兵が持っていた石弓だが、これは沈黙した。
 こちらの部屋も階段があった部屋と同じく壁に灯り——ただしこちらは松明が掲げられている。だが限られた広さで四人に囲まれ、いつまでも逃げ回っているわけにはいかない。
 四人の敵兵は、こちらを睨みながら徐々に横に広がりセレスを包囲し始めた。

「ゆっくり可愛がってやりてえが、残念ながら時間がねえ。とっととぶっ殺して俺たちがここにいた痕跡消してズラからしてもらうぜ!」
「やれるものならやって御覧なさい!」

 セレスは素早く走り寄った。狙うは軽歩兵。少なくとも重歩兵は、重装備が仇となってセレスの動きについてこられない。であるならば、軽歩兵をどうにかしておいて、あとはシャラ達が駆けつけるまで睨み合いに持ち込むのが最良の策である。
 だが、走り寄った勢いそのままに突き出したコンコルディアの切っ先を横合いから突き出された大剣の横っ腹が防いだ。

「なっ」

 素早く剣を戻す。
 重歩兵が素早く動いた……わけではない。投げたのだ、大剣を。

「くっ」

 セレスが気を取られた隙に、逆に軽歩兵が踏み込んできて突きを放つ。
 どうにか身を翻すが、髪の一房が宙を舞った。

「へへ、避けた避けた。すげー」

 仕方なくセレスは距離を置く。その隙に先ほど自らの剣を投じた重歩兵は、壁際に落ちた自分の剣を拾いに行った。
 セレスは一人、敵は四人。だからこそ、普通なら考えられない戦いができる。四人の内の一人、あるいは二人が武器を投げつけても、残りの二人が牽制すればそれを取りに行く余裕ができる。

「くっ」

 旗色は圧倒的に悪かった。

「ほらよ!」

 左の死角から重歩兵の一人が迫ってくる。応戦したくとも、コンコルディアでは大剣の攻撃を受けた途端へし折れるだろう。
 仕方なく後退。
 そこに軽歩兵が距離を詰めていた。

「予想通り!」

 余裕のせいだろう、動きが大きい。どうにか避けるが、切っ先は浅く腿を傷つけた。

「ほらほら姉ちゃんよ〜、あとがねえぞ〜」

 そこへ、先の間にさらに何者かの気配が現れた。階段を使って地下一階から降りて来たのだ。
 四人の警備兵もジリジリと詰めてくる。
 やはり一人で飛び込むなど無謀だったのだろうか。セレスが唇をかみしめた時、

「女相手に四人がかりとは、あんまりいい趣味とはいえんぞお前ら」

 聞き覚えのある声が、扉の向こうから聞こえてくるのだった。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.121 )
日時: 2019/03/20 19:44
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

 イストリア島に駐屯していた警備隊との戦いは、既に収束しつつあった。
 気が荒く、手強い兵が揃ってはいたが、彼らの間には連携がなかった。それがエリエル騎士団との大きな違いである。
 形成が不利になった途端、前線は崩壊し、持ち場を投げ出す者が続出した。
 神殿周辺の残敵掃討は部下に任せ、シャラは一人で神殿の中へと足を踏み入れた。
 人気のない地上部分を、兵達の詰め所代わりに使われていた地下一階部分を通り過ぎ、地下二階へと進んでいく。
 ソスランの事もそうだが、それ以上に無茶な事を頼んだセレスの身が心配だったのだ。
 地下二階への階段を駆け下りたシャラの目の前に、一人の青年が姿を現した。待ち構えていたわけではない。相手も丁度、奥の部屋から出てきた所だ。

「……お前」

 相手の青年は一瞬驚いたようだったが、すぐに冷静になり、シャラを上から下まで眺め意味ありげな声を漏らした。
 青年は竜人らしく耳が長く、紫の短髪、頭から生えている二本の白い角、そして濃い紫色の衣服が目立つが、驚くべき事は彼は鎧を装備せず、傭兵のような軽装であった。
 鋭い眼光でシャラを見ているが、どこか優し気で勇敢なその瞳は、まるでサファイアのように青く澄んでいる。
 薄暗くてよく見えなかったが、心なしか衣服が赤黒いまだら模様になっている。……返り血か? とシャラは警戒する。目の前の青年は一体何者なのだろうか。

「あなたは、一体何者ですか?」

 誰何しながらシャラは半ば反射的に腰に下げている剣——シエラザッドを握りしめる。

「誰かと問いながら剣を手に取るか……」

 青年も背中に背負っていた青い槍を手に握りしめる。その槍は海のように青い刃が先端にあり、薄暗いというのにほのかに光り輝く不思議なものだった。それを彼は構える。

「正しい判断だな」

 青年が浮かべるのは刃物のような笑みだった。
 シャラは一層警戒を強める。目の前の青年が敵なのか、味方なのか。少なくともこれまでにこの島で見てきた警備隊とは明らかに雰囲気が違う。このような僻地に追いやられ鬱屈している様子は少しもなかった。
 それに、殺気もなかったのだ。

「どうしたんだ、この期に及んで迷うのか?」

 青年は一歩進み出た。気圧される形で、シャラは一歩階段を昇った。

「いいだろう。ならばその気にさせてやるよ、エリエル公国のシャラザード公女」
「なっ……なぜ私の名を!?」

 青年は意味深な笑みを浮かべさらに一歩踏み出した。

「お前の父は、もっと隙がなかったぞ」
「な、父上!?」

 青年は一気に走り出した。鋭利な槍を握って。
 シャラは階段を昇ろうとして、すぐに思い直して手すりから身を躍らせ地下二階の床に飛び降りた。

「ふむ」

 階段の中程で男はゆっくりと振り返る。地下一階に昇ってしまえば灯りがほとんどない。青年がどういうつもりかはわからないが、満足に動けない中、もし彼が何か方法を用意していたら圧倒的な不利に陥ってしまう。そう考えたのだ。

「父上を……あなたは父上を知っているのですか?」

 ゆっくりと階段を下りながら青年は笑った。

「甘いな。アイオロス公であれば、俺を捻じ伏せ力ずくで聞きだしただろうな……」

 青年は腰に手を当ててにぃっと笑う。こんな状況なのになぜ彼は笑っていられるのだろうか……。

「ん、ところで、俺の名を聞いたことはないのか? トゥリア帝国竜騎士団、「竜将ティニーン」。「キドル・ティニーン」の名を」

 シャラはその名を耳にした瞬間、カッと頭に血が上った。
 その名は、東部戦線において、多くの離反者に苦しむアイオロスの命を非常にも奪い去った男の名前。

「きっ……貴様! 貴様が「キドル・ティニーン」か!?」

 キドルは、小さく唇の端を釣り上げた。
 なぜ、イース王国の直轄地であるイストリア島に帝国軍の将軍がいるのかと、疑問を持たなければならない点が吹き飛んでいた。
 ギリギリと、皮の手袋が軋みを上げる程剣を握りしめ、そしてシャラは突進した。

「てえぇぇいっ!」

 距離を詰めつつシャラは渾身の斬撃を放つ。キドルはそれを槍を使って受け流し、手慣れた様子で槍をくるりと回す。
 キドルは相変わらず涼しい顔でシャラを見ながら、階段から素早く床に降り改めて構えを取った。

「どうした、それで終わりか? 親子揃ってだらしのない」

 エリエル公爵家はまだ歴史が浅い。そのため周囲からは不当な扱いを受けていたが、アイオロスは勇猛果敢なる猛将だった。イース同盟諸国中に勇名を轟かせていたのだ。

「父上を侮辱するなぁっ!」

 シエラザッドを振るって、頭上からの振り下ろしと突きを放つ。しかしキドルは槍を操りそれらをあっさりといなした。

「くっ」
「アイオロスは、ボロボロに疲れ果てていた。数々の同胞に裏切られ、そしてさらに多くの同胞に裏切られるのではないかと不安に駆られながら、必死で戦線を支えようとしていたよ。……哀れなほどにな」

 ソスランが失脚したため、アイオロスは東部戦線を一人でまとめなければならなかった。しかし、同胞だと信じていた者の巧妙な切り崩しに遭い、一人、また一人と裏切ってトゥリア帝国側に寝返っていったという。
 アイオロスは寝る間も惜しみ、寝返ろうとする者を説得し、あるいはモルドレッドに陳情の書状をしたため、兵達の士気を鼓舞するために戦場を駆け回った。そして……

「無様な突撃の末、この俺の槍にかかって死んだ。この槍にだ」

 そういってキドルは自らの槍を誇示するように突き出した。

「この槍がお前の父親の胸板を貫いた。今でもアイオロスの屍は、砂漠のどこかで野ざらしになっているだろう。貴様も父の後を追うがいい!」

 シャラは無言で剣を振るった。
 キドルは平然とそれを受け止めるが、シャラは構わず、さらに剣を叩きつける。
 だがどのような角度からの斬撃であっても刺突であっても、キドルは易々と対応するのだ。

「ふん、そうやって無茶苦茶に剣を振るったところで無駄だ! 俺を斬るより先に剣が折れるだけだぞ!」

 確かに、シエラザッドから伝わる手応えが変わってきていた。
 体勢を立て直すべきだと、冷静になるべきだと、内なる声がシャラに警鐘を鳴らす。しかしその度、たった今聞いたばかりのアイオロスの死に様が蘇り、シャラの身体を勝手に突き動かす。

「そんなに剣を折られたいなら、望み通り叩き折ってやる!」

 突然、キドルが攻勢に出る。
 槍を振りかぶり、猛烈な勢いでシャラに向かって刺突する。
 凄まじい速さでシャラは一瞬を突かれた。だが、シャラはそれを素早く避ける。だが、横っ腹に命中し、衣服が破れ横っ腹から血が流れた。

「ぐぅ……っ!」
「判断は良かったが遅いな」

 シャラは痛みで少し冷静さを取り戻した。彼の槍を避ける事に専念し、キドルを観察した。
 何度か彼の攻撃を受けつつも、彼の大きな癖に気が付いた。彼は素早い動きで翻弄しつつも、動きが少々大きい。そのため、攻撃をかわされると一瞬だが無防備になる。
 彼の師匠が剣の使い手なのだろうか、槍を剣のように振っているのである。……それとも、他に理由があるのだろうか。
 だが一瞬だけの隙をついてシャラは次の一撃を避け、キドルの背後に回り込んだ。
 踏み込むと同時に剣を振り上げ、腕の、肩の、背の、腰の筋肉を使って限界まで体をねじり上げ力を溜め、そして放つ。
 振り返ったキドルは驚くべき事に、にんまりと笑っていた。まだ反撃する余力があるのだろうか。シャラの剣は、確かに背後からキドルの身体を捉えた。鎧を着ていない彼の身体から鮮血が飛び散る。
 キドルは崩れ落ち、床に手をついてどうにか体を支える。彼の呼吸は乱れ、見る間に血がしたたり落ち石の床に黒いシミを広げていった。
 シャラはシエラザッドを構え、そして迷っていた。
 とどめを刺すのは簡単だ。たとえこれが何かの芝居だったとしても、この体制から攻撃すれば避ける隙はない。相打ちに持ち込む事すら容易ではないだろう。だがあの笑みだけが、理解できなかった。

「迷う、か? お前の怒りは、それっぽっちのものなのか? では祖国を……奪われるのも当然だな」

 エリエルは既に帝国の手に落ちていた。噂では、公爵家の人間や多くの市民は逃げ延びたと言うが。
 エオスはどうしているだろう。無事なはずだ。帝国の手が伸びてくるのを待っているはずがない。それでも、という一抹の不安は消えない。今すぐ助けに飛んでいくことができれば、どれほどよかっただろう。だがシャラにはやるべき事がある。

「ははっ……いいだろう。俺は生き延びる。生き延びて、お前が今頭の中に思い浮かべた者を探し出して縊り殺してやろう!」

 そう言い放つとキドルは槍を使って体を支えながら立ち上がる。
 シャラの脳裏には、エオスが帝国の手に囚われ無残に殺される姿が、ありありと浮かび上がった。

「あ、あ、あああぁぁぁぁっ!」

 その瞬間、キドルの笑みの不振など消し飛んでいた。シエラザッドを振り上げる。シャラにそうさせたのは衝動以外の何物でもない。
 キドルは動けない。この一撃を放てば、ただ腕に力一杯、まっすぐに突き出せばすべてが終わるはずだった。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.122 )
日時: 2019/03/20 19:43
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 シエラザッドの切っ先は鋭い金属音に阻まれ、キドルに届くことはなかった。
 シャラは驚きに目を見開く。
 それは銀色の刃を持つ短剣だった。刃と柄の間にシエラザッドは受け止められている。それがシャラとキドルの間に割り込み鮮やかにシャラの一撃を阻んだのだ。
 そしてそれを持ちこの場に割り込んできた人物にこそ、シャラは驚愕せずにはいられなかった。

「く、クリス!?」

 シャラには同行せず、王都ブリタニアにいるはずのクリスであった。なぜここにいるのか、そもそもなぜ彼がキドルの前に立ち塞がっているのかと、信じられない思いでシャラはまじまじとクリスの顔を見る。

「シャラザード公女、剣をお納めください」

 クリスは哀し気にシャラの瞳を見ている。こんなにしっかりと彼の顔を見つめたのは初めてだったかもしれない。
 瞳は炎のように燃える赤色、普段はフードで顔を隠しているせいか気づかなかったが、女性のように白い肌、意外なほど頬から顎にかけての線は華奢だ。まさに美少年といったところか。
 だがそれに気が付くのがどうして今という瞬間なのだろう。
 シャラに対し「信じている」と言ってくれて協力してくれた彼。そのクリスはなぜシャラの剣を阻むのだ。

「スト……クリス! 隠れていろと——」
「貴方が死ぬところなど見たくはないんです。貴方は死んではいけない」

 しかもお互い名を知っている様子だ。

「どうして……?」

 クリスに問いかけたのだろうか、自分でもわからないほど弱々しい声に、彼はこちらを向いた。

「公女、この方の命を奪ってはなりません」
「な、何を言うのですか! その男は我が父の仇。それをっ、何故なのですかクリス! 答えなさいっ!」

 だが彼は再び悲しげに目を伏せたまま首を横に振った。答えぬまま、そして再びキドルを見る。

「ここはお引きを」

 クリスに続いてもう一人、妙齢の女性が奥の部屋から姿を現した。青い髪を束ねた女騎士……セレスだった。
 セレスはシャラと傷を負ったキドルを見て状況を把握した様子だった。
 そんなセレスにクリスは静かに口を開く。

「セレス。兄さんを逃がしてあげてください」
「えっ……?」

 クリスの言葉にシャラは驚いて声を上げる。
 セレスは黙って頷くと、キドルに肩を貸して彼の身体を支え、地下一階に続く階段を昇っていく。
 今、神殿内は混乱を極めている。一人や二人、抜け出すことは難しくないだろう。

「何故ですか、クリス……それにセレスは……」

 地下二階に取り残されたのは、シャラとクリスの二人きりだった。
 二人はまだ、剣と短剣を引かずにいた。もはやどちらの腕にも力は入っていない。だが戻すに戻せず、力なく問いかけるのが精いっぱいだった。

「申し訳ありません、僕は……いえ」

 彼は何一つ弁解せず、その言葉と共に短剣を引いて懐にしまう。
 行き場を失ったシャラのシエラザッドが、静かに降ろされる。

「貴方は……」

 問うべき言葉が声となる前に、クリスはシャラの手を取り、手紙を手渡す。

「この島を出た後に読んでください。……貴女を欺くような真似をして、本当に申し訳ありません」

 クリスはそう言い残すと、階段を駆け上りキドルとセレスの後を追っていった。
 シャラは呆然と階段を見つめ、手紙を握りしめていた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.123 )
日時: 2019/03/20 22:52
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


「君には命を救われたな、ありがとう」

 それが別れ際の、ソスランの言葉だった。
 無事にソスランの救出に成功したエリエル騎士団は、イストリア島からブリタニア港へと帰港した。もちろん誰にも内緒のうちにだ。
 シャラ達の帰還を待っていたアルフレドは、ソスランの身の振り方を用意していてくれた。もちろんブリタニアに居続けることはできない。まだイストリア島の異変はこちらまで伝わっていないだろう。しかし時間の問題だ。そうすれば、ソスランの存在を恐れるモルドレッドの命で、最優先で手配されるだろう。
 アルフレドが用意してくれた道は、イース王国西部であった。

「私は西部側に向かい、エリエル側から侵攻する帝国軍を食い止め、一人でも多くの民達を守ろうと思う」

 ソスランはそう決意し、西側へと向かう。
 そして彼は、ラクシュミの頭を撫でながら優しく囁く。

「君はシャラ公女の傍にいて、彼女の力になってあげなさい。私の代わりに」

 ラクシュミはせっかく再会できたのにという気持ちを押し殺し、精一杯の笑顔で彼を見送る。
 イース王国西部は海に囲まれており、唯一エリエル公国に繋がる橋が架かっている。今はまだ帝国軍の侵攻はないようだが、いずれイース王国へとやってくるだろう。それに、西部にはエリエル公国の民が、エオスが逃げ込んできているかもしれない。
 アルフレドはブリタニアの商業ギルドとイース神殿に連絡を取り、西への小隊を派遣させると共に、念のため西部のイース神殿に補給物資を届けるという口実でイース神殿からも馬車を出してもらった。

「ソスラン様、その……エオスを、お願いします」
「ああ、命に代えても必ず」

 そしてソスランは笑みを浮かべながら

「シャラの武運を祈っているよ」

 と言い残し、シャラと固く握手を交わして西へ旅立つ馬車の荷台に乗り込むのだった。